リーヒマキ・ガラス工房(Riihimäen Lasi)の歴史——フィンランド最大の窯と女性デザイナーたちが築いた80年
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この記事の要点
- リーヒマキ・ガラス工房(Riihimäen Lasi Oy)は1910年に創業し、1990年に閉鎖されたフィンランドの大手ガラスメーカー
- イッタラ、ヌータヤルヴィと並ぶフィンランド三大ガラス工房の一つ。1927年に競合のカウカラハティ・ガラス工房を買収し、フィンランド最大級のガラスメーカーへ成長した
- ヘレナ・テュネル、ナニー・スティル、タマラ・アラディンら戦後の女性デザイナーが黄金期を築いた
- 1980年に旧工場敷地に「フィンランド・ガラス博物館(Suomen Lasimuseo)」が移転。常設展示の設計はタピオ・ヴィルカラ
フィンランドのガラスと聞くと、多くの人はイッタラやヌータヤルヴィを思い浮かべます。しかし20世紀のフィンランドの家庭に、もっとも身近なガラスを大量に送り出していた町のひとつがリーヒマキ(Riihimäki)でした。鉄道の町として発展したこの場所には、1910年にリーヒマキ・ガラス工房(Riihimäen Lasi Oy)が生まれ、戦後にはヘレナ・テュネル、ナニー・スティル、タマラ・アラディンら女性デザイナーが鮮やかな色ガラスの黄金期を築きました。
イッタラはブランドとして現在も強い知名度があり、ヌータヤルヴィはフィンランド最古のガラス工房として知られています。これに対してリーヒマキは、20世紀の暮らしと量産ガラス、戦後モダンガラスを支えた大工房であり、現在は旧工場がフィンランド・ガラス博物館(Suomen Lasimuseo)として再生しています。フィンランドガラスを理解するには、イッタラとヌータヤルヴィだけでは足りません。リーヒマキを知ると、量産・女性デザイナー・戦後モダン・博物館化というもう一つの軸が見えてきます。
本記事では、町の成り立ちから工房80年の歩み、戦後の黄金期を支えた女性デザイナーたち、そして閉鎖後に旧工場で再生したフィンランド・ガラス博物館までを通して紹介します。
鉄道の町、リーヒマキ
ヘルシンキとタンペレを結ぶ十字路
リーヒマキはフィンランド南部、カンタ=ハメ県に属する人口およそ3万の町です。ヘルシンキの北約70kmに位置し、首都とタンペレ、そしてサンクトペテルブルク方面を結ぶ鉄道がこの町で交差します。フィンランド国内で2番目に古い鉄道分岐点として、19世紀後半から物流の要となってきました。
19世紀末からの近代化
1862年にヘルシンキ=ハメーンリンナ間の鉄道が開通し、リーヒマキ駅が設置されました。さらに1870年にはサンクトペテルブルク方面への支線が分岐し、町は急速に発展していきます。20世紀に入る頃には軍事兵舎、駅前公園(Rautatienpuisto)、商店街が整備され、近代都市の骨格が出来上がりました。
当時のリーヒマキは、燃料となる木材、原料の珪砂を運ぶ鉄道、そして製品を国内外へ送り出す物流網が揃っていました。ガラス工房を立ち上げる土地としては、これ以上ない条件が整っていたのです。
工房80年の歩み
1910年——コレフマイネンによる創業
リーヒマキ・ガラス工房は1910年、実業家ミッコ・アドルフ・コレフマイネン(Mikko Adolf Kolehmainen)によって設立されました。創業当初の生産品は家庭用ガラス器と容器ガラスで、工房は鉄道線の脇に建てられました。1919年からは板ガラスとボトル類の製造も始め、フィンランドで急速に進む建築需要に応えていきます。
1920〜30年代——フィンランド最大の工房へ
1927年、リーヒマキは競合のカウカラハティ・ガラス工房(Kaukalahti glassworks)を買収し、フィンランド最大級のガラスメーカーへと成長しました。この時期には食器類だけでなく、窓ガラスの大規模生産も開始しました。1937年に正式社名がRiihimäen Lasi Oy(リーヒマキのガラス株式会社)に変更されています。
