タマラ・アラディン(Tamara Aladin)の肖像。リーヒマキ・ラシで活躍したフィンランドのガラスデザイナー

タマラ・アラディン(Tamara Aladin)完全ガイド|リーヒマキ・ラシに色ガラスの花を咲かせたフィンランドのデザイナー

北欧食器タックショミュッケ編集部

この記事の要点

  • タマラ・アラディン(Tamara Aladin、1932–2019)は、フィンランド南部の港町ハミナに生まれたガラスデザイナーです。リーヒマキ・ラシ(Riihimäen Lasi)で、厚みのある色被せガラスの花瓶を数多く手がけました。
  • ヘルシンキの中央芸術工業学校(現アアルト大学の前身)で陶芸を学び、フィンランド航空アエロの客室乗務員を経て、1959年に工場最年少のデザイナーとして迎えられました。
  • 在籍は1959年から1976年まで。1960年代に工場が生み出した花瓶の半数以上が彼女の設計で、生涯に150点を超えるデザインを残しました。
  • クレオパトラ、トゥーリッキ、トゥルッパーニなど、ジュエルのような色ガラスの花器で知られます。本人は作品に名前を付けるのを好まず、多くは型番だけで流通しました。
  • 1976年、工場が手吹きガラスの生産を終えると同時にデザインの世界を離れ、故郷ハミナで馬と庭とともに静かに暮らしました。

タマラ・アラディン——リーヒマキに「色」の花を咲かせたフィンランドのデザイナー

タマラ・アラディン 1970年のポートレート
タマラ・アラディン(Tamara Aladin、1932–2019)。1970年、フィンランドの雑誌『Suomen Kuvalehti』に掲載されたポートレート。手前は彼女がデザインしたリーヒマキのガラス。撮影:Pekka Pajuvirta/パブリックドメイン

タマラ・アラディン(Tamara Aladin、1932–2019)は、20世紀フィンランドを代表するガラスデザイナーの一人です。アンバー、エメラルド、スモーク、コバルトブルー——厚く色をまとった彼女の花器は、北欧の低い光を受けて宝石のように輝きます。

活躍の舞台は、ヘルシンキの北約70キロにある「ガラスの町」リーヒマキ。フィンランド最大級のガラス工場だったリーヒマキ・ラシ(Riihimäen Lasi)で、彼女は1959年から1976年までの17年間に、150点を超える型吹きガラスをデザインしました。ある時期には、この工場が一年に生み出す花瓶の半数以上が、彼女のスケッチから生まれたものでした。

同じ工場には、当店ブログでも紹介したヘレナ・テュネルナニー・スティルといった先輩がいました。本記事では、「リーヒマキ・ガラス工房の歴史」を背景に、客室乗務員からガラスの道へと進んだアラディンの歩みと、いまも色あせない作品の魅力をたどります。

この記事でわかること

  • タマラ・アラディンの生涯——ハミナの商家に生まれ、空を飛び、ガラスにたどり着くまで
  • リーヒマキ・ラシという工場と、フィンランドの色ガラスが生まれた背景
  • クレオパトラ、トゥーリッキ、カヨなど代表作と、型番で見分けるヴィンテージの楽しみ方
  • 日本で彼女の色ガラスが愛される理由と、リーヒマキを訪ねる旅

目次

  1. ハミナに生まれて——商家の娘、空を飛ぶ
    1. 放射状の街路をもつ要塞都市
    2. 陶芸の学び、そして客室乗務員
  2. 1959年、リーヒマキ・ラシへ——最年少デザイナーの誕生
  3. ガラスの町リーヒマキ——フィンランドを代表するガラスの窯
  4. 型吹きという手仕事——アラディンのガラスの作り方
  5. 色こそ主役——代表作をたどる
    1. クレオパトラ、トゥーリッキ、トゥルッパーニ
    2. 本人が愛した「カヨ」
  6. 黄金時代の同僚たち——テュネル、スティル、そしてイッタラとヌータヤルヴィ
  7. 見分け方と型番——リーヒマキ・ラシのサイン
  8. 日本とフィンランド——色ガラスがいま愛される理由
  9. 1976年、ガラスを離れて——ハミナの馬と庭
  10. リーヒマキを訪ねて——ガラスの記憶が残る町
  11. まとめ

