ヘレナ・テュネル完全ガイド|サンボトル(Aurinkopullo)を生んだリーヒマキ・ガラスの「光のデザイナー」
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この記事の要点
- ヘレナ・テュネル(Helena Tynell, 1918–2016)は、フィンランドの旧姓トゥルペイネン(Turpeinen)。中部の工業町オーネコスキ(Äänekoski)に生まれ、ヘルシンキの中央芸術工業学校で学んだ。
- 1943年にアラビアで陶磁器、Taito社で照明の図面を手がけ、1946年からはリーヒマキ・ガラス(Riihimäen Lasi)の主任デザイナーとして30年間活動した。
- 1964年に発表された代表作「Aurinkopullo(サン・ボトル)」は、4サイズ・19色を超えるバリエーションで1974年まで生産された。
- 1976年から約10年間は西ドイツのGlashütte Limburgで照明をデザインし、1986年にフィンランドに帰国。97歳で没するまで作品を発表し続けた。
- 2020–2022年には日本各地でフィンランド・デザイン展が巡回し、彼女の作品も紹介された。
ヘレナ・テュネル——「光」をかたちにしたフィンランドのガラスデザイナー
ヘレナ・テュネル(Helena Tynell, 1918–2016)は、フィンランドのガラス・照明デザイナーです。中部の工業町オーネコスキに生まれ、ヘルシンキで学び、リーヒマキ・ガラスで30年、西ドイツのGlashütte Limburgで10年あまり、最後はふたたびフィンランドで作品を発表しました。
彼女の名を世界に広めたのは、1964年に発表された「Aurinkopullo(アウリンコプッロ/サン・ボトル)」です。中央の小さな円から光線が放射状に伸びるレリーフを刻んだボトルは、4サイズ、19色を超えるバリエーションで1974年まで生産され、現在もフィンランド・ガラスを代表するアイコンの一つとされています。
同時代の同僚にはナニー・スティル(Nanny Still)やタマラ・アラディン(Tamara Aladin)がおり、彼女たちと並んで「リーヒマキ・ガラスの黄金時代」を担った中心的存在でした。本記事では、当店ブログの「リーヒマキ・ガラス工房の歴史」と「ナニー・スティル完全ガイド」を補う形で、テュネル個人の97年の歩みを追います。
目次
- オーネコスキの少女、ヘルシンキへ——97年の出発点
- 中央芸術工業学校(現アアルト大学)で過ごした5年
- 1943年、アラビアで陶磁器、Taitoで照明——「午前と午後」の働き方
- 1946年、リーヒマキ・ガラスへ——30年の主任デザイナー時代
- Aurinkopullo(サン・ボトル)——4サイズ、19色の太陽
- 柱時計、Pala、Alko記念ボトル——多彩な代表作
- 西ドイツ Glashütte Limburg の10年——1976–1986
- パーヴォ・テュネルとの結婚——フィンランドデザイン史の伴侶
- 帰国後の30年——1986年から2016年まで
- 日本との接点——2020–2022年の巡回展
- まとめ
オーネコスキの少女、ヘルシンキへ——97年の出発点
ヘレナ・テュネルが生まれたのは、1918年12月10日、フィンランド中部のオーネコスキ(Äänekoski)です。本名はヘリン・ヘレナ・トゥルペイネン(Hellin Helena Turpeinen)。「ヘルシンキ生まれ」と紹介されることもありますが、実際には首都から北へ約260km離れた、湖と製紙工場の町で少女時代を過ごしました。
湖と森に囲まれた工業町・オーネコスキ
オーネコスキは、19世紀末から製紙とパルプで栄えた町です。町の中心を流れるオーネコスキ川と、町を抱えるように広がるケイテレ湖(Keitele)が、彼女が育った風景でした。「太陽光線」「水紋」「樹皮」といった、後年の作品に繰り返し現れるモチーフの源泉が、この自然のなかにあります。
家族と幼少期