1939年のヘルシンキ春の見本市にリーヒマキは大規模な展示ブースを構え、当時のフィンランドのガラス産業を牽引する存在として広く知られていました。
1940〜50年代——アートガラスへの転換
第二次世界大戦後、フィンランドのガラス産業は大きな転換期を迎えます。実用品中心だった工房がデザイン主導のアートガラスへと舵を切るなかで、リーヒマキは積極的にデザインコンペを開催しました。1946年には北欧デザインコンペを開催し、若手のヘレナ・テュネルらが頭角を現します。1949年にはナニー・スティルが社内コンペで認められ、専属デザイナーに迎えられました。
1970年代後半——機械化と閉鎖
1973年のオイルショック以降、ヨーロッパの装飾ガラス需要は急速に冷え込みました。リーヒマキは1976年に日用ガラスとアートガラスの製造を終了、翌1977年にカットグラスの生産も停止します。以降は機械成形のガラス容器とプラスチック包装に事業を絞り込みました。
1980年代にアールストロム(Ahlstrom)の傘下に入りますが、本格的な再生には至らず、1990年に工場は閉鎖。80年にわたるガラス生産の歴史に幕を下ろしました。
黄金期を築いたデザイナーたち——女性デザイナーが作った色彩の時代
リーヒマキの黄金期は、ヘレナ・テュネル、ナニー・スティル、タマラ・アラディンという3人の女性デザイナーの色彩感覚によって作られました。男性が支配的だった20世紀半ばの北欧ガラス産業のなかで、彼女たちはそれぞれ異なる方向から、色と光と形を組み合わせた作品を量産化していきました。リーヒマキの社風が、彼女たちのキャリアを支える環境を提供していたともいえます。
リーヒマキ・ガラスの全盛期は1950年代から1970年代前半。この時代を支えたのは、フィンランドのガラス史において先駆的な存在となった女性デザイナーたちでした。
ヘレナ・テュネル(Helena Tynell, 1918–2016)
ヘルシンキ生まれのヘレナ・テュネルは、ヘルシンキ中央芸術工芸学校(現アアルト大学)でセラミックを学んだのち、1940年代後半にリーヒマキの専属デザイナーに加わりました。装飾性と日用性を高い次元で両立させる作風で知られ、代表作にはモールド成形による厚手の花器、太陽を象った《アウリンコプッロ(Aurinkopullo)》シリーズ(1964–1974年)、そして床置きの《カーップケッロ(Grandfather clock)》などがあります。
ナニー・スティル(Nanny Still, 1926–2009)
ヘルシンキ中央芸術工芸学校でテュネルと机を並べて学んだナニー・スティルは、1949年に社内コンペで採用され、リーヒマキで30年近くデザインを手がけました。代表作の《ハルレキーニ(Harlekiini)》(1958年)、《フローラ(Flora)》、そして高さの異なる円柱を組み合わせた《グラッポニア(Grapponia)》シリーズなどが知られています。
ナニー・スティルはガラスだけでなく金属、磁器、プラスチックの分野でも仕事を残し、生涯を通じてヨーロッパの第一線で活躍しました。当店では別記事でナニー・スティルの完全ガイドをまとめています。
タマラ・アラディン(Tamara Aladin, 1932–2019)
ヴィープリ生まれのタマラ・アラディンは、ヘルシンキ芸術工芸学校で学んだのち、1959年にリーヒマキに入社、1976年まで在籍しました。鮮やかなアンバー、エメラルドグリーン、ブルーといった厚手の色ガラスに、円筒・円錐を組み合わせた幾何学的なフォルムが特徴です。
アラディンは、1960年代から70年代にかけてのリーヒマキの商業的成功を支えたデザイナーのひとりです。当時のカタログには彼女が手がけた花器が多数掲載され、量産しやすい幾何学フォルムでありながら、色ガラスの厚みが強い存在感を生み出しました。北欧ヴィンテージ市場では現在もアラディン作品をよく見かけますが、これは評価が低いからではなく、当時それだけ人気があり、家庭の窓辺や食卓で広く愛されたためです。「リーヒマキ入門」として最初に触れる作家として、いまも親しまれています。
ほかのデザイナー
