スウェーデンの国民的画家カール・ラーション——『わたしの家』から北欧ヴィンテージ食器へつながる美の系譜【番外編】
北欧食器タックショミュッケ編集部スウェーデン・フィンランドから北欧ヴィンテージ食器を直接買い付け、1,000点以上を検品してきた当店が、一次情報と実物の観察にもとづいて執筆・編集しています。
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北欧ヴィンテージ食器の歴史をさかのぼっていくと、必ずどこかで一人の画家の名前に行き当たります。カール・ラーション(Carl Larsson、1853-1919)。スウェーデンの国民的画家と呼ばれ、自宅での家族の暮らしを描いた水彩画集『わたしの家(Ett hem)』(1899年)で知られる人物です。

ラーションは食器の作り手ではありません。19世紀のスウェーデンに生き、家庭のなにげない情景を描き続けた画家です。それでも、グスタフスベリやロールストランドが20世紀半ばに生み出した「日常のための美しい器」という思想の源流をたどると、スンドボーンの小さな赤い家と、そこで描かれた水彩画に行き着きます。今回は番外編として、この画家の19世紀と、北欧ヴィンテージ食器へつながる美の系譜を、美術館や学術資料で裏づけられる範囲で丁寧にたどります。
なお、当店で多く取り扱う陶芸家リサ・ラーソン(Lisa Larson、1931-2024)とは、姓が同じだけで血縁も直接の関係もない別人です。リサ・ラーソンについてはリサ・ラーソン完全ガイドをご覧ください。
この記事でわかること
- カール・ラーションがフランスで水彩様式を確立し、国民的画家になるまでの歩み
- 水彩画集『わたしの家』とスンドボーンの家が、スウェーデンの住まいの理想像になった経緯
- ラーションの明晰な線描がジャポニスム(浮世絵)に学んだものであり、ミッドセンチュリーの器へ日本美術の系譜がつながっていること
- エレン・ケイ『万人のための美』からグスタフスベリの食器デザインへつながる思想の系譜
目次
カール・ラーションとその時代
カール・ラーションは1853年、ストックホルムの旧市街ガムラ・スタンに生まれました。家庭は貧しく、少年時代は決して恵まれたものではありませんでしたが、絵の才能を見出され、王立美術アカデミーで学びます。挿絵や風刺画の仕事で生計を立てたのち、多くの北欧の画家たちと同じように、当時の美術の中心地であったフランスへ渡りました。

転機は1882年に訪れます。パリ郊外の村グレー=シュル=ロワン(Grez-sur-Loing)には北欧の画家たちが集まる芸術家村があり、ラーションはここで屋外の光の中で描く外光派の手法に出会いました。それまでの油彩を離れて水彩に移り、明るい光と親密な情景を描く独自の様式をこの村で確立していきます。1883年にはパリ・サロンで三等メダルを受賞し、画家としての評価を決定づけました。ストックホルム国立美術館やフランス政府が作品を購入したのもこの時期です。
ここで面白いのは、ラーションの立ち位置です。彼が絵の修業をしていた当時のパリは、まさに印象派の全盛期でした。しかし彼が選んだのは、輪郭を光の中に溶かしていく印象派の手法ではなく、細い線で細部まで描き起こし、遠近と構図を緻密に組み立てる、水彩による写実でした。部屋の板張りの目地から窓辺の鉢植えの葉の一枚まで、明晰な輪郭線で作り込まれた画面。時代の主流のただなかで学びながら、主流とは別の道を選んだこと——そしてこの「線の明晰さ」という資質が、のちに浮世絵との出会いによっていっそう研ぎ澄まされていくことになります。

ここで一つ、順序を正確にしておく必要があります。ラーションとフランス絵画の関係は、「ラーションがフランスに影響を与えた」のではなく、「フランスの外光表現がラーションの様式を育てた」という向きでした。グレー=シュル=ロワンで培った透明な水彩の光が、のちにスウェーデンの家庭を描く彼の代名詞になっていきます。
グレーの芸術家村でラーションは、同じくスウェーデンから絵を学びに来ていた画家カーリン・ベリオー(Karin Bergöö)と出会い、1883年に結婚しました。この出会いが、のちに北欧デザイン史を動かす共同作業の始まりになります。
『わたしの家』とスンドボーンの家
1888年、カーリンの父親から、ダーラナ地方スンドボーン村の小さな家「リッラ・ヒュットネース(Lilla Hyttnäs)」が夫妻に贈られました。ダーラナはダーラヘスト(木彫りの馬)に代表されるスウェーデン民俗文化の中心地で、その風土についてはダーラヘスト完全ガイドでも詳しく紹介しています。夫妻はこの家を、増築と手作りの装飾を重ねながら、家族のための「作品」へと少しずつ変えていきました。