母オルガ・クリスティーナ・トゥルペイネン(Olga Kristiina Turpeinen)のもとで育ちました。家庭の詳細はあまり伝わっていませんが、当時のフィンランドは1917年にロシアから独立したばかりで、内戦(1918年)の直後という不安定な時代でした。彼女が生まれたのは独立後最初の冬であり、フィンランドという国そのものとほぼ同じ年齢を歩んだことになります。
中央芸術工業学校(現アアルト大学)で過ごした5年
1938年、20歳のヘレナはヘルシンキの中央芸術工業学校(Taideteollinen keskuskoulu)に入学します。専攻はモデルデザイン。当時の校舎はヘルシンキ中央駅の正面、テオドール・ヘイヤー設計の壮麗な石造建築アテネウム——現在は国立美術館として知られる建物——のなかにありました。
学校はその後、Taideteollinen oppilaitos、Taideteollinen korkeakoulu(芸術工業大学)と名称を変え、2010年にヘルシンキ工科大学・経済大学と統合してアアルト大学(Aalto University)芸術デザイン建築学部となります。テュネルが学んだ場所は、フィンランドで初めての本格的な工芸・デザイン教育機関で、そこで彼女は5年間、図面と造形の基礎を身につけました。
1943年、25歳で卒業。ちょうど第二次世界大戦の最中で、フィンランドはソビエト連邦との継続戦争(1941–1944)の只中にありました。物資が不足するなか、彼女はガラスでも陶磁器でもなく、まずは陶土とランプの図面の世界に飛び込みます。
1943年、アラビアで陶磁器、Taitoで照明——「午前と午後」の働き方
卒業した1943年、ヘレナは2つの会社に同時に職を得ました。午前中はTaito社で照明の図面を引き、午後はアラビア(ARABIA)で陶磁器のスカルプティングに従事する、という二足のわらじです。
Taito社は、後年彼女の夫となるパーヴォ・テュネル(Paavo Tynell, 1890–1973)が共同経営者を務めていた照明メーカーで、フィンランドの真鍮製ランプの代名詞のような存在でした。後年彼女がGlashütte Limburgで照明デザインを手がけることになる素地は、この時代に始まっています。
一方のアラビアでは、トイニ・ムオナ、フリードル・ホルツァー=キェルベリ、ルート・ブリュックといった陶芸の巨匠たちと同じ時代を過ごしました。アラビア在籍は1943年から1946年までの約3年間。そして1946年、彼女はガラス専門に転向するため、リーヒマキへ向かいます。
1946年、リーヒマキ・ガラスへ——30年の主任デザイナー時代
リーヒマキ・ガラス(Riihimäen Lasi Oy)は、1910年にヘルシンキの北約70kmの町リーヒマキで創業したガラスメーカーです。1927年に競合のロイマー(Loimaa)とコルホ(Korhola)を吸収し、1937年にはイッタラやカルフラを上回って国内最大の生産量を誇るガラス会社となりました。
町と工場の風景
リーヒマキはヘルシンキ–ハメーンリンナ鉄道(1862年開通)と、リーヒマキ–サンクトペテルブルク線の分岐点として発展した鉄道町で、ガラス工場の周囲には窯から立ちのぼる煙と、出荷を待つガラス瓶のクレートが並んでいました。テュネルが入社したのは終戦の翌年、フィンランドが戦後賠償と物資不足に苦しんでいた時代です。
北欧デザインコンペで第3位
1949年、ヘレナは北欧デザインコンペティションで第3位に入賞します。同年からはガラスエングレーバーのテオドール・ケッピ(Teodor Käppi)と協働を始め、彫刻的な造形のガラスへと作風を深めていきました。
1959年に発表された「Polar」シリーズ、そして1960年代に立て続けに生み出される代表作群は、彼女の30年にわたるリーヒマキ時代の中心です。1976年、リーヒマキ・ガラスが美術ガラス(Fine glassmaking)部門を閉鎖したことで、彼女のフィンランド時代は一旦区切りを迎えます。なお工場本体は1980年にAhlstrom社に売却され、1990年に閉鎖されました。
Aurinkopullo(サン・ボトル)——4サイズ、19色の太陽
