グスタフスベリ ヴェクショーの花鳥文プレート|東洋趣味を取り入れた1900年前後の北欧アンティーク食器

北欧デザインの食器はいつ生まれた?|中国磁器を写していた時代と、自国の様式が立ち上がるまで

北欧食器タックショミュッケ編集部
グスタフスベリ ヴェクショーのスクエアプレート|花鳥文が全面に広がる北欧アンティーク食器
グスタフスベリのヴェクショー(Wexiö)。花鳥文を転写で表した、1900年前後のスウェーデンの器。

冒頭の器は、グスタフスベリのヴェクショー(Wexiö)です。花鳥文を全面に配したこの器のように、1900年前後のスウェーデンでは東洋を思わせる意匠が数多く作られていました。もうひとつ、その時代を象徴する例がロールストランドの「ホアンホー(Hoangho)」です。白地に藍、八角に近い輪郭、唐草と花鳥、細かな幾何学の地文をもつシリーズで、収集家資料では1892年から1926年まで作られたとされています。中国の器にしか見えないのに、生まれたのは北欧の窯でした。

私たちがふだん「北欧デザイン」と呼んで愛しているのは、余白を生かした簡素なかたちや、澄んだ色、暮らしの道具としての明るさです。ところが1900年前後の北欧の食器は、その簡素さとはずいぶん遠いところにいました。むしろ東洋の意匠を写すことに熱心だったのです。

では、あの簡素さはいつ、どこで生まれたのでしょうか。この記事では、ロールストランドやグスタフスベリが中国の器を写していた時代から、自国の様式が立ち上がるまでの道のりを、当店が扱う当時の器も交えながらたどっていきます。

この記事でわかること

  • スウェーデン初期の食器産業は、中国磁器やマイセンのような白い磁器への憧れと、輸入品を国内生産に置き換えようとする動きのなかで発展しました
  • 19世紀に入ると、写す相手が中国から英国へと入れ替わっていきました
  • 柄の名前——ジャパン、キネス、フォルモサ、そしてホアンホー——が、その東洋趣味を語っています
  • 1910年代の展覧会と一冊の本をきっかけに、自国の様式が立ち上がっていきました

目次

  1. 北欧デザインの食器はいつ生まれたのか——1900年前後のロールストランドは「中国風」だった
  2. 中国磁器への応答として始まった——スウェーデン東インド会社とロールストランド1726年
  3. 写す相手が変わった——1826年、英国式への再編
  4. 柄の名前が語ること——ジャパン、キネス、フォルモサ、そしてホアンホー
  5. 自分の言葉を探しはじめる——1914年から1919年へ
  6. 理念は空振りした——「労働者食器」を買ったのは誰か
  7. 模倣から引用へ——1932年のオスチンディア
  8. まとめ

北欧デザインの食器はいつ生まれたのか——1900年前後のロールストランドは「中国風」だった

もういちど、ホアンホーを見てみます。白い素地に藍一色で描かれているのは、うねる唐草と花、そして鳥です。皿の縁は八角に近い輪郭で区切られ、地の部分には細かな幾何学の文様が敷きつめられています。見た目は、中国の染付そのものです。染付とは、白い素地にコバルトの顔料で文様を描き、その上から透明な釉薬をかけて焼き上げたものを指します。藍と白のくっきりした対比を身上とする技法で、ホアンホーの藍も、まさにこの系譜につらなって見えます。

ホアンホーはロールストランドの柄のひとつで、収集家資料では1892年から1926年まで作られたとされています。深皿の裏には「Iron Stone China Rörstrand」という型押しがあります。アイアンストーン・チャイナは、ロールストランドが1859年に導入した改良版の硬質陶器(フリントゴッズ)で、磁器ではありません。名前に「チャイナ」とありますが、素地は磁器ではなく丈夫な陶器です。

この器について、当店が確かなこととして書けるのはここまでです。誰がデザインしたのか、どんな技法で絵付けされたのか、なぜ「ホアンホー」と名づけられたのかは、いずれも一次資料が見つかっていません。ホアン・ホーが黄河の当時の西欧表記と同じ綴りであることは確かですが、命名の意図までは分かっていません。断定できないことは、ここでは書かないでおきます。

