グンネル・ニューマン(Gunnel Nyman)完全ガイド|39歳で逝ったフィンランド・モダンガラスの先駆者——気泡と透明の詩

グンネル・ニューマン(Gunnel Nyman)完全ガイド|39歳で逝ったフィンランド・モダンガラスの先駆者——気泡と透明の詩

この記事の要点

  • グンネル・ニューマン(Gunnel Nyman、ニーマンとも表記、1909–1948)は、フィンランド最古の都市トゥルクに生まれ、近代フィンランドガラスの礎を築いた先駆者の一人です。本名はグンネル・アニタ・グスタフソン(Gunnel Anita Gustafsson)。
  • ヘルシンキの応用美術学校でアルットゥ・ブルンメル(Arttu Brummer)に家具デザインを学び、当初は家具・照明・金属工芸を手がけました。出発点はガラスではありませんでした。
  • 第二次大戦後、リーヒマキ、カルフラ=イッタラ、ヌータヤルヴィといったフィンランドの主要なガラスの窯と協働した稀有な存在になりました。
  • とりわけ晩年のヌータヤルヴィ時代(1946–1948)に60点を超えるデザインを残し、内包気泡や「ブライダル・ヴェール」と呼ばれる技法で、透明ガラスの有機的なフォルムを切り拓きました。
  • 1948年、わずか39歳で世を去りました。没後の1951年ミラノ・トリエンナーレで金賞を受け、その仕事はヴィルッカラやサルパネヴァが担うフィンランドガラスの黄金期を準備しました。

グンネル・ニューマン——気泡と透明に詩を込めた、フィンランドガラスの先駆者

グンネル・ニューマン(Gunnel Nyman)のポートレート
グンネル・ニューマン(旧姓グスタフソン、1909–1948)。画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン

グンネル・ニューマン(Gunnel Nyman、ニーマンとも表記、1909–1948)は、フィンランドのガラス・デザイナーです。アルヴァ・アアルト夫妻と同じ時代に活動し、わずか39歳で病に倒れながら、その短い活動期にフィンランドガラスの方向そのものを変えました。

彼女のキャリアはガラスから始まったのではありません。ヘルシンキの応用美術学校で家具デザインを学び、当初は機能主義の家具、教会のための金属工芸、劇場の照明を手がけました。ガラスへ本格的に軸足を移したのは第二次大戦後、人生の最後の数年のことです。それでも彼女は、リーヒマキ、カルフラ=イッタラ、ヌータヤルヴィという主要な窯すべてと協働し、透明なガラスのなかに気泡や螺旋を封じ込めた、静かで有機的な作品を残しました。

本記事では、当店ブログの「ヌータヤルヴィ・ガラス工房の歴史」「リーヒマキ・ガラス工房の歴史」「イッタラ村の歴史」を補う形で、トゥルクの古都からフィンランドの主要なガラスの窯へと歩みを進めたニューマンの39年を、フィンランドの風景とともにたどります。

この記事でわかること

  • グンネル・ニューマンの生涯と、トゥルク・ヘルシンキ・フィンランドの主要なガラスの窯をめぐる足跡
  • 家具・照明のデザイナーからガラスへ転身した、その道のり
  • 内包気泡と「ブライダル・ヴェール」——彼女が切り拓いたガラス技法
  • セルペンティーニ、カラ、ヘルミナウハといった代表作と、没後の評価・日本での紹介

目次

  1. トゥルク——フィンランド最古の古都に生まれて
    1. アウラ川の河口に開けた町
    2. 1827年の大火と、その後のトゥルク
  2. ヘルシンキ、応用美術学校とアルットゥ・ブルンメル
    1. デザインの揺籃となった石造の殿堂
  3. 家具・照明・金属——ガラス以前のニューマン
  4. 戦後、ガラスへ——主要な窯を渡り歩いた稀有なデザイナー
    1. リーヒマキ——フィンランドを代表する大規模な窯
    2. カルフラ=イッタラ
  5. ヌータヤルヴィの二年間——芸術的な頂点
  6. 気泡と透明——ニューマンのガラス技法
  7. 代表作——セルペンティーニ、カラ、ヘルミナウハ
  8. 早すぎる死と、その後の評価
  9. グンネル・ニューマンと日本