暗い壁紙と重い家具が主流だった19世紀末のヨーロッパの室内にあって、ラーション家の住まいは異質でした。白や明るい色に塗られた家具、光を通す窓辺、手織りのテキスタイル、そして子どもたちが暮らしの中心にいる間取り。カールはこの家と家族の日常を水彩で描き続け、1897年のストックホルム博覧会で連作を発表します。連作は大きな反響を呼び、1899年にボニエール社から画集『わたしの家(Ett hem)』として出版されました。原画の連作はストックホルム国立美術館に収蔵されています。

『わたしの家』が描いたのは、豪華さではなく、明るく、簡素で、機能的で、そして個人的な住まいでした。窓辺の鉢植えの花を世話する娘、大きな白樺の木陰に集う家族。こうした情景は複製画や本を通じてスウェーデン中の家庭に広まり、20世紀のスウェーデン人が思い描く「理想の家」の原型になっていきました。生活そのものを美の対象として描いたこと、それがラーションの発明でした。

カーリン・ラーションの仕事 ── スウェーデン・モダンの先駆
『わたしの家』に描かれたインテリアの多くは、実は妻カーリンの作品でした。スウェーデンの女性人名事典SKBLによれば、カーリンはストックホルムの工芸学校と王立美術アカデミーで学び、パリのアカデミー・コラロッシにも在籍した、正規の美術教育を受けた画家です。スンドボーンに定住したのちは絵筆を針と糸に持ち替え、テキスタイルと家具のデザインへと創作の場を移しました。

カーリンの織物は、当時のスウェーデンの趣味からすると大胆すぎるほどの色彩と、時代を先取りした抽象的な構成を持っていました。「愛のバラ(Kärlekens ros)」「四大元素(De fyra elementen)」といったタペストリー、直線的なデザインの家具。ウィリアム・モリスに始まるアーツ・アンド・クラフツ運動に共鳴しながら、家全体を一つの総合芸術として作り上げる姿勢は、夫の絵の「舞台美術」にとどまらない独立した仕事でした。

カーリンの評価を国際的に決定づけたのが、1997年10月にロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)で開かれた展覧会「カールとカーリン・ラーション ── スウェーデン様式の創造者たち(Carl and Karin Larsson: Creators of the Swedish Style)」です。夫妻の仕事をまとめてスウェーデン国外で紹介する大規模な展覧会で、リッラ・ヒュットネースから運ばれた家具や織物による部屋の再現展示が組まれ、カーリンのタペストリーと織機が正面から取り上げられました。展覧会のタイトルが示す通り、ここで夫妻は画家と妻ではなく、「スウェーデン様式」を共に作った二人の創造者として位置づけられ、カーリンのインテリアはのちのスウェーデン・モダンにつながる先駆的な仕事として評価されました。

エレン・ケイと「万人のための美」
ラーション家の住まいを一枚の絵から社会の思想へと押し上げたのが、思想家エレン・ケイ(Ellen Key、1849-1926)です。ケイは1897年のストックホルム博覧会に合わせて雑誌『イードゥン(Idun)』に住まいの美についてのエッセイを発表し、1899年にはそれをまとめた小冊子『万人のための美(Skönhet för alla)』を刊行しました。カールの画集『わたしの家』と同じ年です。

ケイはこの中で、美は富裕層の特権ではなく、すべての人の日常に属するべきだと説きました。そして、ささやかな手段で家庭的で個人的な住まいを実現した模範例として、ラーション夫妻のスンドボーンの家を挙げています。暗く物であふれた室内ではなく、風通しがよく、機能的で、調和のとれた、住む人の個性が表れた家。ラーションの水彩画が感覚的に示したものを、ケイは言葉と論理で社会に広げました。
ここで重要なのは、ラーション家の影響が「絵柄として食器に写された」という意味ではないことです。受け継がれたのは、モチーフではなく、暮らしの考え方でした。家の中を明るく、簡素に、家族の時間にふさわしく整えること。その感覚が、やがて家具やテキスタイルだけでなく、毎日手に取る器にも向けられていきます。
「美しいものを、一部の人ではなく万人に」。この一文は、その後およそ半世紀にわたってスウェーデンのデザインを導く合言葉になります。そしてこの思想を、絵画や住まいから工業製品へ、つまり私たちが手に取る器へと橋渡しする人物が現れます。
「より美しい日用品を」から食器の世紀へ
その人物が、美術史家グレゴール・パウルソン(Gregor Paulsson、1889-1977)です。パウルソンは1917年にスウェーデン工芸協会(Svenska Slöjdföreningen)の事務局長に就き、1919年に運動の宣言というべき書物『より美しい日用品を(Vackrare vardagsvara)』を発表しました。この本の背骨にはエレン・ケイの「万人のための美」の思想があり、パウルソンはそれをドイツ工作連盟の産業と芸術の統合という考え方に接続して、「芸術家を産業へ送り込み、大量生産される日用品そのものを美しくする」という具体的な運動方針に作り変えました。