それでも、ひとつの事実は動きません。1900年前後のロールストランドは、中国の器を写した食器を、堂々と主力の柄として売っていました。ここから問いが立ち上がります。私たちが北欧デザインと呼ぶあの簡素な食器は、いったいいつ生まれたのでしょうか。その答えを探すために、まずは200年ほど時代をさかのぼります。

中国磁器への応答として始まった——スウェーデン東インド会社とロールストランド1726年

明代万暦年間の染付の碗|白地に藍で描かれた中国磁器
明代・万暦年間(1600年ごろ)の染付の碗。ヨーロッパが憧れた「青と白」の原点。ベルリン民族学博物館蔵。パブリックドメイン(CC0)/撮影 Daderot。

18世紀のヨーロッパにとって、中国の磁器はあこがれの品でした。白くて硬く、透けるほど薄く、藍の絵付けが澄んでいる——18世紀初頭にはドイツのマイセンで硬質磁器の製造が始まっていましたが、当時のスウェーデンの窯には、まだ中国磁器のような白く硬い磁器を作る技術がありませんでした。だからこそ、はるばる海を越えて運ばれてきたのです。

康熙年間の欧州向け輸出青花磁器|白地に藍で欧州の情景を描いた蓋物と受皿
康熙年間(1690〜1700年ごろ)の輸出磁器の蓋物と受皿。ヨーロッパの注文に合わせ、西洋の情景と仏語の銘が藍で描かれている。ギメ東洋美術館蔵。撮影 World Imaging/Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)。

スウェーデンでその輸入を担ったのが、1731年に設立され1813年まで続いたスウェーデン東インド会社です。拠点はヨーテボリに置かれました。同社が中国から運んだ磁器は推定で3,000万点から5,000万点にのぼり、その多くはさらに他のヨーロッパ諸国へと再輸出されました。磁器の輸入量では、ヨーロッパで最大だったと言われています。

茶や絹とともに船倉に積まれた磁器は、ヨーテボリの港をいちど経由してから、ヨーロッパ各地の食卓へと散っていきました。みずからは白い磁器をまだ焼けないうちに、スウェーデンは磁器を売買する側の大国になっていたのです。国内で消費された分も膨大でしたが、それでも需要をすべて満たすには足りませんでした。

広州十三行の図(1748-49)|スウェーデン人の航海日誌に描かれた交易地
広州の十三行を描いた図(1748〜49年)。ヨーロッパ各国の商館が水辺に並ぶ交易の窓口。スウェーデン人の航海日誌より。ヨーテボリ大学図書館蔵。パブリックドメイン。

交易は華やかであると同時に、危うさもはらんでいました。1745年に帰港しようとした同名の船ヨーテボリ号は、港の目前で座礁して沈みます。積荷の茶や磁器は海に沈み、その一部はのちに引き揚げられました。割れた磁器の破片は、遠い航海の記憶をいまに伝えています。

沈没船ヨーテボリ号の積荷の磁器片|青と白の破片
座礁したヨーテボリ号から引き揚げられた磁器の破片。青と白の文様がわずかに残る。ヨーテボリ市立博物館蔵。撮影 W.carter/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)。

これほど大量の磁器が入ってきても、手にできたのは限られた人々でした。そこで生まれたのが、身近な材料で東洋の器の雰囲気を再現しようとする試みです。スウェーデンでは、白い錫釉をかけた陶器、ファイアンスがその役割を担いました。ロールストランドは1726年に、ストックホルムの一角で操業を始めます。これはスウェーデンで最も古い窯であり、北欧全体で見ても2番目に古い窯にあたります(最初は1722年、コペンハーゲンのストーレ・コンゲンスゲードの窯でした)。

創業当初のロールストランドは、磁器を焼く窯ではありませんでした。作っていたのはファイアンス、つまり錫釉をかけた陶器です。硬く白い磁器はまだ作れず、白い釉薬で磁器に似せていたのです。素地の違いについては、こちらの記事でくわしく整理しています。北欧食器の素材ガイドもあわせてご覧ください。

ロールストランドのファイアンス製パンチボウル(1765年頃)|北方民族博物館蔵
ロールストランドのファイアンス製の蓋付きパンチボウル(1765年ごろ)。錫釉の白い地に、果実や花をかたどった彩色の装飾。ストックホルム・北方民族博物館蔵。パブリックドメイン(CC0)/撮影 Daderot。