基本情報

名前 グンネル・ニューマン(Gunnel Nyman、旧姓 Gustafsson)
生没年 1909年9月19日 – 1948年10月7日(享年39歳)
国籍 フィンランド
出身地 トゥルク(Turku)/1922年にヘルシンキへ移住
教育 ヘルシンキの応用美術学校(Taideteollinen oppilaitos、現アアルト大学系)で家具デザインを専攻(1928–1932年頃)。師はアルットゥ・ブルンメル(Arttu Brummer)
主な活動領域 ガラス(リーヒマキ、カルフラ=イッタラ、ヌータヤルヴィ)、家具、照明、金属工芸
代表作 セルペンティーニ(Serpentiini)、カラ(Calla)、ヘルミナウハ(Helminauha)、ファセッティ(Fasetti)ほか
主な受賞 1933年ミラノ・トリエンナーレ銅賞/1937年パリ万国博覧会金賞/1947年プロ・フィンランディア勲章・スウェーデン王立美術アカデミー会員/1951年ミラノ・トリエンナーレ金賞(没後)

トゥルク——フィンランド最古の古都に生まれて

グンネル・ニューマンの足跡をたどる旅は、フィンランド最古の都市トゥルク(Turku)から始まります。1909年9月19日、彼女はこの南西海岸の古都に、グンネル・アニタ・グスタフソンとして生まれました。

トゥルク大聖堂
トゥルク大聖堂。1300年に献堂されたフィンランドの母なる聖堂で、赤レンガの塔が川辺にそびえる姿。画像:Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0 / Markus Koljonen

アウラ川の河口に開けた町

トゥルクは、バルト海の一部であるアーキペラゴ海(群島海)へと流れ込むアウラ川の河口に開けた町です。1229年を起点とする中世以来の中心都市で、スウェーデン統治下では事実上の首都として栄え、ロシアへ割譲された後も1812年にヘルシンキへ遷都されるまで公式の首都でした。

町の起こりは1229年にさかのぼります。この年、教皇グレゴリウス9世がフィンランドの司教座をアウラ川のほとりへ移すことを認め、これが集落発展の契機となりました。スウェーデン王国のなかでトゥルクは、首都ストックホルムに次ぐ第2の都市として、行政・学術・宗教の中心を担います。1809年にフィンランドがロシアへ割譲された後も、大公国の首都はしばらくこの町に置かれていました。

川を軸に、1300年に献堂されたトゥルク大聖堂の塔と、1280年頃に河口を守る要塞として築かれたトゥルク城が向かい合います。城はフィンランドに現存する最大の中世建造物で、大聖堂とともに、今なお使われ続ける最古級の建造物です。大聖堂の内部には、1827年の大火のあとに画家ロベルト・ヴィルヘルム・エークマン(R. W. Ekman)が描いた19世紀の壁画と、中世以来の墓所があり、町の長い記憶を今に伝えています。

トゥルク旧市街のブリンッカラ館
トゥルク旧市街のブリンッカラ館。石畳の広場に面して建つ歴史的な建物。画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン

1827年の大火と、その後のトゥルク

1827年9月、トゥルクは北欧史に残る大きな都市火災に見舞われ、市街のおよそ4分の3が焼失しました。中世以来の木造の町並みは大きく失われ、その後は建築家カール・ルートヴィヒ・エンゲル(Carl Ludvig Engel)の計画にもとづいて碁盤目状に再建されました。タリンやストックホルムのように連続した中世の旧市街が残っていないのはこのためです。

トゥルクの歴史的な街並みに残る建物
トゥルクの歴史的な街区に残る建物。大火と再建を経たのちの古都の表情。画像:Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0 / Mikkoau

それでも、大聖堂と城、川辺の手仕事博物館ルオスタリンマキなど、火災を免れた一画にはいまも古い時間が息づいています。20世紀には造船所などの工業施設が郊外へ移り、かつての川岸は、カフェやアートの並ぶ穏やかな散歩道に生まれ変わりました。1909年、この川辺の古都にニューマンは生を享けます。バルト海の光と、川面に映る空の色——のちに彼女がガラスのなかへ閉じ込める透明感を想起させる風景が、生まれ育った町にはありました。1922年、13歳のとき、彼女は家族とともにヘルシンキへ移りました。