1964年、リーヒマキ・ガラスから「Aurinkopullo(アウリンコプッロ/サン・ボトル)」が発表されました。「Aurinko」はフィンランド語で「太陽」、「pullo」は「瓶」。フィンランド語では「Kukkapullo(花の瓶)」と呼ばれることもあります。
ボトルは円形で、両側が浅く凹み、中央の小さな円から外側へ向かって光線が放射状に伸びるレリーフが金型で刻まれています。モールド吹き(mould-blown)の技法で、サイズは4種類、色はクリア、アンバー、スモーク、エメラルド、コバルト、ルビー、ウラン(蛍光黄緑)など19色を超えるバリエーションが製造されました。
1964年の発売から1974年まで10年間にわたって生産が続き、フィンランドの中産家庭の窓辺やキャビネットを飾るアイコンとなりました。2018年には、テュネルの生誕100周年を記念して300本限定で復刻生産されています。
本作のためにデザインされたモチーフは、彼女が幼少期に見ていたオーネコスキの太陽——森の上に低く昇る冬の陽、湖面に反射する初夏の光——を思わせます。フィンランドの冬は短く、太陽は地平線をなめるように動きます。だからこそ、太陽そのものをガラスに閉じ込める発想が生まれたのでしょう。
柱時計、Pala、Alko記念ボトル——多彩な代表作
テュネルの代表作はサン・ボトルだけではありません。1966年から69年にかけて生産された「Kaappikello(カーッピケッロ)」は、その名のとおり柱時計のかたちをしたガラスベースで、彫刻家としての彼女の本領が発揮された作品です。スモークやアンバーの色ガラスに、時計の文字盤を思わせるレリーフが浮かびます。
「Pala(パラ)」は1964年にデザインされ1976年まで生産された、角型のガラスベースシリーズ。クリア、グリーン、紫、赤、青、黄など多彩な色で展開され、サイズも複数あります。「Tippa(ティッパ/しずく)」のカラフェ、「Nappi(ナッピ/ボタン)」のグラスシリーズ、「Solar」の日常食器など、量産ガラスのなかにも彫刻的な発想を持ち込みました。
1972年、フィンランド国営のアルコール販売会社Alkoが創業40周年を迎えた際、記念ボトルのデザインを担当したのもテュネルでした。同年にはヘルシンキの「ホテル・ヴァークナ(Hotel Vaakuna)」のレストランとロビーに、夫パーヴォ・テュネルの照明と並んで動物モチーフの真鍮製テーブルを納めています。フィンランドの公共空間そのものが、テュネル夫妻の作品で彩られていた時代でした。
西ドイツ Glashütte Limburg の10年——1976–1986
1973年に夫パーヴォ・テュネルを亡くし、1976年にリーヒマキ・ガラスの美術ガラス部門が閉鎖された後、ヘレナはドイツ・ヘッセン州のリンブルク・アン・デア・ラーン(Limburg an der Lahn)に拠点を移します。そこで彼女が約10年にわたって関わったのが、Glashütte Limburg(リンブルク・ガラス工房、1945年創業の照明専業メーカー)です。
同社では、気泡を閉じ込めた厚手のガラス(バブルガラス)のシェードを用いた、ペンダントランプ、シーリングランプ、テーブルランプの大規模なコレクションを手がけました。アンバー、スモーク、クリアといった抑えた色調と、丸み・しずく・球などの彫刻的な造形が特徴です。1962年からはBEGA社と提携しており、彼女の照明はドイツ・ヨーロッパ各地のレストランやホテルに納められました。
1986年、BEGAから芸術的自由を与えられたヘレナは、ふたたびフィンランドへ戻ります。リーヒマキで30年、リンブルクで10年——ガラスのデザイナーとして40年以上を量産の現場に注いだ末の帰国でした。
パーヴォ・テュネルとの結婚——フィンランドデザイン史の伴侶
1947年、ヘレナは28歳で、当時57歳のパーヴォ・テュネル(Paavo Tynell, 1890–1973)と結婚しました。年齢差は28歳。パーヴォは1918年に創業した照明メーカーTaitoの共同経営者で、フィンランドの真鍮製ランプを代表するデザイナーです。アルヴァ・アアルトの建築物のための照明、フィンランド国会議事堂やヘルシンキ中央郵便局の照明など、彼の手による作品は20世紀フィンランドの公共空間そのものを形づくりました。
