ナニー・スティル完全ガイド|カプリの色彩をガラスに閉じ込めたフィンランドの革新者
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この記事の要点
- ナニー・スティル(1926–2009)はフィンランドを代表するガラスデザイナー
- リーヒマキ・ガラスで27年間活躍し、ハーレキーニ、フリンダリ、グラッポニアなど数々の名作を生んだ
- ミラノ・トリエンナーレに3回出展し、1972年にはプロ・フィンランディア勲章を受章
- 作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)、大英博物館、メトロポリタン美術館に所蔵されている
- リーヒマキの女性デザイナーとして「ガラスの天井」を破った先駆者のひとり
目次
ナニー・スティルとは——色彩の革命児
ナニー・エリザベト・スティル(Nanny Elisabet Still, 1926–2009)。フィンランドが生んだ、20世紀を代表するガラスデザイナーのひとりです。
フィンランドのガラスデザインといえば、タピオ・ヴィルカラやティモ・サルパネヴァの名が真っ先に浮かぶかもしれません。しかし、1950年代のフィンランドデザイン黄金時代を語るうえで、ナニー・スティルの存在は欠かすことができません。リーヒマキ・ガラス(Riihimäen Lasi)で27年間にわたって創作を続け、大胆な色彩と斬新なフォルムで北欧ガラスデザインの歴史に鮮やかな足跡を残しました。
スティルの作品を特徴づけるのは、何よりもその色彩感覚です。地中海のターコイズブルー、琥珀色のクリスタル、深い紫——彼女のガラスは、北欧デザインに対する「抑制された色調」というステレオタイプを鮮やかに覆しました。スティルは常に色彩の実験を続け、伝統的な技法を再解釈して、独自の表現を追求し続けたのです。
ヘルシンキに生まれて
1926年7月31日、ナニー・スティルはフィンランドの首都ヘルシンキで生まれました。バルト海に面したこの北方の港町は、20世紀初頭からフィンランドの芸術と文化の中心地として発展を続けていました。
スティルが幼少期を過ごした1930年代のヘルシンキは、独立からわずか十数年のフィンランドが、自国のアイデンティティを芸術やデザインのなかに見出そうとしていた時代でした。アルヴァ・アアルトの建築が国際的な注目を集め、フィンランド独自のモダンデザインが芽吹き始めていた頃です。
中央工芸学校——金属工芸からガラスの世界へ
1945年、19歳のスティルはヘルシンキの中央工芸学校(Taideteollinen oppilaitos、現在のアールト大学芸術・デザイン・建築学部)に入学しました。最初の1年間(1945–1946年)は美術教育科で学び、その後1946年から1949年まで金属工芸科に在籍しています。
金属工芸を専攻しながらも、スティルは在学中にガラスという素材に惹かれていきます。1949年、卒業を控えた彼女に転機が訪れました。リーヒマキ・ガラスが北欧全域を対象としたデザインコンペティションを開催し、スティルはアートガラスと日用ガラスの両部門で入選を果たしたのです。この結果が彼女の運命を決定づけました。
リーヒマキ・ガラスとの出会い——27年間の創造の旅
1949年、コンペでの入選を機に、スティルはリーヒマキ・ガラス(Riihimäen Lasi Oy)にデザイナーとして採用されました。当時のリーヒマキはフィンランド最大のガラス工場であり、北欧最大級の規模を誇っていました。
リーヒマキ・ガラスは1910年にミッコ・アドルフ・コレフマイネンによって設立されました。当初はボトルや窓ガラスの製造から始まり、1927年にカウカラハティ・ガラスを買収して北欧最大のガラス工場へと成長しました。スティルが入社した頃のリーヒマキは、日用品ガラスからアートガラスまで幅広い製品を手がけ、デザインの質を飛躍的に高めようとしていた時期にあたります。