この運動の最初期の成果が、1917年、スウェーデン工芸協会の仲介によって画家ヴィルヘルム・コーゲ(Wilhelm Kåge)がグスタフスベリ製陶所に招かれた出来事です。コーゲは同年のストックホルム家庭博覧会に向けて、労働者家庭のための廉価な食器「リリエブロー(青い百合)」を発表しました。ここに至って、ラーションが描き、ケイが言葉にした「万人のための美」は、初めて量産される器のかたちを取ったのです。コーゲの歩みはヴィルヘルム・コーゲとグスタフスベリの記事で詳しく解説しています。


パウルソンの仕事は一冊の本にとどまりませんでした。1927年にシュトゥットガルトで開かれた実験住宅展ヴァイセンホーフ・ジードルングを視察したパウルソンは、同様の催しをストックホルムで実現しようと動き、スウェーデン工芸協会の主催による1930年のストックホルム博覧会を知的指導者として主導します。同年5月から9月までユールゴーデンの水辺で開かれたこの博覧会には約400万人が訪れ、住宅から家具、日用品までを機能主義の考え方で貫いた会場は、スウェーデンひいては北欧諸国にモダニズムが定着する画期になりました。翌1931年には、パウルソンが建築家グンナール・アスプルンドらと連名で宣言の書『アクセプテーラ(acceptera)』を発表し、新しい時代の生活条件を「受け入れる」ことをデザインの出発点に据えています。
ここで注目したいのは、この博覧会が「万人のための美」という系譜の中間点に位置することです。エレン・ケイが1899年に言葉にした理想を、パウルソンは1919年に産業の運動方針へ、1930年には社会全体の住まいと日用品の計画へと押し広げました。そして1930年代以降のスウェーデンでは、機能主義の合理性に手仕事の温かみや有機的なかたちを加えた方向が模索され、それが戦後に「スウェーデン・モダン」として国際的に知られるようになった、と一般に説明されます。1950〜60年代のグスタフスベリやロールストランドの食器は、まさにこの土壌の上に咲いた花でした。
その後の展開は、当店のブログを読んでくださっている方にはおなじみの歴史です。コーゲはグスタフスベリの美術部門を率い、1949年にはその地位を弟子のスティグ・リンドベリに譲ります。ベルサやプルーヌスに代表されるリンドベリのミッドセンチュリーの仕事はスティグ・リンドベリ完全ガイドで、グスタフスベリという窯の全体像はグスタフスベリ完全ガイドでたどることができます。
系譜を一本の線にすると、こうなります。ラーション夫妻がスンドボーンで「明るく簡素な家庭の美」を実作し(1888年〜)、カールが『わたしの家』でそれを国民的な理想像として描き(1899年)、エレン・ケイが『万人のための美』でそれを社会思想に高め(1899年)、パウルソンとスウェーデン工芸協会が『より美しい日用品を』で産業の運動に変え(1917-1919年)、コーゲからリンドベリへと続くグスタフスベリの食器がそれを実現した ── という流れです。もちろん歴史は一本道ではなく、各段階には他の要因も働いています。それでも、エレン・ケイがラーション家を名指しで模範とし、パウルソンがケイの思想を土台にしたことは資料の上で確認できる接続であり、北欧ヴィンテージ食器の「日常のための美」という性格の出発点に、この画家の家があったことは確かだといえます。
なお、「日用品にこそ美が宿る」という考え方は、日本の民藝運動の「用の美」と響き合うものです。柳宗悦と北欧デザインの美意識の交差については用の美と柳宗悦の記事で掘り下げています。
ミッドセンチュリーの器に流れる『わたしの家』
思想の系譜を確認したところで、もう一度絵の前に戻ってみます。『わたしの家』の連作には、食卓の場面が繰り返し登場します。《大きな白樺の下の朝食》に描かれているのは、晩餐会の豪華な食卓ではなく、家の裏手の木陰に置かれた長いテーブルと、そこに集うふだん着の家族です。カール自身がこの絵に添えて、天気の良い日もそうでない日も家の裏の大きな白樺の下で食事をとる、木陰が実に見事だから、という趣旨の言葉を書き残しています。描かれた器はあくまで画面の脇役ですが、この連作が示したのは「何気ない毎日の食卓こそ、描くに値する美しい情景だ」という当時としては新しい価値観でした。ハレの日の食卓ではなく、平日の朝を絵にしたことに、この画家の思想が表れています。
それから半世紀あまりのちのグスタフスベリに、この情景と響き合うシリーズがあります。スティグ・リンドベリが1961年に発表した「ベルサ(Berså)」です。器一面に規則正しく並ぶ緑の葉。シリーズ名はスウェーデン語で、庭の木立に囲まれた木陰の席、いわゆる「あずまや」を意味します。リンドベリがラーションの水彩を参照したという一次証言は確認できていないため、これを直接の影響と呼ぶことはできません。それでも、木陰の食卓という主題、明るい色彩、植物のモチーフ、そして特別な日ではなく毎日のための量産品というあり方が、ラーション夫妻が実作しエレン・ケイが言葉にした理想と同じ系譜の上にあることは見て取れます。引用ではなく、共鳴と呼ぶべき関係です。詳しくはベルサの記事で解説しています。

