アルヴァ・アアルト完全ガイド|アアルトベース(サヴォイベース)を生んだフィンランドモダンの父——建築・家具・ガラスを横断した巨匠の生涯
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この記事の要点
- アルヴァ・アアルト(Hugo Alvar Henrik Aalto, 1898–1976)は、フィンランド・南オストロボスニアのクオルタネ(Kuortane)に生まれた建築家・デザイナーです。
- 1916年にヘルシンキ工科大学(現アアルト大学)建築学科に入学し、1921年に卒業。1923年にユヴァスキュラで建築事務所を開設した。
- 代表作の一つ「アアルト・ベース(Aalto Vase/サヴォイ・ベース)」は、1936年のKarhula-Iittalaガラスデザインコンペに提出されたスケッチをもとに、1937年パリ万国博覧会で発表されたガラスベースです。現在もイッタラで生産が続いています。
- 1935年には、妻アイノ、マイレ・グリクセン(Maire Gullichsen)、ニルス=グスタヴ・ハール(Nils-Gustav Hahl)とともに家具・インテリア会社Artek(アルテック)を共同設立した。
- 代表的な建築には、パイミオ・サナトリウム、ヴィープリ図書館、ヴィラ・マイレア、セイナッツァロ町役場、MITベイカーハウス、ヘルシンキ工科大学本館、フィンランディアホールがある。
- 1986年から2002年のユーロ移行までフィンランドの50マルッカ紙幣に肖像が用いられた、国民的存在です。
アルヴァ・アアルト——フィンランドモダンの父
アルヴァ・アアルト(Hugo Alvar Henrik Aalto, 1898–1976)は、20世紀フィンランドを代表する建築家・デザイナーです。建築、家具、ガラス、照明、テキスタイルにまで及ぶ仕事は、北欧モダニズムの基盤を築いただけでなく、国際様式(インターナショナル・スタイル)に「自然素材」と「人間の身体感覚」という新しい次元を加えました。
1898年にフィンランド中部の町クオルタネに生まれ、ヘルシンキ工科大学で建築を学び、1923年に独立。最初の妻アイノ(Aino Marsio)とともに、戦間期から戦後にかけてのフィンランドデザインを形づくっていきます。代表作には、パイミオ・サナトリウム、ヴィープリ図書館、ヴィラ・マイレア、フィンランディアホールといった建築のほか、家具会社Artekの製品群、そしてイッタラのために生まれた「アアルト・ベース(サヴォイ・ベース)」が含まれます。
本記事では、当店ブログの「アイノ・アアルト完全ガイド」と「イッタラ村の歴史」を補う形で、アルヴァ個人の78年の歩みを、建築・家具・ガラスの3つの領域から辿ります。
目次
- クオルタネに生まれて——南オストロボスニアの少年時代
- ヘルシンキ工科大学とユヴァスキュラ時代(1916–1927)
- アイノ・マルシオとの結婚(1924)——人生と仕事の伴侶
- パイミオ・サナトリウム(1929–1933)——機能主義の代表作
- スツール60と曲げ木家具——L字脚の発明
- アアルト・ベース(サヴォイ・ベース、1936)
- Artekの創設(1935)——家具を世界へ運ぶ船
- ヴィラ・マイレア(1938–1939)——森の中の家
- ベイカーハウス(1949)——アメリカ時代
- 戦後の傑作——セイナッツァロからフィンランディアまで
- 日本との接点——来日せざる影響
- 受賞・栄誉・50マルッカ紙幣
- エリッサ・アアルト——晩年の伴侶
- まとめ
クオルタネに生まれて——南オストロボスニアの少年時代
アルヴァ・アアルトが生まれたのは、1898年2月3日、フィンランド南オストロボスニア地方のクオルタネ(Kuortane)でした。本名はフーゴ・アルヴァル・ヘンリク・アアルト(Hugo Alvar Henrik Aalto)。父ヨハン・ヘンリク・アアルト(Johan Henrik Aalto)は測量士、母セルマ・マティルダ(旧姓ハックステット/Hackstedt)は郵便職員という、地方の知的中産階級の家庭に生まれました。
湖と森の町・クオルタネ
クオルタネは、ヘルシンキから北西へ約330km、セイナヨキ近郊にある内陸の小さな町です。町の中心を貫くクオルタネ湖(Kuortaneenjärvi)と、その周囲に広がる針葉樹林・農地・牧草地が、彼の幼少期の風景でした。後年彼の作品に繰り返し現れる「波打つ線」「湖の輪郭」「森のリズム」のモチーフの源泉が、この風景にあります。
家族と幼少期