スティルは、リーヒマキにとって初期の女性デザイナーのひとりとして入社しました。同じ1949年にヘレナ・ティネル(Helena Tynell, 1918–2016)も入社しており、二人はその後四半世紀にわたって工場のデザインを牽引することになります。
トルマリン——クリスタルに宿る詩
入社後、スティルは装飾的なアートガラスと実用的な日用品ガラスの両方のデザインを手がけました。1950年代のフィンランドは「デザイン黄金時代」と呼ばれる時期にさしかかっており、スティルはまさにその渦中で頭角を現していきます。
初期の代表作が「トルマリン」(Tourmalin)です。宝石のトルマリン(電気石)から名付けられたこのクリスタルガラスのシリーズは、1956年のパリでの展覧会に出展され、スティルが追求するクリスタルガラスの特質——光の屈折と色彩の深み——を見事に体現していました。
カプリ島の記憶——ハーレキーニの誕生
1958年、スティルの名を世界に知らしめることになる代表作「ハーレキーニ」(Harlekiini)が誕生します。
きっかけは、イタリア・カプリ島での体験でした。地中海に浮かぶこの小さな島を訪れたスティルは、海岸で一片のガラスを拾い上げます。波に洗われ、太陽に焼かれたそのガラス片が宿していた深い地中海ブルー——その色彩が、ハーレキーニの着想の源となりました。
ハーレキーニ・シリーズは、カラフェ、ピッチャー、ゴブレット、ジャーなど約24点で構成されていました。鮮やかなターコイズブルーの本体に、透明なガラスの脚やストッパー、ハンドルを組み合わせた幾何学的なフォルムが特徴です。球体、円筒、円錐という基本形を巧みに組み合わせ、グラスの縁には液だれを防ぐ繊細なリムが施されていました。
「道化師」を意味するハーレキーニ(イタリア語のアルレッキーノに由来)は、色彩の大胆さと形態の明快さを見事に両立させた作品でした。1950年代後半の北欧ガラスデザインにおいて、これほど鮮やかな色彩を前面に押し出した作品は珍しく、スティルの名を国際的に確立する契機となりました。
サトゥルヌスからグラッポニアへ——黄金期の代表作
1960年代に入ると、スティルの創作はさらに幅を広げていきます。
1960年に発表された「サトゥルヌス」(Saturnus)は、土星の環を思わせる水平のリングが花瓶の胴体を巡る、彫刻的なシリーズです。スティルの鋭いプロポーション感覚が際立つ作品で、コレクターの間では今なお高い人気を誇ります。
1964年から1966年にかけてデザインされた「フリンダリ」(Flindari)は、模様のついた金属型のなかで吹きガラスを成形する技法で生まれました。角張ったボトルの広い側面にテクスチャーが刻まれ、光を受けて独特の陰影を見せます。このシリーズのデカンタは、1965年にアメリカ室内装飾家協会(A.I.D.)の国際デザイン賞を受賞しました。
そして1968年の「グラッポニア」(Grapponia)。プレスガラスの技法を用いたこのシリーズは、有機的な形状と表面のテクスチャーが特徴で、テーブルウェアから装飾的なボトルまで多彩な展開を見せました。コレクターにとっての魅力は、豊富なカラーバリエーションにあります。グラッポニアは現在もヴィンテージ市場で人気が高く、スティルの代表作のひとつとして広く認知されています。
ガラスの天井を破った女性たち
リーヒマキ・ガラスの歴史において特筆すべきは、工場のデザインを牽引したのが主に女性デザイナーであったという事実です。
1949年にナニー・スティルとヘレナ・ティネルが入社し、1959年にはタマラ・アラディン(Tamara Aladin, 1932–2022)が加わりました。この3人の女性デザイナーが、約20年間にわたってリーヒマキのデザインの中核を担ったのです。ガラス製造という、伝統的に男性が圧倒的多数を占める分野において、これは世界的にも稀な事例でした。