「パーヴォの息子と結婚した」と紹介されることがありますが、これは誤りで、彼女が結婚したのはパーヴォ本人です。1952年に第二子を授かり、1973年9月、パーヴォは83歳で亡くなりました。3年後の1976年に彼女がドイツへ移住したのは、夫の死とリーヒマキの美術ガラス閉鎖が重なった結果でした。
帰国後の30年——1986年から2016年まで
1986年、ヘレナはフィンランドに帰国し、トゥースラ(Tuusula、ヘルシンキ近郊の町)にアトリエを構えました。量産ではなく、空間を意識した一点もののガラスアートを制作する晩年が始まります。
1998年9月から1999年4月にかけて、リーヒマキのフィンランド・ガラス博物館で大規模な回顧展「Helena Tynell: Design 1943–1993」が開催されました。50年にわたる作品が一堂に集められ、テュネルというデザイナーの全体像を伝える初めての機会となりました。
2016年1月18日、トゥースラで97歳で没しました。彼女の没後、リーヒマキ市はナニー・スティルとヘレナ・テュネルの名を冠した通りを命名し、二人のガラスデザイナーを町の歴史に刻んでいます。
日本との接点——2020–2022年の巡回展
ヘレナ・テュネル本人が来日した記録は確認されていません。しかし没後、彼女の作品は日本各地の美術館で紹介されています。
2020年から2022年にかけて、ヘルシンキ美術館(HAM)とNHKプロモーション主催のフィンランド・デザイン展「Patterns and Forms Inspired by Nature(自然と共に生きるデザイン)」が日本を巡回しました。
- 鳥取県立博物館:2020年10月10日–11月15日
- 北九州市立美術館:2021年6月25日–8月29日
- 兵庫陶芸美術館:2021年9月11日–11月28日
- Bunkamura ザ・ミュージアム(東京):2021年12月7日–2022年1月30日
展示には、リーヒマキ・ガラスのテュネル作品と、フィンランド・デザイン全体を代表する作家たちが含まれ、日本の観客に「自然から造形を引き出すフィンランドの伝統」を伝えました。日本の柳宗悦が説いた「用の美」と、フィンランドの「人々のためのデザイン」は、同時代に異なる土地で響き合った思想です。テュネルが作品に刻んだ太陽・水紋・樹皮も、その文脈で読み直すことができます。
まとめ——「光のデザイナー」という呼び名
この記事のまとめ
- ヘレナ・テュネル(1918–2016)はフィンランド中部オーネコスキ生まれ。中央芸術工業学校(現アアルト大学)で学んだ。
- 1943年にアラビアで陶磁器、Taitoで照明の図面を手がけ、1946年からはリーヒマキ・ガラスの主任デザイナーとして30年活動。
- 1964年発表の「Aurinkopullo(サン・ボトル)」は、4サイズ・19色を超えるバリエーションで1974年まで生産された代表作。
- 1976年から約10年間は西ドイツのGlashütte Limburgで照明をデザインし、1986年に帰国。トゥースラで97歳の没年まで作品を発表し続けた。
- 夫は照明デザイナーのパーヴォ・テュネル(1890–1973)。28歳の年齢差を超えて結ばれた、フィンランドデザイン史の伴侶。
- 2020–2022年に日本各地で巡回したフィンランド・デザイン展で、彼女の作品が紹介された。
陶土から始まり、量産ガラス、照明、晩年の一点ものへ——ヘレナ・テュネルが97年で残した作品は、素材も用途も多岐にわたります。それでも一貫していたのは「光」をかたちにする姿勢でした。フィンランドの冬は長く、太陽は短く、湖は凍る。だからこそ、ガラスに閉じ込められた光は、北欧の人々にとって季節そのものでもあります。
ヘレナ・テュネルのガラスを手にすると、オーネコスキの湖、リーヒマキの工場、リンブルクのバブルガラス、トゥースラのアトリエ——彼女が暮らした北の土地のいくつもの光景が、薄くガラスの向こう側に重なって見えてきます。