ハミナに生まれて——商家の娘、空を飛ぶ

ハミナの空撮 放射状の街路と中央広場
故郷ハミナの空撮。中央の円形広場から街路が放射状に延びる、世界でも珍しい要塞都市の町並み。CC BY-SA 2.0 / Ville Hyvönen

タマラ・アラディンが生まれたのは、1932年8月14日。フィンランド湾に面した南東部の港町、ハミナ(Hamina)でした。「アラディン」という珍しい姓は、ロシア・ポーランドにルーツを持つこの町の商家から受け継いだもので、父は商業顧問官(kauppaneuvos)の称号を持つ人物でした。彼女は生涯のはじまりと終わりを、ともにこのハミナで迎えています。

放射状の街路をもつ要塞都市

ハミナの街並み 木造建築と劇場
ハミナの街並み。木造建築と新古典主義の建物が残る、古い港町の佇まい。パブリックドメイン

ハミナは、中央の八角形の広場から街路が放射状に広がる、ヨーロッパでも珍しい同心円状の都市計画で知られます。18世紀にスウェーデンとロシアの国境の要塞として築かれたこの町は、稜堡(バスティオン)に囲まれ、いまも当時の構造を色濃く残しています。整然と区切られた幾何学的な町並みは、後年の彼女が手がける、明快で構築的なガラスの形を思わせます。

陶芸の学び、そして客室乗務員

アラディンは1950年代前半、ヘルシンキの中央芸術工業学校(Taideteollinen oppilaitos)で陶芸を学びました。この学校は、のちにアアルト大学(Aalto University)芸術デザイン建築学部へと連なる、フィンランドのデザイン教育の中心です。同時代の多くのガラス作家や陶芸家が、ここで造形の基礎を身につけました。

ところが卒業後、彼女がまず選んだのはガラスでも陶芸でもありませんでした。フィンランドの航空会社アエロ(Aero、のちのフィンエアー)の客室乗務員として、モスクワ線に乗務したのです。ロシア語に堪能だった彼女は、操縦室で無線通信を担い、パイロットと管制官とのやり取りを通訳する役目まで果たしました。空の上を数年間飛んだのち、ようやく彼女は地上のガラス工房へと舞い降りることになります。

1959年、リーヒマキ・ラシへ——最年少デザイナーの誕生

フィンランド南部リーヒマキの位置を示す地図
フィンランド南部、ヘルシンキの北に位置するリーヒマキ(赤い点)。パブリックドメイン

1959年、アラディンは自作のスケッチを携えて、リーヒマキ・ラシのヘルシンキ事務所を訪ねました。携えていたのは、それまでの北欧のものより軽やかで優雅な、「女性のためのコニャックグラス」のデザインだったと伝えられます。その提案は工場を動かし、彼女は採用されました。当時のリーヒマキ・ラシで、最年少のデザイナーの誕生でした。

リーヒマキ駅と駅前広場
リーヒマキ駅の駅前広場。ヘルシンキから鉄道で約1時間、古くから交通の要衝として栄えた町。CC BY-SA 4.0 / Abc10

客室乗務員からデザイナーへ——一見すると唐突な転身ですが、語学と社交に長け、世界の空を見てきた彼女の感覚は、輸出を重視する工場にとって大きな財産でした。実際、彼女のガラスはやがて西ドイツやイギリスへと盛んに送り出され、ヨーロッパの住まいを彩っていきます。

ガラスの町リーヒマキ——フィンランドを代表するガラスの窯

リーヒマキの旧ガラス工場 冬景色
リーヒマキ・ラシの旧ガラス工場。レンガの煙突が残るこの建物は、現在フィンランド・ガラス博物館(Suomen lasimuseo)の一部。CC0 / Ypsilon from Finland

リーヒマキ・ラシは、1910年にミッコ・アドルフ・コレフマイネンによって創業されました。1927年に近隣のカウカラハティの工場を併合し、最盛期には1,000人を超える人々が働く、フィンランド最大級のガラス工場へと成長します。日用のガラスから野心的なアートガラスまで、ここからは膨大な量のガラスが生み出されました。

アラディンが加わった1950年代末は、まさにこの工場の黄金時代でした。1937年から在籍したアイモ・オッコリン、1940年代から活躍したヘレナ・テュネルとナニー・スティル——「主任デザイナー」と呼ぶにふさわしい作り手たちが机を並べ、色とりどりの彫刻的なガラスを次々と世に送り出していました。