父の仕事の関係で、家族は1903年にアラヤルヴィ(Alajärvi)へ移り、その後ユヴァスキュラ(Jyväskylä)へ転居します。父は地図と土地の境界線を扱う測量士で、5歳のアルヴァは、父が広げた測量図と地形の関係を眺めながら育ちました。「土地を読む」感覚は、後年彼が建築の敷地を扱う姿勢に通じています。
1916年、18歳でヘルシンキへ向かったとき、彼はクオルタネ生まれ・ユヴァスキュラ育ちの「内陸の青年」でした。海も大都市も、彼にとっては外から学ぶものだったのです。
ヘルシンキ工科大学とユヴァスキュラ時代(1916–1927)
1916年、アルヴァはヘルシンキ工科大学(Teknillinen korkeakoulu、現アアルト大学)建築学科に入学しました。在学中の1917年12月、フィンランドはロシアから独立を宣言。翌1918年には内戦が勃発し、彼自身も白軍側として従軍しています。学業は中断されますが、1921年に23歳で卒業を果たしました。
卒業後、1923年に故郷ユヴァスキュラで「アルヴァ・アアルト建築・記念美術事務所(Alvar Aalto, Arkkitehti- ja monumentaalitaiteen toimisto)」を開設します。事務所の最初期の仕事は、教会の改修や労働者倶楽部、地方の住宅といった小規模な仕事でしたが、ここで彼は古典主義の建築言語を一通り学びました。1927年にトゥルク(Turku)へ事務所を移転し、より大きな仕事に挑むことになります。
アイノ・マルシオとの結婚(1924)——人生と仕事の伴侶
1924年10月6日、アルヴァは事務所のスタッフとして雇用していた建築家アイノ・マルシオ(Aino Marsio, 1894–1949)と結婚しました。アイノは1920年にヘルシンキ工科大学を卒業した、フィンランドで最も初期の女性建築家の一人で、4歳年上でした。新婚旅行はイタリアで、地中海の街並みと古代建築への憧憬は、後の二人の作品に通底するテーマとなります。
結婚後、アイノは事務所のパートナーとして家具・ガラス・室内設計を担当し、アルヴァは建築の設計を主導するという分業が定着しました。ただし両者の仕事は厳密に分けられるものではなく、ヴィラ・マイレアやパイミオ・サナトリウムなど、夫妻の共同作業として理解すべき作品が多数あります。1949年、アイノはがんにより54歳で亡くなりました。
パイミオ・サナトリウム(1929–1933)——機能主義の代表作
アルヴァ・アアルトの名を国際的に知らしめた最初の作品が、トゥルク近郊のパイミオ結核療養所(Paimio Sanatorium)です。1929年に公開コンペで1等を獲得し、1933年に完成しました。当時、結核は治療法が確立されておらず、新鮮な空気・日光浴・安静が主な療法と考えられていた時代でした。
「病院は治療の道具である」
アアルトは「病院は治療の道具である(the hospital is an instrument of healing)」という信念のもと、機能主義的な平面と人間工学的な細部を統合しました。病棟は南向きに6階建てで配され、各室から日光浴用のテラスへ直接出られる設計です。仰向けに横たわる患者の視線を考慮し、天井の色は柔らかなグリーンに、照明は患者の目に直接当たらない間接光に、洗面器は水音が響かないよう斜めに傾けられました。
パイミオは、ル・コルビュジエの「住宅は住むための機械である」という言葉に対する、アアルトなりの応答でした。建築は機械であってもよいが、利用者を癒すための機械であり、そのためには温かい色彩、自然素材、間接光が必要だ——そう主張する建物だったのです。パイミオ・サナトリウムは現在、アルヴァ、アイノ、エリッサ・アアルトの建築群を対象とするユネスコ世界遺産暫定リスト「The Architectural Works of Alvar Aalto」の構成資産の一つとして位置づけられています。
パイミオ・チェアの誕生
パイミオの設計と並行して、アアルトは患者用の椅子をデザインしました。これが今日「パイミオ・チェア(アームチェア41)」として知られる、曲げ合板の傑作です。1931年から1932年にかけて開発されたこの椅子は、患者が背もたれにもたれかかったときに呼吸が楽になる角度を、複雑な実験を経て導き出されました。
座と背は一枚の合板を曲げて作られ、両側のフレーム部分とは別の材で結ばれています。木材を蒸気で柔らかくし、型に押し当てて曲げる技術は、アアルトが家具職人オット・コルホネン(Otto Korhonen)と共同で開発したもので、後のスツール60やArtek家具の基盤技術となりました。