ヘルシンキ、応用美術学校とアルットゥ・ブルンメル

ヘルシンキに移り住んだニューマンは、やがてこの国のデザインの揺籃となる学校の門をくぐります。ヘルシンキの応用美術学校(Taideteollinen oppilaitos)です。1928年から1932年頃にかけて、彼女はここで家具デザインを学びました。

ヘルシンキの建物のステンドグラス窓
ヘルシンキ・アルベルティンカトゥの建物に残るステンドグラスの半円窓。20世紀初頭のフィンランドの建築ガラス。画像:Wikimedia Commons/CC BY 4.0 / Acediscovery

デザインの揺籃となった石造の殿堂

当時の応用美術学校は、ヘルシンキ中央駅の前、カイヴォカトゥに建つ壮麗なアテネウム館(1887年落成)に入っていました。建築家テオドール・ホイヤー(Theodor Höijer)の設計によるネオ・ルネサンス様式の殿堂で、ファサードには「小さなものも、調和によって大きく育つ」という意味の銘が刻まれています。フィンランド工芸協会の応用美術学校と、美術協会の素描学校が同じ屋根の下に同居し、「美術と応用美術をひとつ屋根の下に」という理念のもとで運営されていた場所です。当初から男女を分け隔てなく学生を迎え、1980年代に至るまで、フィンランドの多くの芸術家・デザイナーがここから巣立ちました。

彼女を導いたのは、フィンランド工芸の名教師アルットゥ・ブルンメル(Arttu Brummer、1891–1951)です。1919年から構成法を、1928年からは家具デザインを教えたブルンメルは、ニューマンを含む一世代のデザイナーを育てた中心人物でした。その功績をたたえ、のちにフィンランドのデザイナー協会オルナモが「ブルンメル賞」を設けています。やがて彼が弟子をガラスの世界へと導くことになりますが、それはまだ少し先の話です。のちにこの学校は応用美術大学を経て、現在のアアルト大学芸術・デザイン・建築学部へと受け継がれています。

ヘルシンキのデザイン博物館
ヘルシンキのデザイン博物館(Designmuseo)。フィンランド・デザインの歩みを収蔵する拠点。画像:Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0 / Vadelmavene

家具・照明・金属——ガラス以前のニューマン

今日のニューマンは「ガラスの作家」として広く名を残していますが、その出発点は家具でした。学校を出た彼女は、機能主義(ファンクショナリズム)の様式で家具をデザインし、1935年から37年頃にかけては家具・工芸の会社タイト(Taito Oy)で家具デザイナーとして働いています。

仕事の幅は家具にとどまりませんでした。教会のための金属工芸、そしてヘルシンキのスウェーデン劇場(Svenska Teatern)の照明を、金工の職人と協働で手がけています。素材を問わず、用途とかたちの関係を考え抜くこの時期の経験が、のちのガラスにおける簡素なフォルムの感覚を準備したといえます。

1936年、彼女は弁護士のグンナル・ニューマン(Gunnar Nyman)と結婚し、3人の娘を育てました。ヘルシンキの中心部で暮らし、子どもたちが眠ったあとの時間に制作を続けたという逸話も残っています。

戦後、ガラスへ——主要な窯を渡り歩いた稀有なデザイナー

第二次大戦後、ニューマンのまなざしはガラスへと向かいます。彼女が際立っているのは、特定の一社に専属するのではなく、フリーランスの委託デザイナーとして、リーヒマキ、カルフラ=イッタラ、ヌータヤルヴィといったフィンランドの主要なガラスの窯と協働した点です。在籍した時期は窯ごとに重なり合っており、複数の窯に同時に関わっていたといえます。

イッタラのガラス村の眺め
秋のイッタラのガラス村。白樺の黄葉に包まれた、ハメーンリンナの静かな村。画像:Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0 / Kotivalo