もっとも、手吹きとアートガラスの生産は1976年に幕を下ろします(カットガラスは1977年まで)。工場そのものも、1980年にアールストロム(Ahlström)の傘下に入り、1990年に操業を終えました。リーヒマキの黄金時代は、ちょうどアラディンの在籍期間と重なっていたのです。

型吹きという手仕事——アラディンのガラスの作り方

1974年 リーヒマキ・ラシのガラス工房での作業風景
1974年、リーヒマキ・ラシのガラス工房。成形されたガラスを冷却炉へと運ぶ作業の様子。アラディンの花器は、こうした手仕事の現場から生まれた。CC BY 4.0 / Eeva Rista, フィンランド文化財局

アラディンのガラスの多くは、「型吹き(mold-blown)」という技法で作られました。職人が吹き竿の先に高温で溶けたガラスを巻き取り、金属の型の中へ吹き込んで形を決める方法です。型の内側に刻まれた縦の溝や段が、そのままガラスの表面に立ち上がり、あの厚みのある、リズミカルなシルエットが生まれます。

さらにリーヒマキの色ガラスは、無色のガラスの上に色ガラスを重ねる「色被せ(cased glass)」の手法を取り入れています。透明な層の奥に色がにじむため、光を当てると色が深く、宝石のように見えるのです。フィンランドの吹きガラスの技は、その文化的価値が認められ、2023年にユネスコの無形文化遺産にも登録されました。

タマラ・アラディンがデザインしたリーヒマキの無色ガラスの花瓶
タマラ・アラディンがデザインしたリーヒマキの無色ガラスの花器。段のついたシルエットに、型吹きならではの量感が宿る。CC BY-SA 4.0 / TheGoodEndedHappily

色こそ主役——代表作をたどる

アラディンによるアメジスト色のピッチャーとグラスのセット
アラディンによるアメジスト色のピッチャーとグラスのセット。透明感のある紫の色ガラスに、彼女の作風がよく表れる。CC BY-SA 4.0 / Grigur

アラディンは在籍した17年のあいだに、150点を超えるデザインを自身の名前で残しました。匿名で手がけたものも多く、実際の数はさらに多いと考えられています。1960年代にこの工場が生み出した花瓶の半数以上が彼女の設計だったというのですから、その仕事量は群を抜いていました。

興味深いことに、彼女は自分の作品に名前を付けるのを好まなかったと伝えられます。命名はしばしば他の人に委ねられ、その結果、多くのモデルは固有の名前を持たず、型番だけで呼ばれて流通しました。ヴィンテージ市場で「リーヒマキ 1374」「1376」といった数字が飛び交うのは、こうした事情によるものです。

クレオパトラ、トゥーリッキ、トゥルッパーニ

名前を持つ数少ないシリーズの中でも、とりわけ知られているのが次の作品群です。いずれも厚い色被せガラスで作られ、同じ形を複数の色で展開した点に特徴があります。

  • クレオパトラ(Kleopatra)——型番1502で知られるシリーズ。1969年にデザインされ、1970年から1976年頃まで作られました。アンバー、グリーン、レッド、ブルーなど、深い色で展開されています。
  • トゥーリッキ(Tuulikki/「そよ風」の意)——1971年デザイン、1972〜1976年頃の制作。型番1518はグリーン、1519はルビーレッド、1520はアンバーと、番号で色が見分けられます。輪を重ねたような独特の形が印象的です。
  • トゥルッパーニ(Tulppaani/「チューリップ」の意)——1971〜1976年頃。型番1512はモスグリーン、1516はブルーなど。花のつぼみを思わせるフォルムです。
  • ケフラ(Kehrä/「紡錘」の意)——1968年から1976年にかけて作られた、紡錘形の花器シリーズ。
  • コラーリ(Koralli/「珊瑚」の意)——1975年。コバルトやクロムを用いたオパールガラスで、珊瑚のような質感を狙ったシリーズ。
  • カルメン(Carmen)——1970年。逆さにすると燭台(キャンドルホルダー)に姿を変える、ボトル形の作品です。

このほか、果実酒メーカーのマルリ(Marli)向けのボトルなど、暮らしのためのガラスも数多く手がけました。花を受け止めるために生まれた花器から、空間を彩るための装飾的な造形まで、彼女の仕事は幅広く広がっていました。