リーヒマキには、ほかにも数多くの作家が出入りしました。第二次大戦前にはアールヌーヴォーを代表するアルットゥ・ブルメル(Arttu Brummer)、ガラス芸術の先駆者グンネル・ニーマン(Gunnel Nyman)、戦後はアイモ・オッコリン(Aimo Okkolin)、サカリ・ピュカラ(Sakari Pykälä, 1954–1955年在籍)、エルキタピオ・シーロイネン(Erkkitapio Siiroinen, 1968–1976年在籍)など、フィンランドガラス史を語るうえで重要な名前が並びます。一時期にはイッタラのティモ・サルパネヴァもデザインを提供していました。
代表作と作風
ドミナ(Domina)
《ドミナ》はリーヒマキを代表するプレスガラスのテーブルウェアシリーズでした。シンプルな鉢、グラス、サービングプレートが揃い、家庭の食卓で長く愛用されました。北欧のヴィンテージ市場では現在も流通量が多く、リーヒマキ入門の一作として広く知られています。
アウリンコプッロ(Aurinkopullo)
「太陽の瓶」を意味する《アウリンコプッロ》は、ヘレナ・テュネルが1964年から1974年にかけて手がけた花器シリーズです。中央に放射状の太陽のレリーフを配し、アンバー、ブルー、グリーンなど鮮やかな着色で展開されました。北欧の長い冬を明るく照らす祈りのような器として、多くのコレクターに愛され続けています。
ハルレキーニ(Harlekiini)
1958年にナニー・スティルが手がけたハルレキーニ(Harlekiini)は、リーヒマキの戦後アートガラスを代表する一作です。透明感のあるガラスに、ピエロ(道化)の名にふさわしい遊び心のある色のアクセントが入ります。ナニー・スティルらしい都会的でモダンな色感覚が、装飾とフォルムの境界をやわらかく結びつけました。
グラッポニア(Grapponia)
同じくナニー・スティル作のグラッポニア(Grapponia)は、ぶどうの粒のような小さな球体が連なるシリーズです。ボトルやデキャンタ、グラスといったテーブルウェアの形に展開され、棚に並べるだけで彫刻的な存在感を放ちます。
タマラ・アラディンの色ガラス花器
タマラ・アラディンの花器は、1960年代から70年代のリーヒマキを象徴するアイテムです。アンバー、グリーン、ブルーといった単色の厚手ガラスを、円筒・円錐・段差のあるシルエットで成形しています。多くは作品名ではなくフォルム番号で識別されており、ヴィンテージ市場でも番号と色の組み合わせで個体が特定されます。窓辺に置くと光を吸い込み、棚では小さな彫刻のように映る存在感が魅力です。
アイモ・オッコリン(Aimo Okkolin)のカットグラス
アートディレクターを務めたアイモ・オッコリン(Aimo Okkolin)は、リーヒマキのカット/クリスタル系アートガラスを多数手がけました。透明ガラスに精緻なカットを施した作品群は、量産品とは別の系譜として、リーヒマキの技術力の高さを伝えています。
フォルム番号・底面サイン・ラベルで見るリーヒマキ
リーヒマキの作品の多くにはフォルム番号(Fason)が割り振られていました。作品名が分からなくても、この番号でデザイナーや製造期間を追跡できる場合があります。コレクター資料やカタログ照合では、番号が重要な手がかりとなります。
個体を見るときに参照できる手がかりは、主に4つです。
- 底面サイン/エッチング刻印:「Riihimäen Lasi Oy」とエッチングまたは刻印されたサイン。1970年代の作品によく見られます。
- モールド成形時の刻印:底面に成形時の番号やマークが残されることがあります。
- 紙ラベル:オリジナルの紙ラベルが残っている個体は、デザイナー名や年代の特定に役立ちます。経年で剥がれてしまっていることが多いため、残存個体は希少です。
- カタログ・コレクター資料との照合:フォルム番号と形状・色・サイズを組み合わせて、当時のカタログから推定します。
デザイナー名が明記されていない作品でも、フォルム番号やカタログ照合によって作家が推定される場合があります。ただし、番号だけで断定できない例もあるため、形状、サイズ、色、底面サイン、ラベル、カタログ資料を総合して見るのが基本です。