ロールストランドにも同じ共鳴を感じるシリーズがあります。パンジーの花を図案化した「シルビア(Sylvia)」は、庭や窓辺の身近な草花を器の上に写し取った意匠でした。『わたしの家』の《花咲く窓辺》で娘が世話をしていた鉢植えの花々を思い出してください。宮殿の紋章でも異国の風景でもなく、自分の家の窓辺に咲く花を美の主題に選ぶという感覚は、スンドボーンの水彩とミッドセンチュリーの器に共通しています。シルビアについてはシルビア完全ガイドをご覧ください。
共通項をひとことで言えば、「特別な日のためではなく、毎日のための美」ということになります。19世紀の食器の美は、晩餐用の銀器や飾り棚の磁器のように、ハレの日と結びついていました。ラーションはふだんの朝の食卓を描くに値するものとして描き、ケイは美を万人の日常へ開くべきだと説き、パウルソンは量産される日用品そのものを美しくせよと唱え、コーゲからリンドベリへ続く作り手たちは、その理想を実際に工場のラインに載せました。1950〜60年代の北欧食器が、豪華さではなく親しみやすさを美の中心に置いているのは偶然ではなく、この半世紀にわたる縦糸の帰結だといえます。ベルサやシルビアを手に取るとき、その向こうには白樺の木陰の食卓と、窓辺の花が透けて見えます。
『わたしの家』からミッドセンチュリーの器へ——系譜の見取り図
ラーション夫妻、スンドボーンの家と『わたしの家』
明るく簡素な家庭の美を実作し、描く
エレン・ケイ『万人のための美』
ラーション家を模範に、美を社会思想へ
コーゲ、グスタフスベリへ(生活博覧会)
芸術家が量産の器をデザインする時代へ
パウルソン『より美しい日用品を』
運動の宣言。ケイの思想を産業の方針に
ストックホルム博覧会
機能主義が住まいと日用品の標準になる
ミッドセンチュリーの器(リンドベリ、ベルサ、シルビアほか)
「毎日のための美」が食卓に届く

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日本での受容
ラーションと日本の縁は、近年の展覧会に始まったものではありません。ラーション自身が晩年、「芸術家として、日本は私の故郷である(as an artist, Japan is my motherland)」という趣旨の言葉を残しています。ストックホルムのティールスカ・ギャラリーが2018年の東京での展覧会に寄せた紹介文でも引用された、よく知られた一節です。19世紀後半のヨーロッパを覆ったジャポニスムの波は北欧にも及び、ラーションは日本を訪れる機会がないまま、浮世絵の版画に深く傾倒しました。はっきりとした輪郭線、平面的な色面、大胆に切り取られた非対称の構図。『わたしの家』の水彩様式のこうした特徴は、日本美術の造形から学んだものだと美術館の資料でも説明されており、ラーションはスウェーデンにおけるジャポニスム受容を担った画家の一人とされています。スンドボーンの家には日本の木版画が飾られていたとも紹介されており、カーリンの装飾芸術にも同じ美意識が流れていました。
その傾倒は、言葉の上だけのものではありませんでした。1888年、ラーションはフュルステンベリ家の依頼で三連画《ロココ——ルネサンス——新しい芸術》を手がけます。芸術の三つの時代を描いたこの大作の右パネル《新しい芸術(Nutida konst)》で、ラーションは「今日の芸術」を担う人物のひとりとして、丁髷を結い筆を持つ日本の絵師を画面に描き込みました。西洋美術の未来を描く画面に日本の絵師を置く——ラーションにとって日本美術が「新しい芸術」そのものの一部だったことを、この絵ほど雄弁に物語るものはありません。