本人が愛した「カヨ」

量産の色ガラスで名を成したアラディンですが、彼女自身が「最良のアートガラス」と語ったのは、1965年にデザインしたカヨ(Kajo/「ほのかな光」の意)でした。カットを施したクリスタルのこのシリーズは、1966年から1968年にかけてごく少数だけが作られた、希少な存在です。大量に流通した彼女の花器とは対照的に、静かで端正なこの作品に、デザイナーとしての矜持を読むこともできます。

黄金時代の同僚たち——テュネル、スティル、そしてイッタラとヌータヤルヴィ

ヘレナ・テュネルによるリーヒマキの花器 振り子時計
同僚ヘレナ・テュネルが手がけた「振り子時計(Kaappikello)」の花器(1966〜69年)。アラディンはテュネルやナニー・スティルと同じ工房で働いた。CC BY-SA 4.0 / Sinikka Halme

アラディンの仕事は、彼女ひとりの才能だけで生まれたものではありません。リーヒマキ・ラシには、サンボトルで知られるヘレナ・テュネルや、大胆な幾何学模様のナニー・スティルがいました。女性デザイナーたちが中心を担った、北欧でも稀有な工場だったのです。

リーヒマキ・ラシのアンバー色の花瓶 型番1379
リーヒマキ・ラシのアンバー色の花器(型番1379、エルッキタピオ・シーロイネンによるデザイン)。厚みのある色被せガラスは、1960〜70年代リーヒマキを思わせる色合い。CC BY-SA 4.0 / Przemek.Zborowski

フィンランドの色ガラスは、南部の三つの窯が支えていました。1881年創業のイッタラ(iittala)は、タピオ・ヴィルカラやティモ・サルパネヴァによる彫刻的な無色ガラスで世界に知られ、1793年創業でフィンランド最古のヌータヤルヴィ(Nuutajärvi)は、カイ・フランクやオイバ・トイッカのもとで機能的で遊び心のあるガラスを生みました。

その中でリーヒマキは、より工業的で、より手に取りやすい量産のガラスを担いました。しかし時を経たいま、その明るく幾何学的な色ガラスの花器こそが、もっとも集めやすく、もっとも愛される「日常のフィンランド・アートガラス」になっています。なお、各社の廃盤となったガラスについては「イッタラの廃盤シリーズ一覧」もあわせてご覧ください。

見分け方と型番——リーヒマキ・ラシのサイン

リーヒマキ・ラシの底面の刻印 サインと型番
底面に刻まれた「Riihimäen Lasi Oy」のサインと型番。番号がモデルを特定する手がかり。CC BY-SA 4.0 / Przemek.Zborowski

アラディンの作品を含むリーヒマキのヴィンテージは、いくつかの手がかりで時代を読み解けます。

  • 底面のサイン——「Riihimäen Lasi Oy」とエッチングされたものや、ラベル(シール)が残るものがあります。ただし量産品の多くは無銘で、シールが失われている作品も少なくありません。
  • 型番——アラディンが命名を好まなかったため、多くのモデルは3桁から4桁の番号で管理されています。同じ番号でも色違いが存在し、たとえばトゥーリッキは1518=グリーン、1519=レッド、1520=アンバーと色で番号が分かれます。
  • 色と質感——厚みのある色被せ、底に向かって重みを増すシルエット、型の溝が生む縦のリブが、リーヒマキらしさの目印です。

名前のない番号だけのガラスを、色とフォルムを手がかりに一つずつ確かめていく——その地道な作業こそが、リーヒマキ収集のいちばんの楽しみだといえます。

日本とフィンランド——色ガラスがいま愛される理由

リーヒマキの旧ガラス工場地区 レンガの建物と石垣
リーヒマキの旧ガラス工場地区。石垣とレンガの建物が、かつてのガラス職人たちの暮らしの面影を残す。CC BY-SA 4.0 / Mikkoau

はじめにお断りしておくと、タマラ・アラディン個人と日本とのあいだに、来日や日本での展覧会といった直接的な接点は、記録の上では確認できません。彼女の人生は、生まれ故郷ハミナと、リーヒマキの工房を中心に、ほぼフィンランド国内で完結していました。

それでも、彼女の色ガラスはいま、日本のヴィンテージ愛好家のあいだで静かな人気を集めています。その背景には、フィンランドと日本が長く共有してきた美意識の親和性があります。簡素さ、自然をモチーフとする姿勢、素材そのものへの敬意、そして季節と光を慈しむ感覚——近年の「ジャパンディ(Japandi)」という言葉も、この二つの国の感性の近さを物語っています。日本でもフィンランド・デザインの展覧会が繰り返し開かれ、その都度、確かな共感を呼んできました。