スツール60と曲げ木家具——L字脚の発明
1932年から1933年にかけてデザインされた「スツール60」は、アアルト家具のなかで最も普及した作品です。座面はバーチ材の円板、脚はバーチ材を高温の蒸気で柔らかくし、L字に曲げた3本——それだけのシンプルな構成ですが、軽量で重ねて収納でき、座と脚を分解せずに製造できるという量産性を備えていました。
このL字脚は1933年に特許出願されました。後にN字脚、Y字脚、X字脚へと発展し、Artek家具の基本ボキャブラリーとなります。アアルトは「すべての家具は人間の肌に触れる」と語り、金属管椅子の冷たさに対して、木と人間の温度を選んだのです。スツール60は今もArtekで生産が続いており、ヘルシンキの公共図書館・カフェ・学校で、ごく当たり前の家具として座られ続けています。
アアルト・ベース(サヴォイ・ベース、1936)
アルヴァ・アアルトの名を、建築の世界を超えて広く知らしめたのが、「アアルト・ベース(Aalto Vase)」です。「サヴォイ・ベース(Savoy Vase)」とも呼ばれるこのガラスベースは、1936年にデザインされ、1937年のパリ万国博覧会で発表されました。波打つ縁のシルエットは、フィンランドの湖の輪郭を抽象化したものといわれます。
Karhula-Iittalaコンペでの1等賞
このベースは、1936年にカルフラ-イッタラ社(Karhula-Iittala)が主催した、パリ万博出品作のためのガラスデザインコンペで1等賞を獲得した作品です。応募作にアアルトは「Eskimåkvinnans skinnbyxa(エスキモーの女性の革のズボン)」というスウェーデン語のタイトルを付けました。湖か、ズボンの輪郭か、自由曲線そのものか——タイトルが何を示すのかは、今も解釈の余地が残されています。
初期の制作では、木型を用いた吹きガラスの技法が採られました。熱いガラスを型に吹き込み、職人の手作業で波打つ輪郭を成形するため、同じ形でありながら一つひとつに微妙な揺らぎが生まれます。なお、この時期のガラスデザインを語るうえで、アイノ・アアルトの存在も欠かせません。アイノは1932年にKarhula-Iittalaのコンペで評価されたBölgeblick(のちのAino Aaltoシリーズ)を手がけており、アアルト夫妻は建築だけでなく、ガラスと暮らしの工芸の領域でもフィンランドデザインの方向性を形づくっていました。ただし、Aalto Vaseそのものは、1936年のKarhula-Iittalaコンペにアルヴァが提出したスケッチを出発点とする作品として扱うのが正確です。
パリ万博とサヴォイ・レストラン
1937年のパリ万博では、フィンランド館にこのベースが展示されました。同年、ヘルシンキの高級レストラン「サヴォイ(Restaurant Savoy)」のインテリアをアアルト夫妻が手がけることになり、ベースは特注品としてレストランに納められました。これが「サヴォイ・ベース」という別名の由来です。
アアルト・ベースは現在もイッタラで生産が続いています。製法は時代とともに変化し、1954年以降は鋳鉄製の型を用いた吹きガラスへ、その後はサイズ・色ともにバリエーションが拡大されました。フィンランド国内では、結婚祝い・新築祝い・退職祝いの定番贈答品として、世代を超えて愛されています。
Artekの創設(1935)——家具を世界へ運ぶ船
1935年12月、アルヴァとアイノ、富裕な実業家マイレ・グリクセン(Maire Gullichsen, 1907–1990)、そして美術史家ニルス=グスタヴ・ハール(Nils-Gustav Hahl, 1904–1941)の4人が、家具・インテリア会社Artek(アルテック)を共同で設立しました。社名は「Art」と「Technology(技術)」の合成語で、芸術と量産技術の融合をめざすという理念が込められています。
創立4名のうち、マイレは資金を提供し、アアルトはデザインを担当、ハールは販売と広報を統括しました。アイノは創立時の1935年からアートディレクターを務め、1941年からは経営責任者も兼任、1949年までデザイン部門を率いました。Artekは、それまで個別の建築プロジェクトのために生産されていたアアルト家具を、定番の量産家具として世界に流通させる仕組みを作り上げました。
Artekは2013年にスイスのヴィトラ(Vitra)グループに買収されましたが、ヘルシンキを拠点とした製造・販売は維持されています。スツール60、アームチェア41「パイミオ」、テーブル80、Y脚スツールなど、アアルトがデザインした家具は、現在もほぼオリジナル仕様で量産が続いている数少ない20世紀モダニズム家具です。
