エリック・ホグラン(Erik Höglund)完全ガイド|気泡とぬくもりでスウェーデンのガラスを変えた、ボダの異端児
Share
エリック・ホグラン(Erik Höglund)完全ガイド|気泡とぬくもりでスウェーデンのガラスを変えた、ボダの異端児
北欧ヴィンテージ食器を好きになると、やがてその関心は「ガラス」へと広がっていきます。イッタラの澄んだグラス、オレフォースの磨き抜かれたクリスタル——透明で、端正で、完璧なガラス。けれども、その「完璧さ」にあえて背を向け、気泡やゆがみを抱えたままの、ぽってりと厚い琥珀色のガラスで一時代を築いた人がいました。エリック・ホグラン(Erik Höglund、1932–1998)です。
ホグランは、スウェーデン南部スモーランドの森の中にあったガラス工場ボダ(Boda)で、人や動物の姿を浮かべた素朴で力強いガラスを生み出しました。その仕事は、当時のスウェーデンガラスが理想とした「水晶のような透明さ」をくつがえし、ガラスという素材の正直な表情——気泡も、脈理も、手の痕跡も——をそのまま美しさへと変えていきます。わずか25歳で北欧デザインの登竜門ルニング賞(Lunning Prize)に選ばれ、「ボダといえばホグラン」と言われるほど、スウェーデンの人々に愛された作家でした。
本記事では、生まれ故郷の港町カールスクルーナから、ストックホルムの美術学校、そしてスモーランドの森のガラス工場まで——土地と時間をたどりながら、ホグランの生涯と作品を紹介します。日本でいまも静かに愛され続ける理由にも触れながら、読み終えるころには、琥珀色の小さなガラスの向こうに、ひとつの人生と、北欧の森の風景が透けて見えるはずです。
この記事でわかること
- エリック・ホグランの生涯と、彫刻家からガラス作家へと転じた歩み
- 「気泡という欠点」を美に変えた、ホグランのガラスの特徴と見どころ
- ガラスの王国グラスリケットとボダ、コスタ・ボダ統合の背景
- 鉄の仕事・公共彫刻・教会のガラスまで広がった、その造形の世界
- 日本でホグランが愛され続ける理由
目次
- エリック・ホグランとは——一行プロフィール
- 基本情報
- 港町カールスクルーナから、コンストファックの彫刻家へ
- 1953年、森の中のガラス工場ボダへ
- 気泡という「欠点」を美に変える——ホグランのガラス
- 人と動物たち——プリミティブな造形の世界
- 鉄とガラス——ボダ・スミーデと教会の仕事
- ガラスの王国グラスリケットと、コスタ・ボダ
- ボダを離れて——公共彫刻と晩年
- 日本とのつながり
- なぜいま、エリック・ホグランなのか
- よくある質問
1. エリック・ホグランとは——一行プロフィール
エリック・ホグランを一行でまとめるなら、「彫刻家の眼でガラスをとらえ直し、気泡と素朴な人物像でスウェーデンガラスを根っこから変えた人」となります。1932年にスウェーデン南部の港町カールスクルーナに生まれ、1998年に65歳で世を去りました。
彼が登場する前のスウェーデンガラスは、オレフォース(Orrefors)が確立した、透明で優雅、知的な「上質なガラス」が主流でした。シモン・ガーテやエドワード・ハルドが刻んだ端正な彫刻ガラスがその象徴です。ホグランはそこへ、重く、厚く、気泡を抱えた、まるで土から掘り出したような琥珀色のガラスを持ち込みました。それは「表面を飾る」ガラスから、「素材そのものの存在感」で勝負するガラスへの、静かな、しかし決定的な転換でした。
2. 基本情報
| 本名 | エリック・シルヴェステル・ホグラン(Erik Sylvester Höglund) |
|---|---|
| 生没年 | 1932年1月31日 — 1998年1月27日(享年65) |
| 出身地 | スウェーデン、ブレーキンゲ地方カールスクルーナ(Karlskrona) |
| 学歴 | コンストファック(Konstfack/国立美術工芸大学、ストックホルム)。1948年ごろから1953年にかけて、装飾画・彫刻・グラフィックを学ぶ |
| 主な活動先 | ボダ・グラスブルーク(Boda glasbruk、1953–1973年)。のちにプーケベリ、リンスハンマル、ストロンベリスヒッタンなどとも協働 |
| 分野 | ガラス、鍛鉄、彫刻、公共芸術 |
| 主な受賞 | ルニング賞(Lunning Prize、1957年) |
3. 港町カールスクルーナから、コンストファックの彫刻家へ