リーヒマキの色ガラスが日本で好まれる理由は、いくつか挙げられます。アンバーやエメラルド、スモークといった深い色が、窓辺で低い光を受けたときに美しく映えること。花器として生まれた簡潔で彫刻的な姿が、限られた住空間にもなじむこと。そして、同じ形を色やサイズ違いで少しずつ集めていける、シリーズものならではの収集の喜び。アラディンが膨大な数を生み出したからこそ、いまもこうして出会える——それもまた、彼女の色ガラスが身近であり続ける理由のひとつです。当店でも、こうした北欧ヴィンテージの花器を観賞用としてご紹介しています。

1976年、ガラスを離れて——ハミナの馬と庭

ハミナ中央稜堡 バスティオンのレンガ壁
ハミナ中央稜堡(バスティオン)のレンガ壁。アラディンは1976年に故郷ハミナへ戻り、ふたたびこの町で暮らした。CC BY-SA 4.0 / Niera

1976年、リーヒマキ・ラシは手吹きガラスの生産を終えました。職人たちの息で形づくられる、あの色ガラスの時代が幕を閉じたのです(最後に手吹きで作られたのは、カルメンの燭台だったと伝えられます)。それと時を同じくして、アラディンもガラスデザインの世界を離れました。

彼女が向かったのは、生まれ故郷のハミナでした。海辺の木造の家で、庭の手入れと馬に時間を注ぎ、静かな日々を送ります。子どもの頃にフィンランドの在来馬で覚えた乗馬は、生涯の友となりました。地元の乗馬クラブに所属し、自ら馬に乗って町を行く姿は、ハミナの人々の記憶に残る情景となったといいます。受賞歴や華やかな顕彰とは無縁のまま、彼女は2019年3月9日、86歳でこの町に生涯を閉じました。

没後の2019年には、ハミナの博物館とフィンランド・ガラス博物館で追悼の展覧会が開かれました。さらに2025年には、フィンランド・ガラス・ビエンナーレで「Magical Tamara」と題した回顧展が催され、彼女の色ガラスがあらためて紹介されました。

リーヒマキを訪ねて——ガラスの記憶が残る町

リーヒマキの旧工場地区にあるガラス工房Lasismi
旧工場地区にあるガラス工房「Lasismi」。今もガラス職人が制作と実演を続ける。CC BY-SA 3.0 / Antti Saarimäki

工場は閉じても、リーヒマキには「ガラスの町」としての記憶が息づいています。旧ガラス工場の建物には、1961年に設立されたフィンランド・ガラス博物館(Suomen lasimuseo)が入っています。1981年からこの場所に移ったこの博物館は、改修と常設展示をタピオ・ヴィルカラ自身が手がけたことでも知られ、約4万点に及ぶガラスのコレクションが、4000年のガラスの歴史を物語ります。

隣接する旧工場地区には、Lasismiやマフカ&アラコスキ(Mafka & Alakoski)といった工房があります。少し歩けば、20世紀初頭にガラス職人たちのために建てられたレンガと木造の街区「ヒュッティコルッテリ(Hyttikortteli)」が残り、芸術家たちの拠点にもなっています。タマラ・アラディンの色ガラスを手に取ったあとでこの町を訪ねれば、彼女の花器が生まれた空気を、肌で感じられるはずです。リーヒマキの歴史をさらに知りたい方は、「リーヒマキ・ガラス工房の歴史」もどうぞ。

まとめ

タマラ・アラディンとリーヒマキの色ガラス

  • タマラ・アラディン(1932–2019)は、ハミナに生まれ、陶芸を学び、客室乗務員を経て、1959年にリーヒマキ・ラシ最年少のデザイナーになりました。
  • 1959〜1976年の在籍中に150点以上をデザインし、1960年代の工場の花瓶の半数以上を手がけました。
  • クレオパトラ、トゥーリッキ、トゥルッパーニ、カヨなど、厚い色被せの花器で知られ、本人は命名を好まず、多くは型番で流通しています。
  • 1976年に工場が手吹きガラスをやめると同時にデザインを離れ、故郷ハミナで馬と庭の暮らしへ戻りました。
  • 日本との直接の接点は記録にありませんが、簡素で光を慈しむ美意識の共通点から、その色ガラスはいま日本でも静かに愛されています。

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