ヴィラ・マイレア(1938–1939)——森の中の家
1938年から1939年にかけて、アアルト夫妻はノールマルック(Noormarkku)の森の中に、Artek共同創立者マイレと夫ハリー・グリクセン夫妻のための邸宅「ヴィラ・マイレア(Villa Mairea)」を設計しました。森に開かれたL字型のプランは中庭を囲み、リビングからは庭園、サウナ、プール、そして奥の松林が連続して見渡せます。
素材は、漆喰の白壁、無垢の松、籐巻きの柱、銅の屋根、無造作に積まれた天然石——これらの混在は、それまでのモダニズム建築が排除してきた要素でした。アアルトは、それらを「敵」ではなく「友」として住宅に取り込み、機械的・工業的なモダニズムから「人間的モダニズム(humane modernism)」への転換を示しました。
ヴィラ・マイレアは私有地ですが、現在はマイレ・グリクセン財団により管理され、予約制で見学が可能になっています。
ベイカーハウス(1949)——アメリカ時代
1938年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)でアアルトの個展が開催され、米国でも彼の名は広く知られていました。1946年からアアルトはマサチューセッツ工科大学(MIT)の客員教授として招かれ、1947–48年に設計、1949年にMITキャンパス内の学生寮「ベイカーハウス・ドミトリー(Baker House Dormitory)」を完成させます。
チャールズ川沿いの敷地に建つこの寮は、川面に向かって緩やかに波打つ平面が特徴です。各部屋は異なる角度を持ち、川と都市の眺望を平等に分かち合えるよう設計されました。煉瓦の壁面はあえて焼きムラの強い手焼き煉瓦が用いられ、機械的な均質さを拒否したアアルトの姿勢が表れています。
1949年、ベイカーハウス完成の翌年、アイノが亡くなります。54歳でした。アルヴァは深い喪失のなかで仕事を続け、1952年に新しい伴侶エリッサ・マキニエミ(Elissa Mäkiniemi)と結婚することになります。
戦後の傑作——セイナッツァロからフィンランディアまで
戦後のアアルトは、フィンランド国内で次々と公共建築を手がけます。なかでも、ユヴァスキュラ近郊のセイナッツァロ町役場(Säynätsalon kunnantalo、1951年完成、1952年開所)は、煉瓦と木と中庭の組み合わせによる「フィンランド・モダニズムの里山」とも呼ぶべき傑作です。階段は人の歩みを誘導するように曲げられ、議場の天井には木製のトラスが渡され、建物全体がひとつの「集会の場」として設計されました。
1949年のキャンパスマスタープラン・コンペで1等を獲得した、ヘルシンキ工科大学オタニエミ・キャンパス(現アアルト大学)の本館は、1961〜1964年に施工され、1966年に落成しました。中央のオーディトリウム棟は、外側に大きく開かれた半円形の階段席が特徴で、芝生の傾斜と一体化した独特の景観をつくっています。アアルトの母校が、彼の名を冠した大学になるのは、半世紀以上後の2010年のことです。
1962年に設計が始まり、1967年から1971年にかけて建設されたフィンランディアホール(Finlandia-talo)は、アアルトの後期を代表する建築です。トーロ湾を望む位置に立つ白い大理石の建物は、コンサートホール、会議場、レストランを内包し、1975年には第二次世界大戦後の国際関係を再構築した欧州安全保障協力会議(ヘルシンキ最終議定書)の舞台となりました。
戦前にフィンランド領ヴィープリ(現ロシア・ヴィボルグ)で建設された市立図書館(1927–1935)は、戦災で甚大な被害を受けましたが、ロシア・フィンランド・国際的な保存運動により2013年に修復が完了。木製の波打つ天井を持つ講堂は、後のフィンランディアホールへとつながる、アアルトの音響と空間の探求の出発点となった作品です。
日本との接点——来日せざる影響
アルヴァ・アアルト本人が日本を訪れた記録は、現在確認できていません。しかし、彼の建築は日本のモダニズム建築に深い影響を与え、また彼自身も日本の伝統建築に強い関心を寄せていました。