カール・ラーションは日本でも繰り返し紹介されてきました。1994年には日本で初めての回顧展が開かれ、ストックホルム国立美術館、イェーテボリ美術館、スンドボーンのカール・ラーション・ゴーデンから油彩・水彩・素描あわせて約140点が来日し、新潟県立近代美術館や三重県立美術館などを巡回しました。
2018年から2019年にかけては、日本・スウェーデン外交関係樹立150周年を記念して、東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館(のちのSOMPO美術館)で「カール・ラーション スウェーデンの暮らしを芸術に変えた画家」展が開催されました。この展覧会では絵画に加えて、夫妻がデザインした家具やカーリンのテキスタイルも展示され、日本でも「画家カール」だけでなく「デザイナー夫妻としてのラーション家」という捉え方が紹介されています。『わたしの家』は絵本のかたちでも日本語で紹介されており、北欧の暮らしへの関心の高まりとともに読み継がれてきました。
なお、日本語の資料には、水彩画史の文脈でラーションが「フランス印象派の画家に影響を与えた」と紹介する例もあります(橋秀文『水彩画の歴史』美術出版社、2001年に基づく記述)。一方、スウェーデンや英語圏の美術館・作家資料では、グレー=シュル=ロワンでフランスの外光表現がラーションの様式を育てたという、逆向きの影響として説明されるのが一般的です。本記事では後者の整理を採用しています。
こうして眺めると、一つの円環が見えてきます。日本の浮世絵に学んだ画家が、北欧の暮らしの美の原型を描き、その理想が半世紀をかけてミッドセンチュリーの器に実り、その器が時を経て、ふたたび日本の愛好家の手元へ届いている ── という循環です。先に触れた柳宗悦の「用の美」との呼応も、この円環の中に位置づけることができます。北欧ヴィンテージ食器が日本でこれほど親しまれている背景には、単なる流行を超えた、美意識の長い往復があったのだといえます。
さらに一歩進めて、こう読むこともできます。ラーションの様式の核である明晰な輪郭線と平面的な色面は、浮世絵に学んだものでした。そのラーションが描いた「暮らしの美」が、エレン・ケイを経て北欧ミッドセンチュリーの原型のひとつになったのだとすれば——ベルサの葉やシルビアのパンジーの、あの迷いのない輪郭線と明快な色面のなかに、遠い浮世絵の記憶を見ることもできるはずです。北欧ミッドセンチュリーの器の系譜には、日本美術がひと筋、確かに流れ込んでいるのです。
まとめ
カール・ラーションは食器のデザイナーではありません。しかし、北欧ヴィンテージ食器を特徴づける「日常のための、万人のための美」という思想の出発点をたどると、スンドボーンの赤い家と、そこで生まれた水彩画に行き着きます。器そのものではなく、器が置かれる暮らしの理想像を描いたこと。それがこの画家の、北欧食器デザインへの最も大きな貢献でした。
要点の整理
- カール・ラーションは印象派全盛のパリに学びながら、あえて明晰な輪郭線による水彩の写実を選んだ画家です
- その線の描法は、フランス滞在中に触れたジャポニスム──浮世絵の輪郭線と平面的な色面──に学んだものです。1888年の三連画の右パネル《新しい芸術(Nutida konst)》には、丁髷を結った日本人絵師が「今日の芸術」の担い手として描かれています
- 水彩画集『わたしの家』(1899年)とスンドボーンの家は、明るく簡素なスウェーデンの住まいの理想像になりました
- エレン・ケイ『万人のための美』(1899年)はラーション家を模範例に挙げ、その思想はパウルソン『より美しい日用品を』(1919年)、1917年のコーゲのグスタフスベリ招聘を経て、リンドベリらミッドセンチュリーの食器デザインへ受け継がれました
- つまり、北欧ミッドセンチュリーの源流には日本美術に学んだ画家が立っています。ベルサやシルビアの器にたどりつく系譜には、ジャポニスムを経由した日本美術がひと筋流れ込んでいます
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