1758年には、ストックホルムのマリエベリにも窯が生まれ、ロールストランドと競い合いました。この時代のスウェーデンのファイアンス生産には、重商主義のもとで高価な輸入品への依存を減らすという目的がありました。ロールストランドが目指したもののひとつが、中国やマイセンで作られていたような白い磁器です。ただし実際のファイアンスでは、オランダ、ドイツ、フランスなどヨーロッパ各地の様式も広く参照されています。自分の様式を打ち出すというより、あこがれの器に少しでも近づくことが、この時代の窯を動かしていました。

ロールストランドのファイアンス皿(1772年)|マンガン彩
ロールストランドのファイアンス皿(1772年)。マンガンによる紫褐色の絵付けが施されている。ストックホルム・北方民族博物館蔵。パブリックドメイン(CC0)/撮影 Daderot。

二つの窯が競い合った数十年のあいだに、スウェーデンのファイアンスは少しずつ技術を上げ、白い器を食卓に根づかせていきました。やがて競争にも決着がつきます。ロールストランドは1782年にマリエベリを買収し、1788年にはその生産を終わらせました。こうしてスウェーデンの食器づくりは、中国という遠い手本を見上げながら歩み出しました。窯の由来や歩みについては、ロールストランドはなぜ高いでもふれています。

写す相手が変わった——1826年、英国式への再編

18世紀のスウェーデンが写していたのは、たしかに中国でした。ところが19世紀に入ると、手本がすり替わっていきます。写す相手が、中国から英国へと移っていくのです。

1860年代初頭のロールストランド工場
1860年代初頭のロールストランド工場。産業として量産へ舵を切っていく時代の姿。撮影 Mattias Henrikson(原画は作者不詳)/Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)。

ロールストランドは1826年、フリントゴッズ(硬質陶器)の生産を英国のモデルに倣って作り直します。このとき、原料までも英国から輸入するようになりました。印刷による絵付けは、すでに1760年代から行われていました。さらに1859年には、カオリンを増やしコーンウォールストーンを加えた改良版の硬質陶器、アイアンストーン・チャイナを導入します。これこそ、冒頭で触れたホアンホーの裏に押されていた「アイアンストーン・チャイナ」の型押しにつながっていきます。じつは、このアイアンストーン・チャイナという名前そのものが、19世紀初めの英国でメイソンらが広めた呼び名でした。素地の作り方も、それを指す名前も、手本は海の向こうの英国にあったのです。絵付けの技術がどう変わっていったかは、北欧食器の装飾技法ガイドにゆずります。同記事は、1807年に導入された蒸気機関と銅版転写のことを扱っています。

ウィロー・パターンの皿|スウェーデン国立美術館蔵
ウィロー・パターン(柳文様)の皿。橋、柳、あずまや、二羽の鳥という物語仕立ての意匠。スウェーデン国立美術館蔵。撮影 Bertil Wreting/Nationalmuseum(CC BY 3.0)。

ここで一枚の皿を見ておきます。柳の木、反り橋、あずまや、飛ぶ二羽の鳥——「ウィロー・パターン」と呼ばれる、青と白の物語仕立ての意匠です。いかにも中国の風景に見えます。ところが、この柄には中国の原型がありません。1790年ごろに英国のスポードが作り出した、英国製の中国趣味なのです。中国を描いたのではなく、英国が想像した中国が描かれていました。

ミントン製ブルー・ウィローの皿(19世紀)
英国ミントンによるブルー・ウィローの皿(19世紀)。英国で量産され、ヨーロッパ中に広まった。クーパー・ヒューイット博物館蔵。パブリックドメイン。

ロールストランドの柄の目録にも、このウィローが1826年から並んでいます。さらに1852年からは「フリュタンデ・ブロー・パゴード(流れる青のパゴダ)」という柄が加わります。フリュタンデ・ブローとは、英語でいうフロウブルー、つまり藍がにじんで柔らかく広がる転写の技法です。これは19世紀前半の英国で生まれた技法でした。