ティネルは「アウリンコプッロ」(太陽のボトル)で知られるグラフィカルで彫刻的なデザインを追求し、アラディンは1960年代にカラフルで幻想的な花瓶シリーズで人気を博しました。スティルの大胆な色彩実験、ティネルのグラフィカルな造形、アラディンの幻想的な表現——三者三様の個性が、リーヒマキのガラスを北欧デザイン史上に位置づけることになります。
世界の舞台へ——ミラノ・トリエンナーレとプロ・フィンランディア勲章
1950年代から1960年代にかけて、フィンランドのデザインは国際的な舞台で高い評価を得ていました。その象徴がミラノ・トリエンナーレです。
スティルの作品は、1954年、1957年、1960年の3回にわたってミラノ・トリエンナーレに出展されました。1954年のトリエンナーレでは「ディプロム・ドヌール」(名誉賞状)を受賞しています。同じ会場でタピオ・ヴィルカラやティモ・サルパネヴァがグランプリを獲得していた時代——スティルもまた、フィンランドデザインの国際的評価を高めた功労者のひとりだったのです。
1972年、スティルはフィンランド獅子勲章プロ・フィンランディア章を受章しました。これは芸術分野における国家的な栄誉であり、ヴィルカラ(1968年受章)やサルパネヴァ(1968年受章)と同じ勲章です。リーヒマキのデザイナーとして、そして女性ガラスデザイナーとして、スティルの仕事がフィンランド国家から正式に認められた瞬間でした。
ブリュッセルへ——愛と新たな挑戦
1958年、スティルはアメリカ人技師ジョージ・クラジェット・マッキニー(George Clagett McKinney)と結婚しました。マッキニーはヴァージニア港湾局のヨーロッパ・中東地域ディレクターを務めており、翌1959年、夫妻はベルギーの首都ブリュッセルに居を構えます。以後、スティルは生涯をこの街で過ごすことになりました。
ブリュッセルへの転居後も、スティルはリーヒマキとの関係を維持し、1976年まで同社のためにデザインを続けました。しかし同時に、ヨーロッパ大陸の新たなメーカーとの仕事も始まります。
ラーク——銅とガラスの照明
1960年代初頭、スティルはオランダの照明メーカー、ラーク(Raak)社とのコラボレーションを開始しました。すでに国際的な名声を確立していたスティルにとって、照明デザインは新たな挑戦でした。
ラーク社のためにデザインしたペンダントランプは、技術的に独創的な製法で知られています。穿孔された銅のシェルを型として、その内側にガラスを吹き込むという手法で、銅とガラスが一体となった独特のテクスチャーを実現しました。ブルータリスト的な力強さと、ガラスの透明感が共存する照明器具は、リーヒマキでの作品と同様に、スティルの装飾的かつ個性的なデザイン哲学を体現していました。
ヴァル・サン・ランベールとローゼンタール
ベルギーでの生活は、ヨーロッパのガラス・陶磁器メーカーとの仕事を広げる機会となりました。
スティルはベルギーのヴァル・サン・ランベール(Val Saint-Lambert)やセラベル(Cérabel)、ドイツのハインリッヒ磁器(Heinrich Porzellan)のためにデザインを手がけました。1976年にリーヒマキが手吹きガラスの生産を終了した後、1977年からはドイツのローゼンタール・スタジオ・ライン(Rosenthal Studio-Linie)との本格的な協業が始まります。ガラスだけでなく、陶磁器、食器、カトラリー、さらには宝飾品まで——スティルのデザインの守備範囲は、キャリアを重ねるにつれて広がり続けました。
晩年の創造——パート・ド・ヴェールの世界
1990年代に入ると、スティルは新たな表現を求めてフランスでパート・ド・ヴェール(pâte de verre)の技法を学びました。パート・ド・ヴェールとは、ガラスの粉末を型に詰めて窯で焼成する古代メソポタミア起源の技法で、吹きガラスとはまったく異なるマットで深みのある質感を生み出します。
