ARABIA カレリア(Karelia)のティーカップ&ソーサーとプレート|明るい地に茶とグレーの帯

カレリア(Karjala)とは|引き直された国境とカレワラの歌、ARABIAの器に残った名前

北欧食器タックショミュッケ編集部
北カレリアのコリ国立公園ウッコ・コリから望むピエリネン湖|トウヒの向こうに小島の浮かぶ秋の湖
北カレリアのコリ国立公園、ウッコ・コリの頂から望むピエリネン湖。対岸の森が黄葉する10月の眺め(Pentti Rautio/CC BY-SA 3.0)

カレリア(Karelia、フィンランド語ではカルヤラ Karjala)は、フィンランドとロシアの国境をまたいで広がる森と湖の土地です。フィンランドの国民的叙事詩『カレワラ(Kalevala)』のもとになった歌が書き留められた土地であり、19世紀の終わりには、画家や作曲家が「フィンランドの原風景」を探して旅をした土地でもありました。

第二次世界大戦中の1940年と1944年、フィンランド領だったカレリアの多くはソビエト連邦に割譲され、多くの人びとが故郷を離れました。ARABIAのカイ・フランク(Kaj Franck)や、ヌータヤルヴィのガラスの鳥で知られるオイバ・トイッカ(Oiva Toikka)は、カレリアで生まれたデザイナーです。

この記事では、カレリアの地理と国境の歴史、戦前の都市ヴィープリ、カレワラとカレリアニズム、暮らしの手ざわりを順にたどります。そのうえで、カレリアの名をもつARABIAのピッチャーや、カレワラの場面を描いたイヤープレートなど、器に残ったカレリアの名前を紹介します。

この記事でわかること

  • カレリアがどこにあり、フィンランド側とロシア側でどう分かれているか
  • 1323年から1947年まで、国境が引き直されてきた歴史と、40万人を超える人びとの移住
  • リョンロートがカレワラの歌を書き留めた村と、カレリアを旅した画家・作曲家たち
  • カルヤラの名をもつARABIAのピッチャーや、カレワラのイヤープレートなど、器に残ったカレリアの名前
目次
  1. カレリアとは——国境をまたぐ森と湖の土地
  2. 引き直されてきた国境——1323年から1947年まで
  3. ヴィープリ——国境の向こうに残った街
  4. カレワラの歌が残った村——リョンロートとヴィエナ・カレリア
  5. カレリアニズム——芸術家たちが探した原風景
  6. カレリアの暮らしの手ざわり——木の家、刺繍、カレリアパイ
  7. 器に残ったカレリアの名前——ARABIAのカルヤラとカレワラ
  8. カレリアに生まれたデザイナーたち
  9. まとめ

カレリアとは——国境をまたぐ森と湖の土地

カレリアは、フィンランド南東部からロシア北西部にかけて広がる歴史的な地域です。フィンランド側には北カレリア県と南カレリア県があります。ロシア側にはカレリア共和国と、フィンランド湾とラドガ湖のあいだに延びるカレリア地峡(レニングラード州)があります。

名称 カレリア(英語 Karelia/フィンランド語 Karjala)
フィンランド側 北カレリア県、南カレリア県
ロシア側 カレリア共和国、カレリア地峡(レニングラード州)
歴史的な区分 カレリア地峡、ラドガ湖北岸のラドガ・カレリア、白海に近いヴィエナ(白海)カレリアなど
湖 ラドガ湖(ヨーロッパ最大の湖)、ピエリネン湖など
戦前の中心都市 ヴィープリ(Viipuri)。1939年の人口は約7万4千人
割譲 1940年と1944年。国土のおよそ1割
移住した人 40万人を超え、国民の1割強
ARABIA カレリア(Karelia)のティーカップ&ソーサーとプレート|明るい地に茶とグレーの帯
ARABIA カレリア(Karelia)のティーカップ&ソーサーとプレート。縁に茶とグレーの帯がめぐる(器に残ったカレリアの名前で紹介)