フロウブルーの皿|19世紀前半の英国スタッフォードシャー
フロウブルーの皿。藍がにじんで輪郭がやわらかく溶ける、英国スタッフォードシャーで生まれた転写技法。サミュエル・オールコック製。パブリックドメイン。

つまり、19世紀の北欧が写していたのは、もはや中国そのものではありませんでした。英国がいちど咀嚼して作り替えた、英国流の中国だったのです。18世紀に中国をじかに手本としていた北欧は、19世紀には英国という仲介者を通して、いわば又聞きの中国を写すようになっていました。手本が二重写しになっていた——これが、この時代を読み解く鍵になります。ただし、ホアンホーがどれか特定の英国の柄を写したものだ、と言い切れる資料はありません。ここでもまた、断定は控えておきます。

柄の名前が語ること——ジャパン、キネス、フォルモサ、そしてホアンホー

ロールストランドが19世紀後半から20世紀初頭にかけて手がけた東洋趣味の柄を並べてみると、ホアンホーが決して単発の思いつきではなかったことが見えてきます。収集家資料にもとづいて、代表的な柄とその製造年を並べてみます。

柄名 製造年
ウィロー(Willow) 1826〜1830年代、1869〜1929年
フリュタンデ・ブロー・パゴード(Flytande Blått Pagod) 1852〜1926年
ジャパン(Japan) 1866〜1925/26年
キネス(Kines) 1877〜1907年
フォルモサ(Formosa) 1886〜1918年
シンガポール(Singapore) 1887〜1919年
ペルシア(Persia) 1888〜1907年
ツヴィーベル(Zwiebel) 1888〜1907年
デリー(Delhi) 1892〜1907年
シンフォ(SingFo) 1892〜1907年
ホアンホー(Hoangho) 1892〜1926年
コリア(Korea) 1902〜1910年
ルークメンストレット(Lökmönstret) 1911〜1916年

この一覧から、いくつかのことが読み取れます。まず、東洋趣味は一度きりの流行ではなく、半世紀以上にわたって続いた一群だったということです。ホアンホーは、その大きな流れのなかの一員でした。

次に、名前の並びに注目してみます。中国、日本、台湾(フォルモサ)、シンガポール、ペルシア、インド(デリー)、朝鮮——地理も文化もばらばらの地名が、区別されることなく横並びになっています。これは、ヨーロッパから見た「東洋」というひとつの気分が、そのまま柄の名前になっていたことを物語ります。厳密な地理ではなく、遠い異国のイメージがまとめて商品になっていたのです。

もうひとつ、製造年に目を向けると、多くの柄が1907年前後と1926年前後で終わっています。1926年は、ロールストランドのストックホルム工場が閉鎖・取り壊しになり、生産がヨーテボリへ移された年にあたります。1907年に何が起きたのかは資料が見つからないため、ここでは年代の事実だけを記しておきます。

あらためて年代を見渡すと、ウィローが加わった1826年から、多くの柄が姿を消す1926年まで、ちょうど一世紀にわたって、ロールストランドは東洋を思わせる意匠を売りつづけていたことになります。この百年の後半には独自のデザイン言語を探す動きも始まりましたが、東洋趣味のシリーズも並行して作られ続けていました。北欧の食器は、長いあいだ自分の言葉よりも、遠い異国の言葉で語ることの多い時代を過ごしていたのです。

当店が扱う「写していた時代」の器

当店が扱う北欧ヴィンテージ食器の多くは、1950年代から70年代にかけての製品です。けれども、この「写していた時代」の器も、当店は実際に扱っています。グスタフスベリのヴェクショー(Wexiö)がそれで、1887年から1939年まで作られました。花鳥文を銅版転写で写し、縁には金彩をめぐらせています。当店の商品タグにも「銅版転写」と明記されているため、この器については技法をはっきりと書くことができます(ホアンホーは技法が分かっていないので、同じようには扱いません)。裏印の「Gustafsberg OPAK」は、1890年から1910年ごろを示しています。

グスタフスベリ ヴェクショー 16cmミニプレート|銅版転写の文様が入った19世紀アンティーク
グスタフスベリのヴェクショー、16cmのミニプレート。裏印 Gustafsberg OPAK は1890〜1910年を示す。