リーヒマキ——フィンランドを代表する大規模な窯

リーヒマキのガラス工場(Riihimäen Lasi)は1910年に創業し、最盛期には1000人を超える人々が働く、フィンランドを代表する大規模な窯へと成長しました。のちにタマラ・アラディン(Tamara Aladin)の色ガラスの花瓶や、ティモ・サルパネヴァ(Timo Sarpaneva)の作品でも知られるこの窯で、ニューマンも委託デザイナーとして作品を生み出しました。代表作のひとつカラ(Calla)は、このリーヒマキの窯で生まれています。

リーヒマキの旧ガラス工場
雪に包まれたリーヒマキの旧ガラス工場。現在はフィンランド・ガラス博物館として、れんがの煙突とともに残る。画像:Wikimedia Commons/CC0 / Ypsilon from Finland
ヘレナ・テュネルがリーヒマキ・ガラスのためにデザインした柱時計型のガラス
ヘレナ・テュネル(Helena Tynell)がリーヒマキ・ガラスのためにデザインした「カープケッロ(柱時計)」(ニューマン本人の作品ではない、1966–69年)。リーヒマキが生んだガラスの一例。画像:Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0 / Sinikka Halme

リーヒマキの旧工場は、いまではフィンランド・ガラス博物館(Suomen Lasimuseo)になっています。もとは1914年に建てられた工場の建物で、1921年からガラスの窯として使われ、のちに博物館へと姿を変えました。その常設展示を設計したのは、フィンランドガラスを代表する彫刻家タピオ・ヴィルッカラ(Tapio Wirkkala)です。リーヒマキは自らを「フィンランドのガラスの街」と呼び、この博物館は町を代表する見どころのひとつとなっています。

カルフラ=イッタラ

南東部コトカのカルフラ(Karhula)のガラス工場は1889年の創業です。実業家ウィリアム・ルース(William Ruth)が興した事業に始まり、1915年には大手のA・アールストロム社の傘下に入りました。1917年にはイッタラ(Iittala)を取得し、のちに「カルフラ=イッタラ」としてひとつの企業体のもとで製品を世に送り出します。ニューマンはおおむね1946年から47年頃に、この系列の窯と協働しました。

内陸ハメーンリンナの湖と森に抱かれたイッタラ村は、1881年の創業です。スウェーデン人のガラス職人ペトルス・マグヌス・アブラハムソン(Petrus Magnus Abrahamsson)が興し、スウェーデンのリマレッドから来た職人たちが同年11月24日に最初のガラスを吹きました。フィスカース社の傘下に入ったのちも、イッタラ村はフィンランドのガラス文化を象徴する場所として知られてきました。アアルトのベースやヴィルッカラのウルティマ・トゥーレといった名作は、この村の名と深く結びついています。

1968年のイッタラのガラス工場の内部
イッタラのガラス工場の内部(1968年)。溶けたガラスの光を囲んで働く職人たちの姿。画像:Wikimedia Commons/CC0 / Szilas

ヌータヤルヴィの二年間——芸術的な頂点

ニューマンが芸術的な頂点を迎えたのは、最晩年に加わったヌータヤルヴィ(Nuutajärvi)でのことです。1793年に創業したヌータヤルヴィは、フィンランド最古のガラスの村です。ヤコブ・ヴィルヘルム・デ・ポン(Jacob Wilhelm de Pont)らによって興され、ガラスを焼くための大量の薪を確保できる森に囲まれて立地が選ばれました。窯の炎を絶やさぬための森——フィンランドのガラスが、いかに土地そのものと結びついていたかを物語る選択です。

ヌータヤルヴィのガラス工場
ヌータヤルヴィのガラス工場。白い木造の建物が、フィンランド最古のガラスの村に残る。画像:Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0 / Mikkoau

1946年にこの窯へ加わったニューマンは、1948年に世を去るまでのわずか二年あまりのあいだに、実用的な器から彫刻的なアートグラスまで、60点を超えるデザインを集中的に生み出しました。代表作セルペンティーニ(Serpentiini)も、このヌータヤルヴィで1947年に生まれています。彼女はまた、デザイナーと吹き工が工房のなかで密に協働しながらかたちを探る制作のあり方を確立した先駆者でもありました。

ヌータヤルヴィの荘園へ続く並木道
ヌータヤルヴィ(ウルヤラ)の旧荘園へと続く並木道。夏のフィンランドの田園風景が広がる。画像:Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0 / Kotivalo