北カレリアのコリと、ピエリネン湖

北カレリアのコリ(Koli)は、ピエリネン湖の西岸にそびえる丘陵で、1991年に国立公園になりました。翌1992年には、フィンランドの「国民的風景(kansallismaisema)」のひとつに選ばれています。頂から見下ろすと、湖に小さな島々が浮かび、対岸まで森が続きます。

画家エーロ・ヤルネフェルト(Eero Järnefelt)は1892年に初めてコリを訪れ、1936年まで通い続けました。1899年の《ピエリスヤルヴィ湖の秋景色》は、フィンランドの人びとが思い浮かべる国の風景のひとつになりました。

ラドガ湖

ラドガ湖はヨーロッパで最も大きな湖で、面積はおよそ1万8千km²に及びます。北岸のラドガ・カレリアは、第二次世界大戦まではフィンランド領でした。夏の夜明けには、凪いだ湖面に空の色がそのまま映ります。

夜明けのラドガ湖|凪いだ湖面にピンクと水色の雲が映り、中央にムスタサーリ島の影
6月の夜明けのラドガ湖北部。湖面に雲が映り、中央にムスタサーリ島の影(KpokeJlJla/CC BY-SA 4.0)

南カレリアのイマトラの急流

南カレリアのイマトラ(Imatra)には、ヴオクシ川の急流イマトランコスキ(Imatrankoski)があります。19世紀の終わりの着彩写真には、白く泡立つ流れと、そこに架かる鉄橋が写っています。

19世紀末のイマトラの急流イマトランコスキの着彩写真|岩の間を白く泡立つ流れと奥の鉄橋
1890年代のイマトラの急流。両岸の森と奥の鉄橋(フォトクローム/米国議会図書館所蔵/パブリックドメイン)

引き直されてきた国境——1323年から1947年まで

カレリアは、何度も国境線が引き直されてきた土地です。1323年のノーテボリ条約で、スウェーデンとノヴゴロドがカレリアを西と東に分けました。1617年のストルボヴァ条約では、ラドガ湖北岸などがスウェーデン領になりました。

18世紀に入ると、1721年のニスタット条約と1743年のオーボ条約によって、ヴィープリを含む地域がロシア領になりました。この地域は「旧フィンランド」と呼ばれ、1812年にロシア帝国のもとのフィンランド大公国へ編入されています。1917年、フィンランドは独立を宣言しました。

年 できごと
1323年 ノーテボリ条約。スウェーデンとノヴゴロドがカレリアを分ける
1617年 ストルボヴァ条約。ラドガ湖北岸などがスウェーデン領に
1721年・1743年 ニスタット条約とオーボ条約。ヴィープリなどがロシア領(旧フィンランド)に
1812年 旧フィンランドがフィンランド大公国に編入される
1917年 フィンランドの独立
1939年11月 冬戦争が始まる
1940年3月 モスクワ講和。カレリア地峡とヴィープリ、ラドガ湖北岸を割譲
1944年9月 モスクワ休戦協定。1940年の国境が改めて定められる
1947年 パリ講和条約で国境が確認される

冬戦争と、40万人を超える人びとの移住

1939年11月、ソビエト連邦の侵攻によって冬戦争が始まりました。1940年3月のモスクワ講和で、フィンランドはカレリア地峡とヴィープリ、ラドガ湖北岸を割譲しました。続く継続戦争ののち、1944年9月の休戦協定で同じ国境が改めて定められ、1947年のパリ講和条約で確認されました。

1939年12月、カレリア地峡から馬橇で避難する家族|雪の森の道に毛布にくるまった女性と子どもたち
1939年12月2日、冬戦争の始まった直後のカレリア地峡。干し草を敷いた馬橇で避難する家族(SA-kuva/パブリックドメイン)

割譲された土地は国土のおよそ1割にあたり、移り住むことになった人は40万人を超えました。国民の1割強にあたる人数です。人びとはフィンランド各地に移り住み、新しい土地で暮らしを立て直しました。