銅版転写による均一な線描と、縁を巡る金彩が見てとれます。フリント陶器らしい細かな貫入も見られます。中国の意匠を英国由来の技術で写した、まさにこの時代を体現する一枚です。詳しくはグスタフスベリ ヴェクショー完全ガイドで解説しています。

グスタフスベリ ヴェクショー 深皿 スープ皿|花鳥文の北欧アンティーク食器
グスタフスベリのヴェクショーの深皿。転写による花鳥文が全面を覆う。

ご紹介したヴェクショーは、ヴェクショー スクエアプレート 大サイズヴェクショー 16cmミニプレートヴェクショー 深皿 スープ皿としてお求めいただけます。ほかの器はグスタフスベリのコレクションからご覧ください。

自分の言葉を探しはじめる——1914年から1919年へ

1917年住宅展、アスプルンドによる住宅用台所案
1917年の住宅展(Hemutställningen)で示された、アスプルンド設計の住宅用台所案。小さな住まいのための実物展示。パブリックドメイン。

写す相手が中国から英国へと移っても、それはまだ「誰かの意匠を写す」ことに変わりはありませんでした。転機は1910年代に訪れます。

1914年、スウェーデン工芸協会は仲介事務所(Förmedlingsbyrån)を設立しました。芸術家と産業を引き合わせる、いわば職業紹介所のような実務の装置です。作り手と工場が直接手を組む道が、ここで開かれました。

1917年住宅展の実行委員会
1917年住宅展の実行委員会の面々。委員にはグレゴール・パウルソンやエルサ・グルベリが名を連ねた。パブリックドメイン。

1917年には、ストックホルムのリリエヴァルクスで住宅展が開かれます。小さな住宅向けに23の住戸が実物大で展示され、委員にはグレゴール・パウルソンやエルサ・グルベリが加わりました。会場にはアスプルンドの台所、マルムステンの松材の家具、そしてコーゲの食器が並びました。予想では8,000人ほどとされた来場者は、実際にはおよそ40,000人にのぼりました。

そして1919年、パウルソンが『より美しい日用品(Vackrare vardagsvara)』を工芸協会から刊行します。芸術家が工場と直接組み、良質な日用品をすべての人へ届けよう——ドイツ工作連盟の影響を受けたこの理念が、のちの北欧デザインの土台になっていきました。ここから先の思想史、つまり1925年のパリ万博での国際的な評価、1930年のストックホルム博、1931年の宣言『acceptera』へと続く流れは、カール・ラーションと北欧食器でくわしくたどっています。コーゲその人の歩みはヴィルヘルム・コーゲとグスタフスベリにゆずります。

理念は空振りした——「労働者食器」を買ったのは誰か

ヴィルヘルム・コーゲ「Liljeblå」1917年|コーヒーポット・皿・薬味入れ
ヴィルヘルム・コーゲの「Liljeblå(リリエブロー)」1917年。白い陶器にコバルトブルーの百合。労働者食器(Arbetarservis)の装飾のひとつ。撮影 Holger Ellgaard/Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)。

1917年の住宅展に合わせて、コーゲはグスタフスベリで一組の食器を作りました。労働者食器(Arbetarservis)と呼ばれるもので、素地はフリントゴッズ、装飾のひとつには会場のリリエヴァルクスにちなむ「リリエブロー(Liljeblå)」の名がつけられました。安くて美しい日用品を、労働者の暮らしに届ける——それがこの器に込められた理念でした。

ところが、思いどおりにはいきませんでした。想定していた労働者の層は、この食器を買わなかったのです。実際に手を伸ばしたのは、美しいかたちに関心をもつ中流層でした。数年のうちに売上は落ち、1936年には生産が終わります。補充用の販売は1939年まで続きました。つまり、この食器が世に出ていたのは、およそ二十年あまりのことでした。住宅展そのものを流行らせたのも、上流と中流の人々でした。なぜ想定した層が買わなかったのか、その理由ははっきりとは分かっていません。

これを失敗として切り捨てるのは、少し惜しい気がします。理念と市場のあいだにずれがあった、というだけのことだからです。そして、器そのものは市場から消えても、残ったものがありました。「日用品を美しくする」という考え方そのものです。この考え方が、その後の北欧デザインを長く支えていくことになります。