70歳を過ぎてもなお、スティルは展覧会にユニークなガラス彫刻を出品し続けました。1997年から1998年にかけて開催された「サナ=ソー=ワード」(Sana – Szó – Word)展は、フィンランド語とハンガリー語の共通の語源を探る言語学的テーマの展覧会で、スティルは「トゥリ・トゥーズ・ファイア」(Tuli Tűz Fire、「火」の意)と題した砂型鋳造のガラス彫刻を出品しました。ベルギー(1995年、2006年)、フィンランド(1996年、2001年)、ハンガリー(1998年)でも個展が開催されています。
2009年5月7日、ナニー・スティルはブリュッセルの自宅で82歳の生涯を閉じました。最後まで創作への情熱を失わなかったデザイナーでした。
フィンランドと日本——ガラスアートが結ぶ二つの美意識
スティルの作品は、日本でも高く評価されています。
2021年12月から2022年1月にかけて、東京・渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで「ザ・フィンランドデザイン展——自然が宿るライフスタイル」が開催されました。ヘルシンキ市立美術館(HAM)の監修のもと、50人以上のフィンランドのデザイナー・アーティストの作品約250点が展示されたこの大規模な展覧会には、スティルの「アイスバーグ(プリズム)」(1961年)と「メイポール」(1956年)も含まれていました。
フィンランドと日本のデザインに共通するのは、自然への敬意と素材の持つ力を活かす姿勢です。余分なものを削ぎ落とした簡素な美、用途と美しさの一致、自然の形態への深い観察——これらの共通点が、フィンランドのガラスデザインを日本の人々にとって親しみやすいものにしているのかもしれません。スティルが生涯を通じて追求した「色彩と形態の本質」は、日本の「用の美」の思想と深く響き合っています。
遺産——世界の美術館に生きるデザイン
ナニー・スティルの作品は、世界の主要な美術館に収蔵されています。ニューヨーク近代美術館(MoMA)、大英博物館、メトロポリタン美術館をはじめ、フィンランド・デザインミュージアム(ヘルシンキ)など、各国の美術館がスティルの作品をコレクションに加えています。
特に、リーヒマキ市にあるフィンランド・ガラスミュージアム(Suomen lasimuseo)は、1921年にリーヒマキ・ガラスが手吹きガラスの製造を始めた工場建物を利用して1980年に開館した施設で、スティルをはじめとするリーヒマキのデザイナーたちの作品を包括的に紹介しています。
2022年には、リーヒマキ市がナニー・スティルとヘレナ・ティネルの名を冠した通りの命名を決定しました。かつて彼女たちが毎日通った工場の近くの通りに、二人のデザイナーの名前が刻まれることになったのです。フィンランドのガラスデザインを世界に知らしめた女性たちへの、故郷からの敬意の表れでした。
ヘルシンキに生まれ、リーヒマキで創造し、ブリュッセルで晩年を過ごしたナニー・スティル。北欧のガラスデザインに「色彩の革命」をもたらした彼女の作品は、半世紀以上を経た今も、世界中のコレクターと美術館で大切に受け継がれています。
まとめ
- ナニー・スティル(1926–2009)はヘルシンキ生まれのフィンランドを代表するガラスデザイナー
- 中央工芸学校(現アールト大学)で金属工芸を学んだ後、リーヒマキ・ガラスに入社
- ハーレキーニ(1958年)、フリンダリ(1964年)、グラッポニア(1968年)など、大胆な色彩と革新的技法で数々の名作を生んだ
- ミラノ・トリエンナーレに3回出展、A.I.D.国際デザイン賞(1965年)、プロ・フィンランディア勲章(1972年)を受章
- ヘレナ・ティネル、タマラ・アラディンとともにリーヒマキの女性デザイナーとして「ガラスの天井」を破った先駆者
- 1959年にブリュッセルに移住後も、ラーク照明、ヴァル・サン・ランベール、ローゼンタールなどヨーロッパ各地のメーカーとの協業を続けた
- 作品はMoMA、大英博物館、メトロポリタン美術館に所蔵。リーヒマキ市には彼女の名を冠した通りがある