ヴィープリ——国境の向こうに残った街

カレリア地峡の付け根、フィンランド湾の奥にあるヴィープリ(Viipuri、スウェーデン語ではヴィーボリ Viborg)は、中世から続く古い街です。商業と交通、行政の中心として栄え、1939年の人口は約7万4千人でした。トゥルクやタンペレとともに、国内有数の都市に数えられていました。

1930年代の写真には、石造りの円塔のまわりの市場広場に、白い日除けの露店がびっしりと並んでいます。馬車と自動車が行き交う広場の様子からは、港町のにぎわいが伝わってきます。

1930年代のヴィープリの市場広場|ドーム屋根の円塔のまわりに白い露店が並び、人と馬車が行き交う
1930年代のヴィープリの市場広場と円塔(Helios Oy/ラッペーンランタ市立博物館所蔵/CC BY-SA 4.0)

アアルトのヴィープリ図書館

建築家アルヴァ・アアルト(Alvar Aalto)が設計したヴィープリ図書館は、1935年に完成しました。戦後に大きく手を加えられたのち、修復が進められ、2013年に修復を終えて再び開館しました。白い直方体の建物に、格子状のガラス窓をもつ階段室が並びます。アアルトのガラスの仕事はアルヴァ・アアルト完全ガイドで紹介しています。

アルヴァ・アアルト設計のヴィープリ図書館|白い直方体の建物と格子状のガラス窓の階段室
2014年9月のヴィープリ図書館。白い外壁と、格子状のガラス窓をもつ階段室(Ninaraas/CC BY 4.0)

ヴィープリで生まれた会社、ハックマン

フィンランドを代表するカトラリーの会社、ハックマン(Hackman)は、1790年にヴィープリで創業しました。1940年、ハックマンは本社をヘルシンキへ移し、創業の地は国境の向こうに残りました。ハックマンには、金工家ベルテル・ガードベリ(Bertel Gardberg)が1963年に発表した「カレリア(Carelia)」という名のカトラリーもあります。ハックマンの歩みは北欧のカトラリー完全ガイドでたどれます。

カレワラの歌が残った村——リョンロートとヴィエナ・カレリア

医師のエリアス・リョンロート(Elias Lönnrot)は、1828年から1844年にかけて11回の採集旅行に出て、各地の歌い手から口承詩(ルーノ)を書き留めました。1832年の旅で、リョンロートは初めて国境の東のヴィエナ(白海)カレリアに入りました。

エリアス・リョンロートの肖像画(1872年)|白髪の老紳士が膝の紙にペンで書き込み、足元にカンテレと本
ベルンハルト・ラインホルト《エリアス・リョンロートの肖像》1872年。足元にカンテレと本(ヘルシンキ大学所蔵/パブリックドメイン)

1834年4月、リョンロートはウフトゥア、ヴオッキニエミ、ラトヴァヤルヴィの村々を訪ねました。ラトヴァヤルヴィでは歌い手アルヒッパ・ペルットゥネン(Arhippa Perttunen)に会い、数日にわたって彼の歌を書き留めています。

1894年のヴィエナ・カレリアのラトヴァヤルヴィ村|丘の上に玉ねぎ形の屋根の木造礼拝堂と丸太の家々
1894年のラトヴァヤルヴィ村。丘の上に木造の礼拝堂と丸太の家(I・K・インハ撮影/フィンランド文化遺産庁所蔵/パブリックドメイン)

こうして集めた歌をもとに、リョンロートは『カレワラ』を編みました。序文の日付は1835年2月28日で、この日はのちに「カレワラの日(フィンランド文化の日)」になりました。1849年には、50章からなる『新カレワラ』が刊行されています。

リョンロートが訪ねたウフトゥアは、1963年に叙事詩の名をとって「カレヴァラ(Kalevala)」と改名されました。19世紀の終わりにウフトゥアで撮られた写真には、向かい合って手を取り合い、歌を交わす二人の歌い手が写っています。