ニューマンが礎を築いたこの窯は、その後もフィンランドガラスの中心であり続けました。彼女の没後、1951年から1973年まではカイ・フランク(Kaj Franck)がヌータヤルヴィのアート部門を率い、1972年からはオイバ・トイッカ(Oiva Toikka)のガラスの鳥がこの村で作られ続けました。透明と色彩をめぐるニューマンの探求は、こうして次の世代へと受け継がれていきます。

カイ・フランクがヌータヤルヴィのためにデザインしたガラス
カイ・フランク(Kaj Franck)がヌータヤルヴィのためにデザインしたガラス(1953年、ニューマン本人の作品ではない)。ニューマンが礎を築いた同じ窯から、後年生まれた一例。画像:Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0 / Nasjonalmuseet

気泡と透明——ニューマンのガラス技法

ニューマンのガラスを特徴づけるのは、装飾を表面に貼り付けるのではなく、ガラスそのものの内部に光と模様を封じ込める発想です。彼女が確立し、洗練させた技法は、大きく二つに整理できます。

内包気泡(コントロールド・バブル)

ひとつは、厚い透明ガラスの内部に微細な気泡を規則的に閉じ込める技法です。気泡は光を屈折させ、無色のガラスそのものを内側から輝かせます。整然と連なる気泡を真珠の連なりに見立てた作品ヘルミナウハ(Helminauha、「真珠の連なり」の意)は、まさにこの発想を体現しています。

ブライダル・ヴェール(スモーク技法)

もうひとつは、1947年に偶然から生まれた「ブライダル・ヴェール」と呼ばれる表現です。吹き作業の途中で閉じ込められた煙の層が、ガラスの内部に淡いヴェールのような効果を生みます。ニューマンはこの偶然を、制御された表現へと昇華させました。液体から固体へと移ろうガラスの可塑性、その「ちょうどその瞬間」への関心が、装飾を排した有機的なフォルムと、量塊と光の表現を導いています。

カイ・フランクのカルティオのガラス
カイ・フランク(Kaj Franck)のカルティオ。ニューマン本人の作品ではなく、後年のフィンランドガラスの参考例。無色や淡い色のガラスそのものの美しさを生かす方向性。画像:Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0 / Quercus acuta

代表作——セルペンティーニ、カラ、ヘルミナウハ

短い活動期にもかかわらず、ニューマンはフィンランド・モダンガラスの古典といえる作品をいくつも残しました。

セルペンティーニ(Serpentiini)

「蛇行」を意味するセルペンティーニは、1947年にヌータヤルヴィでデザインされた代表作です。透明な器体の内部を、白いオパール色のフィリグリー(ガラスの細い帯)がゆるやかに蛇行し、静かな水流のような有機的なフォルムを描きます。装飾を器の表面に描くのではなく、ガラスの厚みのなかに封じ込めるという発想が、ここにも一貫しています。フィンランド・モダンガラスを語るうえで欠かせない一作として、国際的に美術館へ収蔵されています。

カラ(Calla)

1946年にリーヒマキでデザインされたカラは、カラー(オランダカイウ)の花を思わせる、凛とした器形を持つ花器です。簡素でありながら張りのある輪郭が、彼女の家具・照明で培われた造形感覚をうかがわせます。

ヘルミナウハ、ファセッティ、そして最後の作品

内包気泡を真珠の連なりに見立てたヘルミナウハ(Helminauha)、自由吹きのクリスタルによるファセッティ(Fasetti)、シフォンのように軽やかなシフォンキ(Sifonki)など、彼女の作品は透明感と有機的なかたちで一貫しています。晩年には、ほのかな色を含んだ自由吹きの作品ルースンレフティ(Ruusunlehti、「バラの花びら」)も手がけたとされます。

ヌータヤルヴィのカステヘルミのガラス
オイバ・トイッカ(Oiva Toikka)のカステヘルミ。ニューマン本人の作品ではなく、同じヌータヤルヴィから生まれた後年の参考例。画像:Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0 / Tommi Nummelin

早すぎる死と、その後の評価

1948年10月7日、ニューマンは長い闘病の末、わずか39歳で世を去りました。最後の夏を南フィンランド・シポー(Sipoo)の群島で家族と過ごし、末の娘はまだ3歳でした。彼女の活動がもっとも充実していた、その只中での死でした。