1935年にドイツで刊行された建築家・吉田鉄郎(1894–1956)の著書『日本の住宅(Das Japanische Wohnhaus)』を、アアルトはヴィラ・マイレア設計の前後に手に入れています。木組み、襖、縁側、自然素材の混在——これらの日本の住宅要素が、ヴィラ・マイレアの軒下空間や、籐巻きの柱、木格子のルーバー、サウナの石組みに反映されていることは、後年の研究で明らかになっています。1938年には、日本を拠点に活動していたチェコ生まれのアメリカ人建築家アントニン・レーモンドとの会見も記録されています。
戦後、日本の建築家・前川國男や坂倉準三、村野藤吾、谷口吉郎らがアアルトの建築を訪れ、彼の人間的モダニズムは1950〜60年代の日本建築界に静かに浸透していきました。柳宗悦が「用の美」という言葉で説いた民藝の思想と、アアルトが追求した「人間のための建築」は、同時代に東西で響き合った理念であり、当店ブログの「北欧食器と『用の美』」で詳しく扱っています。
受賞・栄誉・50マルッカ紙幣
アアルトの国際的評価を象徴するのが、1957年の王立英国建築家協会(RIBA)ロイヤルゴールドメダル、1963年のアメリカ建築家協会(AIA)ゴールドメダルの受賞です。フィンランド国内では、1963年から1968年までフィンランド・アカデミー会長を務め、1963年に終身称号のアカデミシアン(Academician)にも選ばれました。
1986年からユーロに移行する2002年まで、フィンランドの50マルッカ紙幣には、アアルトの肖像とフィンランディアホールが用いられていました。フィンランド人にとって、彼は「紙幣の顔」となるほどの国民的存在だったのです。
エリッサ・アアルト——晩年の伴侶
1952年、アルヴァは事務所のスタッフだった建築家エリッサ・マキニエミ(Elissa Mäkiniemi, 1922–1994)と再婚しました。アルヴァはこのとき54歳、エリッサは30歳。アイノの死から3年後のことでした。エリッサはセイナッツァロ町役場、フィンランディアホール、ヘルシンキ工科大学本館(現アアルト大学本館)など、戦後の主要作品で実務を担い、1976年にアルヴァが亡くなった後も事務所を引き継いで、未完の作品を完成させました。
1976年5月11日、アルヴァは78歳でヘルシンキにて没しました。墓はヘルシンキ西部のヒエタニエミ墓地(Hietaniemen hautausmaa)にあります。墓石には、彼が古典主義時代に親しんだコリント式の柱頭がレリーフとして刻まれており、モダニズムの巨匠が古代地中海の建築への愛着を最後まで持ち続けていたことを伝えています。
まとめ——フィンランドの自然をかたちにした78年
この記事のまとめ
- アルヴァ・アアルト(1898–1976)はフィンランド南オストロボスニアのクオルタネに生まれ、ヘルシンキ工科大学で建築を学んだ。
- 1924年に建築家アイノ・マルシオと結婚し、1949年のアイノの死まで25年間、夫妻でアトリエの中心を担った。
- 1929年のパイミオ・サナトリウム・コンペで1等を獲得し、機能主義建築に温かさと自然素材を持ち込む「人間的モダニズム」の道を開いた。
- 1932〜33年にデザインしたスツール60、1936年のアアルト・ベース、1935年共同創立のArtekは、現在も生産が続く20世紀デザインの古典です。
- パイミオ・サナトリウム、ヴィープリ図書館、ヴィラ・マイレア、セイナッツァロ町役場、フィンランディアホール、MITベイカーハウス、ヘルシンキ工科大学本館などの建築を残した。
- 1986〜2002年のフィンランド50マルッカ紙幣に肖像が用いられ、1957年RIBAゴールドメダル、1963年AIAゴールドメダルを受賞した。
- 来日歴はないが、吉田鉄郎『日本の住宅』を所有し、日本の伝統建築と「用の美」の思想に深い関心を寄せていた。
クオルタネの湖から始まり、ユヴァスキュラ、ヘルシンキ、トゥルク、ノールマルック、ケンブリッジ、エッセン——アアルトが歩いた土地は、北欧から大西洋まで広がります。それでも一貫していたのは、フィンランドの自然——湖の輪郭、針葉樹のリズム、雪と光のコントラスト——を、建築・家具・ガラスの三領域で抽象し続けた姿勢でした。
イッタラのアアルト・ベースを窓辺に置いて眺めれば、その波打つ縁の向こうに、フィンランド中部の湖と森が静かに広がります。アアルトのデザインは、北欧の自然そのものを、私たちの暮らしの机の上まで運んできた仕事だったのです。
北欧食器や北欧ヴィンテージガラスを眺めるとき、そこにあるのは単なる器や花器ではありません。暮らしの中に自然をどう取り込むか、日々の道具にどこまで詩情を宿せるか——アアルトの仕事は、その問いを今も静かに投げかけています。
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