1894年、ウフトゥア村で向かい合い手を取り合ってルーノを歌うヤマネン兄弟
1894年、ウフトゥア村の歌い手ヤマネン兄弟。手を取り合ってルーノを歌う(I・K・インハ撮影/パブリックドメイン)

日本語で読むカレワラ

『カレワラ』は日本語にも訳されてきました。1930年代には森本覚丹による全訳が、1976年には小泉保による全訳が出ています。ARABIAがカレワラの場面を毎年1枚のプレートに描いたシリーズは、アラビア イヤープレート(カレワラ)完全一覧ガイドで一覧にしています。

カレリアニズム——芸術家たちが探した原風景

1890年代を中心に、フィンランドの画家や作家、作曲家は、カレリアに「フィンランド文化の源」を見いだし、相次いで旅に出ました。この流れは、のちにカレリアニズム(Karelianismi)と呼ばれるようになります。ロシア帝国のもとの大公国だったフィンランドで、自分たちの言葉と物語、風景を見つめ直す動きが高まっていた時代でした。

画家アクセリ・ガッレン=カッレラ(Akseli Gallen-Kallela)は、1890年の新婚旅行で東部カイヌー地方のクフモに滞在し、そこから国境の東のカレリアへ足を延ばしました。この旅から、カレリアニズムの流れが始まりました。ガッレン=カッレラはその後、『カレワラ』の場面を数多く描きました。1893年の《サンポの鋳造》は、鍛冶のイルマリネンが富をもたらす不思議な宝「サンポ」を鍛える場面です。

アクセリ・ガッレン=カッレラ《サンポの鋳造》1893年|森の鍛冶場で赤く燃える炉の前で働く男たち
アクセリ・ガッレン=カッレラ《サンポの鋳造》1893年。森の鍛冶場の炉と煙(フィンランド国立美術館アテネウム所蔵/パブリックドメイン)

写真家I・K・インハ(I. K. Inha)は、1894年にヴィエナ・カレリアを撮影しました。その写真は1911年の本『カレワラの歌の地より』にまとめられています。

シベリウスの《カレリア》

作曲家ジャン・シベリウス(Jean Sibelius)は1893年、ヴィープリの学生団体の依頼を受けて《カレリア》の音楽を書きました。ヴィープリ県の民衆教育を支援する催しのための音楽で、同じ年の11月に初演されました。のちに序曲(作品10)と組曲(作品11)にまとめられ、組曲は広く演奏されるようになりました。

1900年ごろのジャン・シベリウスの肖像写真|ストライプのスーツに蝶ネクタイ、葉巻を手にした姿
1900年ごろのジャン・シベリウス(ダニエル・ニューブリン撮影/フィンランド文化遺産庁所蔵/パブリックドメイン)

カレリアの暮らしの手ざわり——木の家、刺繍、カレリアパイ

北カレリアのイロマンツィなど、国境に近い土地には、正教会の小さな丸太の礼拝堂(ツァソウナ)が建っています。風雨にさらされて灰色になった丸太の壁に板葺きの切妻屋根がかかり、その頂に鱗のような小さな丸いドームと八端十字架が載ります。

北カレリア・イロマンツィのソンカヤ正教礼拝堂|灰色の丸太の壁と切妻屋根、鱗状の小さなドームに八端十字架
北カレリア・イロマンツィのソンカヤの正教礼拝堂(ツァソウナ)。白樺の葉が落ちはじめた10月(Niera/CC BY-SA 4.0)

北カレリアのヌルメスにあるボンバ・ハウス(Bomba-talo)は、カレリア様式の大きな丸太の建物です。窓まわりや破風、張り出したバルコニーの彫刻の装飾が、雪景色の中で目を引きます。

雪に覆われたヌルメスのボンバ・ハウス|黒い丸太組みの壁に黄と白の窓飾りとバルコニー
3月のヌルメスのボンバ・ハウス。丸太の壁に黄と白の彫刻の窓飾り(Petritap/CC BY-SA 4.0)