評価は、没後にいっそう確かなものになりました。1937年のパリ万国博覧会では金賞を受け、1947年にはプロ・フィンランディア勲章を受章、スウェーデン王立美術アカデミーの会員にも選ばれています。そして没後の1951年、ミラノ・トリエンナーレで金賞が贈られました。その作品は、リーヒマキのフィンランド・ガラス博物館、ヘルシンキのデザイン博物館をはじめ、国内外の美術館に収蔵されています。

イッタラのガラス工場で作業するタピオ・ヴィルッカラ
イッタラの工場でガラスを見つめるタピオ・ヴィルッカラ。ニューマン以後のフィンランドガラス黄金期を担った作家のひとり。画像:Wikimedia Commons/CC BY 4.0 / Herman Alfred Turja

無色透明のガラスの流れるような有機的フォルム、微細な気泡の封入、偶然から育てた技法——これらは、1950年代にティモ・サルパネヴァやタピオ・ヴィルッカラが世界を席巻するフィンランドガラスの黄金期を、まさにその夜明けに立って準備したものでした。近年は、実業家キュオスティ・カッコネン(Kyösti Kakkonen)が国外の収集家からニューマンを含むフィンランドガラスの稀少なコレクションを母国へ「里帰り」させ、エスポーのEMMA(エスポー近代美術館)で公開しています。こうした収集と公開の動きは、ニューマンの仕事がフィンランドのデザイン史において重要な位置を占めていることを示しています。

グンネル・ニューマンと日本

日本でニューマンの名が広く知られるようになったのは、近年の展覧会を通してです。2022年から2024年にかけて、富山市ガラス美術館、東京都庭園美術館、兵庫陶芸美術館などを巡回した「フィンランド・グラスアート 輝きと彩りのモダンデザイン」展では、アアルト夫妻やカイ・フランク、ヴィルッカラ、サルパネヴァらとともに、ニューマンが「フィンランド・デザインの黎明期を支えた」存在として位置づけられました。富山市ガラス美術館では2022年11月から2023年1月にかけて開かれ、1947年の作品《ストリーマー》などが出展されました。同展の図録は国書刊行会から日本語で刊行されました。

北欧の長い冬の薄明かりや、湖面の透明感を思わせる、簡素で有機的な彼女のガラス。装飾を抑え、素材そのものの質感と光を生かすその姿勢は、日本の「用の美」や自然観と静かに響き合うと読むこともできます。ただし、ニューマン自身と日本との直接の交流を示す史料は確認されていません。この親和性は、あくまで作品を前にしたときの鑑賞と解釈の次元にとどまるものとして、書き添えておきます。

まとめ

  • グンネル・ニューマン(1909–1948)は、トゥルクに生まれヘルシンキで学んだ、近代フィンランドガラスの先駆者の一人。
  • 家具・照明・金属工芸のデザイナーとして出発し、戦後にガラスへ転身した。
  • リーヒマキ、カルフラ=イッタラ、ヌータヤルヴィという主要な窯すべてと協働し、晩年のヌータヤルヴィ時代に60点超を残した。
  • 内包気泡と「ブライダル・ヴェール」によって、透明ガラスの有機的なフォルムを切り拓いた。
  • 39歳で早世したが、没後の1951年ミラノ・トリエンナーレ金賞をはじめ高く評価され、サルパネヴァやヴィルッカラの黄金期を準備した。

家具から始まり、照明、金属、そして最後の数年に凝縮されたガラスへ——グンネル・ニューマンが39年で残した仕事は、領域を越えて広がっています。それでも一貫していたのは、素材そのものに語らせるという姿勢でした。フィンランドの冬は長く、日照時間は短く、湖は凍ります。だからこそ、透明なガラスに閉じ込められた光や気泡は、北欧の人々にとって季節や水辺の記憶そのものでもあります。

ニューマンのガラスに目を向けると、アウラ川の古都トゥルク、ヘルシンキの石造の学舎、リーヒマキの煙突、薪の森に囲まれたヌータヤルヴィ——彼女が生き、働いた北の土地のいくつもの光景が、薄いガラスの向こう側に静かに重なって見えてきます。

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