エリック・ホグランは1932年1月31日、スウェーデン南東部、バルト海に面した軍港の町カールスクルーナに生まれました。父は会計監査の仕事に就いており、兄も彫刻家の道へ進んでいます。海と岩と赤い木造の家が並ぶこの港町の風景は、のちの彼の造形に流れる、どこか素朴で力強い感覚の出発点だったのかもしれません。
カールスクルーナは、17世紀にスウェーデン海軍の拠点として計画的につくられた港町で、その歴史的な軍港の街並みは、のちにユネスコの世界遺産にも登録されています。整然と築かれた要塞や造船所、海に開かれた広場——理にかなった構造の美しさと、バルト海の厳しくも澄んだ光に囲まれて、ホグランは少年時代を過ごしました。兄もまた彫刻家の道を歩んでおり、ものをかたちづくることは、この一家にとって身近な営みだったようです。
若くしてストックホルムへ出たホグランは、コンストファック(Konstfack、国立美術工芸大学)で学びます。ここで彼が専攻したのはガラスではなく、装飾画と彫刻、そしてグラフィックでした。フリッツ・シェーストルムに装飾画を、ロベルト・ニルソンに彫刻を学び、1951年から1952年にかけては版画も手がけています。つまりホグランは、ガラスの専門教育をほとんど受けていない「彫刻家」として世に出た人でした。この経歴こそが、のちに彼のガラスを、同時代の誰とも違うものにします。
ガラスを「平らな器面に絵を刻む素材」としてではなく、「塊として手で形づくる素材」として見る——彫刻家の眼を持っていたからこそ、ホグランはガラスの厚みや重さ、内側に閉じ込められた気泡そのものを、表現の主役にできました。版画家として培った、単純で力強い線も、のちに器の側面へ刻まれる人物像へとつながっていきます。
4. 1953年、森の中のガラス工場ボダへ
1953年、コンストファックを出たばかりの21歳のホグランに、転機が訪れます。スモーランド地方の小さなガラス工場ボダ(Boda)の経営者エリック・ローセン(Erik Rosén)が、ガラスの経験がほとんどない若い彫刻家を、デザイナーとして直接迎え入れたのです。当時としては大胆な人選でした。
ボダがあるのは、スウェーデン南部スモーランドの深い森の中。このあたりは「ガラスの王国(グラスリケット、Glasriket)」と呼ばれ、森・湖・薪・砂という、ガラスづくりに必要なものがそろう土地として、18世紀から数多くのガラス工場が生まれてきました。ボダ・グラスブルークは1864年(1874年とする資料もあります)に創業し、工場を中心に集落が形づくられた、典型的なガラスの企業城下町です。針葉樹の森に煙突が立ち、職人の家が並ぶ——その静けさは、いまも北欧の原風景として伝わってきます。
当時のボダは、ほかの工場と同じような、おとなしいガラスをつくる小さな窯にすぎませんでした。けれども、ホグランの加入を境に、その性格は大きく変わります。彼は自らガラス吹きの技を覚えながら、磨き上げた完璧さではなく、「気泡や手の痕跡を残した、荒々しくも温かいガラス」という独自の方向へと、ボダを導いていきました。
森に抱かれた小さな工場村で、若い彫刻家とガラス職人たちが膝を突き合わせ、炉の前で新しいガラスを生み出していく——。ホグランの仕事は、こうした職人との密な協働の中から生まれました。デザイナーが図面を描いて終わりにするのではなく、自ら炉の前に立ち、職人と手を動かしながらかたちを探っていく姿勢は、のちのボダのものづくりを支える文化となっていきます。経営者ローセンの慧眼と、職人たちの技と、ホグランの彫刻家としての眼——その三つが出会った場所が、森の中のボダでした。
5. 気泡という「欠点」を美に変える——ホグランのガラス
ホグランのガラスを語るとき、まず外せないのが「気泡」です。オレフォースに代表される当時のスウェーデンガラスにとって、気泡や脈理(ガラスの中のすじ)は、徹底的に取り除くべき欠点でした。理想とされたのは、磨き抜かれた水晶のように澄んだ透明さ。けれどもホグランは、その価値観を真っ向からくつがえします。
彼はガラスの中に、あえて無数の気泡を閉じ込めました。溶けたガラスに気泡を生じさせるため、ジャガイモを投げ入れたという逸話も語り継がれています(真偽は確かめようがありませんが、彼の発想を物語る話として知られています)。色も、澄んだ無色ではなく、琥珀・緑・茶・スモークといった、土を思わせる深い色合いが選ばれました。表面はわざと磨かず、ぽってりと厚く、ゆがみや非対称をそのまま残す——。こうして生まれたガラスは、工業製品の完璧さとは正反対の、手の体温が残ったような、素朴で力強い表情をまとっています。