赤い糸の刺繍

ロシア側のカレリア共和国国立博物館には、白い麻布に赤い糸で花や樹、鳥を刺したタオルが収められています。八つの角をもつ星のような花の文様が中心に置かれ、その下に樹と鳥の列が続きます。裾は白いレースで縁取られています。

白い麻布に赤い糸で花と樹と鳥を刺したカレリアの刺繍のタオル|裾に白いレース
白い麻布に赤い糸で花・樹・鳥を刺したタオル(カレリア共和国国立博物館所蔵/Semenov.m7/CC BY-SA 3.0)

カレリアパイ

カレリアの食べ物として広く知られているのが、カレリアパイ(カルヤランピーラッカ karjalanpiirakka)です。薄く伸ばしたライ麦の生地に米の粥などを詰め、縁にひだを寄せて舟形に焼き上げます。ゆで卵とバターを混ぜたエッグバター(ムナヴォイ munavoi)をのせて食べることが多い料理です。2003年には、EUの「伝統的特産品保証(TSG)」に登録されました。

エッグバターをのせたカレリアパイ4つ|木のボードにライ麦生地の舟形のパイが並ぶ
エッグバターをのせたカレリアパイ。ひだを寄せたライ麦の生地(Olivia Fries/CC BY-SA 4.0)

器に残ったカレリアの名前——ARABIAのカルヤラとカレワラ

フィンランドの器にも、カレリアやカレワラの名前をもつものがあります。ここでは当店で扱ってきた品を中心に紹介します。

カルヤラ(Karjala)のミルクピッチャー

ARABIAの「カルヤラ(Karjala)」は、フィンランド語でカレリアを意味する名前の装飾です。当店では、この装飾のミルクピッチャーを「カルヤラ・カーディン」の名で扱っています。カーディン(kaadin)は、フィンランド語で注ぎ口のある器を指す言葉です。

ARABIA カルヤラ・カーディン(Karjala Kaadin)ミルクピッチャー|白い胴に橙の口縁、橙と黒の丸い模様
ARABIA カルヤラ・カーディン(Karjala Kaadin)のミルクピッチャー。口縁に橙色の帯、黒い取っ手

白い胴の口縁には橙色の帯がめぐり、側面には橙と黒の丸みを帯びた模様が、輪郭をぼかしたように重なり合って連なります。取っ手の黒が、白い胴を引き締めています。

ARABIA カルヤラ・カーディン(Karjala Kaadin)ミルクピッチャーの側面の模様|橙と黒の丸い形が重なる
側面の模様。橙と黒の丸い形がぼかしたように重なる

底には、王冠のARABIAのマークと「MADE IN FINLAND」の文字があります。王冠のマークは、ARABIAが1949年から使い始めたものです。マークから年代を読む方法はアラビア刻印年代別完全ガイドで解説しています。

ARABIA カルヤラ・カーディン(Karjala Kaadin)ミルクピッチャーの底|王冠のARABIAマークとMADE IN FINLAND
底の王冠のARABIAマークとフィンランド製の表示

当店では、ARABIA カルヤラ・カーディン(Karjala Kaadin)ミルクピッチャーをご紹介しています。

カレリア(Karelia)——ソルタヴァラ生まれのデザイナーの器

ARABIAには「カレリア(Karelia)」という名の食器もあります。デザインしたのは、ラドガ湖北岸のソルタヴァラに生まれたアンヤ・ヤーティネン=ヴィンクヴィスト(Anja Jaatinen-Winquist)です。明るい地に、茶やグレーの帯が幾重にもめぐります(写真は「カレリアとは」の節)。

カレワラのイヤープレート

ARABIAは1976年から1999年まで、『カレワラ』の場面を描いたイヤープレートを毎年1枚ずつ、全24枚発行しました。絵柄を手がけたのは、ライヤ・ウオシッキネン(Raija Uosikkinen)です。濃紺と焦げ茶の地に、白と金茶の人物や樹々が描かれます。

ARABIA カレワラ(Kalevala)1981年 イヤープレート|濃紺の地に、沼に沈む若者と老いた歌い手
1981年のカレワラのイヤープレート。歌くらべに敗れたヨウカハイネンが沼に沈められる場面