模倣から引用へ——1932年のオスチンディア

ロールストランド「Ostindia」|東インド会社にちなむ青と白の古典柄(現行品)
ロールストランドの「Ostindia(オスチンディア)」。青と白の東洋趣味を古典柄として選び直した意匠。写真は現行品で、1932年当時のものではない。撮影 Gotogo/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)。

1932年、ロールストランドは「オスチンディア(Ostindia=東インド)」という柄を発表します。名前のとおり、東インド会社が運んだ東洋の器を思わせる、青と白の意匠です。けれども、これは19世紀から20世紀初頭の東洋趣味の柄とは世代が違います。

19世紀まで、東洋の意匠を模倣・翻案した食器は盛んに作られていました。一方、1932年のオスチンディアは、すでに独自のデザイン文化を築きつつあったスウェーデンが、中国磁器の意匠をあらためて選び取り、新しい食器として構成したものでした。写すことが前提だった時代から、何を写すかを自分で選べる時代へ——ここには、はっきりとした距離があります。

同じころ、ルイーズ・アーデルボリがロールストランドのために「スウェディッシュ・グレース」あるいは「ナショナルセルヴィス(国民の食器)」と呼ばれる意匠を手がけました。1930年に登場したこの器は、スウェーデンの麦の穂を白磁のレリーフにした、東洋を経由しない意匠です。ここで手本に選ばれたのは、遠い異国の風景ではなく、自分たちの土地に実る麦の穂でした。なお、"Swedish Grace" という言葉がいつ生まれたかについては、1925年のパリ万博での評とする説と、1930年に英国の批評家が名づけたとする説があり、ここでは年を断定しません。詳しくはルイーズ・アーデルボリ完全ガイドをご覧ください。

ひとつは東洋を引用した古典柄、もうひとつは麦の穂という自国の意匠です。この二つが同じ工場から同じ時期に生まれたことが、転換の完了を静かに示しています。オスチンディアという柄の歩みは北欧食器完全ガイドでもふれています。

250年後に、自国の意匠で節目を祝う

ロールストランド シルビア 24cmディナープレート|青い花文の北欧ヴィンテージ食器
ロールストランドのシルビア(Sylvia)、24cmのディナープレート。1976年、創業250周年を記念して作られた。

中国磁器やマイセンへの憧れのなかで1726年に始まった窯は、250年後にどんな器で節目を祝ったのでしょうか。当店が扱うロールストランドのシルビア(Sylvia)は、1976年、創業250周年を記念して作られました。青い花文を配したこの一枚は、東洋を写した時代を通り抜け、自国の意匠で歴史の節目を刻んだ器です。シルビア 24cmディナープレートとしてお求めいただけます。ほかのロールストランドはロールストランドのコレクションからどうぞ。

まとめ

要点の整理

  • スウェーデンの近代的な食器産業は、中国磁器やマイセンへの憧れと、輸入陶磁器への依存を減らして国内生産を育てようとする動きのなかから始まりました。ロールストランド(1726年)もマリエベリ(1758年)も、その流れのなかにありました
  • 19世紀に入ると、写す相手が中国から英国へと入れ替わりました。ウィロー・パターンには中国の原型がなく、北欧が写していたのは英国が想像した中国でした
  • ジャパン、キネス、フォルモサ、ホアンホーといった柄の名前は、ヨーロッパから見た「東洋」というひとつの気分を映していました
  • 1914年の仲介事務所、1917年の住宅展、1919年の『より美しい日用品』を経て、自国の様式が立ち上がっていきました
  • コーゲの労働者食器は想定した層に届かず生産を終えましたが、「日用品を美しくする」という考え方だけは残りました

1932年のオスチンディアは、東洋趣味を古典柄として選び直した器でした。写すことが前提だった時代の東洋趣味と、自分で選び取った東洋趣味は、見た目こそ似ていても、生まれた場所がまるで違います。

北欧デザインの萌芽は、東洋を写すのをやめた一瞬にあったのではありません。何を手本にするかを、自分たちの意思で選べるようになった——その変化のなかに芽生えていきました。青と白の器を前にすると、遠い中国への憧れと、それをくぐり抜けて立ち上がった北欧の意思が、同じ一枚のなかに折り重なって見えてきます。

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