フィンランド・ガラス博物館(Suomen Lasimuseo)
産業としてのリーヒマキ・ガラスは1990年に終わりました。しかし旧工場は壊されず、フィンランド・ガラス博物館として記憶を残す場所へと姿を変えました。リーヒマキは「消えた工房」ではなく、「博物館としてフィンランドガラス史を伝える町」として、現在もその役割を続けています。
設立とリーヒマキ移転
フィンランド・ガラス博物館(Suomen Lasimuseo)は、フィンランドのガラス産業とデザインを総合的に紹介する博物館です。1961年に設立され、1965年から市内の邸宅「アッリーンナ(Allinna)」で公開されてきましたが、1980年に旧リーヒマキ・ガラス工場の敷地内へ移転。建物自体はもともと1914年にパロヘイモ社が泥炭工場として建設したもので、1921年からリーヒマキ・ガラスが製造拠点として使っていた歴史的な建屋でした。一般公開と常設展示の開幕は1981年、フィンランドのガラス産業300周年に合わせて行われました。
タピオ・ヴィルカラが手がけた展示空間
建物の改修と常設展示の設計を担当したのは、当代を代表するデザイナータピオ・ヴィルカラでした。工場の建築を残しつつ、ガラスを彫刻のように見せる展示空間に変える——古い柱や天井の意匠を活かしながら、照明計画でガラス作品の輪郭を立ち上げる構成は、欧州博物館界でも高く評価されています。館内には4000年に及ぶガラスの歴史と、フィンランド約300年のガラス産業史が並びます。当店ではタピオ・ヴィルカラの記事でも彼の代表的な仕事を紹介しています。
日本との関わり
1960年代後半以降、日本でもフィンランド工芸や北欧デザインへの関心が高まり、リーヒマキの作家たちの作品も展覧会やヴィンテージ市場を通じて知られるようになりました。テュネル、ナニー・スティル、アラディンの色ガラスは、近年の北欧ヴィンテージブームの中で、国内の愛好家のあいだで再評価されています。
リーヒマキのガラスが日本の感性と響き合うのは、色ガラスの透明感、北欧の自然を思わせる色彩、光を通して飾る楽しさといった要素が、四季の色彩を大切にする日本の暮らしと共鳴するためです。日本の住空間でも、窓辺や棚で小さな彫刻のように楽しむことができます。
また、フィンランド・ガラス博物館の常設展示を設計したタピオ・ヴィルカラは、日本の工芸への深い関心を持っていたデザイナーとして知られていました。リーヒマキの旧工場が「ガラスを彫刻として見せる」博物館として再生した背景には、北欧と日本に共通する素材へのまなざし——余計な装飾を削ぎ落とし、素材そのものに語らせる態度——があったといえます。
まとめ
この記事のまとめ
- リーヒマキ・ガラス工房は1910年創業、1990年閉鎖。フィンランドのガラス産業を80年支えた
- 1927年にカウカラハティ買収で国内最大規模に。1937年にRiihimäen Lasi Oyへ改称
- 戦後の黄金期はテュネル、ナニー・スティル、タマラ・アラディンら女性デザイナーが牽引
- 1976年に日用ガラス・アートガラスの製造終了、1990年に工場閉鎖
- 旧工場敷地は1980年からフィンランド・ガラス博物館として再生し、タピオ・ヴィルカラが展示空間を設計
北欧ヴィンテージ食器を学んでいくうえで、イッタラ村、ヌータヤルヴィに続く第三の拠点がリーヒマキです。フィンランドの戦後デザインがどのように生まれ、どこで途絶え、どこで記憶として残されたか——一つの工房と一つの町の物語をたどることで、その全体像が立体的に見えてきます。
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リーヒマキのガラスは、食器としてだけでなく、光を受けて色を変える小さなオブジェとしても魅力があります。テュネルの太陽のような花器、ナニー・スティルの都会的な色彩、タマラ・アラディンの厚みある色ガラスは、棚や窓辺に置くだけで空間の印象を変えてくれます。当店では、フィンランドのヴィンテージガラスや北欧のインテリアオブジェを随時取り扱っています。