1981年のプレートには、若者ヨウカハイネンが老いた歌い手ワイナミョイネンに歌くらべを挑んで敗れ、魔法の歌で沼に半身を沈められる場面が描かれています。1983年のプレートは、レンミンカイネンがサーリの乙女たちに別れを告げ、舟で島を去る場面です。

ARABIA カレワラ(Kalevala)1983年 イヤープレート|帆を張った舟の英雄と、手を振る女性たち
1983年のカレワラのイヤープレート。レンミンカイネンがサーリの乙女たちに別れを告げ、舟で去る場面

当店では、1981年のイヤープレート、1983年のイヤープレート、年ごとの24枚に、1985年の『カレワラ』150周年の大判プレート1枚を加えた全25作品のセットをご紹介しています。

ARABIA カレワラ(Kalevala)記念プレート全25作品のセット|積み重ねたプレートと中央に立てた1枚
カレワラの記念プレート全25作品のセット

カレリアに生まれたデザイナーたち

ARABIAやヌータヤルヴィで活躍したデザイナーのなかには、カレリアに生まれた人が何人もいます。

名前 生まれ 主な仕事
オルガ・オソル(Olga Osol) 1905年、南カレリアのラッペーンランタ ARABIAの食器「ミュルナ(Myrna)」をデザイン
アウネ・シーメス(Aune Siimes) 1909年、北カレリアのヴァルツィラ 1932年から1964年までARABIAに在籍
カイ・フランク(Kaj Franck) 1911年、ヴィープリ ARABIAの「キルタ」、ガラスの「カルティオ」
オイバ・トイッカ(Oiva Toikka) 1931年、ヴィープリ近郊 ヌータヤルヴィの「カステヘルミ」とガラスの鳥
アンヤ・ヤーティネン=ヴィンクヴィスト(Anja Jaatinen-Winquist) 1934年、ソルタヴァラ 1955年から1974年までARABIAに在籍。「カレリア」をデザイン

カイ・フランクは1911年にヴィープリで生まれ、ヘルシンキで学んだのち、ARABIAで食器の考え方を大きく変えました。詳しくはカイ・フランク完全ガイドで紹介しています。オイバ・トイッカは1931年にヴィープリ近郊の農村で生まれました。故郷の記憶から始まる歩みはオイバ・トイッカ完全ガイドにまとめています。

アンヤ・ヤーティネン=ヴィンクヴィストが生まれたソルタヴァラ、トイッカが生まれたヴィープリ近郊の村は、1940年のモスクワ講和で割譲され、1944年の休戦で再び国境の向こうになりました。

まとめ

要点の整理

  • フィンランドとロシアにまたがる森と湖の土地カレリア(Karjala)。フィンランド側に北カレリア県と南カレリア県
  • 1323年から何度も引き直された国境。1940年と1944年の割譲で国土のおよそ1割を失い、移り住んだ人は40万人超
  • 戦前の国内有数の都市ヴィープリ。アアルトの図書館とハックマン創業の地
  • リョンロートがヴィエナ・カレリアの村々で書き留めた歌と、1835年の『カレワラ』。序文の日付2月28日がカレワラの日に
  • 1890年代、ガッレン=カッレラ、インハ、シベリウスらがカレリアに求めた「フィンランド文化の源」
  • ARABIAのカルヤラの名の装飾のピッチャー、ヤーティネン=ヴィンクヴィストの「カレリア」、ウオシッキネンのカレワラのイヤープレート
  • カイ・フランク、オイバ・トイッカ、アウネ・シーメスらカレリア生まれのデザイナー

カレリアの多くは国境の向こうになりましたが、その名前はフィンランドの器や歌、料理の中に残りました。カルヤラのピッチャーの底を返すと王冠のARABIAのマークがあり、カレワラのプレートには、リョンロートが書き留めた歌をもとにした物語の一場面が描かれています。器を手がかりに、森と湖の土地をたどってみてください。

参考資料
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