「消そうとされた欠点」を、「素材そのものの正直な表情」として肯定し、前面に押し出したこと。これはホグランのもっとも大きな仕事であり、スウェーデンガラスの哲学を「表面の装飾」から「素材の真実」へと動かした転換点だと、しばしば語られます。1955年にヘルシンボリで開かれた大規模なデザイン展「H55」での発表は、彼の評価を一気に高めるきっかけになったとされています。
この素朴で力強いガラスは、一部の愛好家だけのものにとどまりませんでした。ホグランのガラスは輸出でも成功を収め、ボダの名は1950年代から60年代にかけて、スウェーデンの一般家庭にも広く知られるようになります。1969年に発表された「ファルス・グラス(Fars Glas、=父さんのグラス)」は、無骨なほど大ぶりで実用本位のシリーズとして人気を集め、のちにカルト的な名作として語り継がれることになりました。近年、このシリーズは家具ブランドHemとコスタ・ボダによって復刻版も登場しています。気取らず、堂々として、どこか愛嬌のある——ホグランのガラスの魅力が凝縮されたシリーズといえます。
6. 人と動物たち——プリミティブな造形の世界
ホグランのもうひとつの大きな特徴が、ガラスの側面に浮かぶ「人と動物の姿」です。手をつないで立つ男女、横顔、雄牛、鳥、魚——どれも細部を写実的に描き込むのではなく、子どもの絵や古代の岩絵を思わせる、単純でおおらかな線でかたどられています。コレクターの間では、向かい合う男女の像が「アダムとイヴ(Adam & Eva)」の名で親しまれてきました(この呼び名は市場でついた通称で、正式な作品名ではない点には留意が必要です)。
当店でも、その造形を間近に見られる一点をご紹介できます。琥珀色のガラスに、ホグランらしい人物像が型押しされた大ぶりのマグ(ゼイデル)です。もともとはビールのためのかたちとしてデザインされましたが、いまその魅力は、光にかざしたときに浮かび上がる人の姿と、ガラスの厚みが生む深い琥珀色にあります。光にかざすと、表面のわずかなゆがみや気泡までもが見えてきて、機械では生まれない温かみを感じさせます。いまは観賞用の一点として、その造形を間近にご覧いただけます。詳しくは商品ページ(ホグランがボダで手がけた琥珀色のバブルガラスのマグ)をご覧ください。
モチーフは人だけではありません。雄牛や鳥、魚といった動物たちも、ホグランの好んだ主題でした。さらに、ガラスや金属でかたどられた「鐘(ベル)」も、彼の造形を語るうえで忘れられない存在です。どれもが、写実ではなく、記号のように簡略化された輪郭で表されているのが特徴で、見る人それぞれの記憶や物語を、そこへ自由に重ねられるような余白を残しています。細部を描き込まないからこそ、かえって普遍的で、時代を超えて古びない——ホグランの造形には、そんな強さがあります。
こうした人物や動物のモチーフは、器だけにとどまりません。ホグランは、ガラスそのものを彫刻として立ち上げた作品も数多く残しています。次の鉄とガラスの仕事は、その代表的なひとつです。
7. 鉄とガラス——ボダ・スミーデと教会の仕事
1960年代に入ると、ホグランは鍛鉄(たんてつ)の世界へと表現を広げます。きっかけは、1961年に鍛冶職人アクセル・ストロングレンが自らの鍛冶場をボダへ移し、「ボダ・スミーデ(Boda Smide)」として操業を始めたことでした。ホグランはこの鍛冶場へ通い、鉄とガラスを組み合わせたシャンデリアや燭台、キャンドルホルダーを次々とデザインしていきます。黒く無骨な鉄の輪に、琥珀色のガラスの器を組み合わせた照明は人気を呼び、ボダの新たな顔となりました。
キャンドルホルダーや燭台は、ホグランの造形がもっとも身近に感じられる仕事のひとつです。北欧の長い冬と、その中でともされる小さな灯りの文化については、北欧のキャンドルホルダー完全ガイドでも詳しく紹介しています。
ホグランの仕事は、地元スモーランドの教会にも数多く残されました。彼は、厚いガラスの塊をはめ込んだ独特のガラス窓や、鉄とガラスの照明を、近隣の教会のために手がけています。透明な板ガラスに絵を描く伝統的なステンドグラスとは異なり、色ガラスの塊そのものの光を生かした、彫刻的な窓でした。
器、照明、窓——素材も用途も異なるこれらの仕事に、ホグランは同じまなざしを注いでいました。小さな器に宿る造形の喜びを、教会という大きな空間にまで広げていくこと。美術館に飾られる作品だけでなく、人々が暮らしの中でふと目にする身近な場所にこそ、手仕事の美を届けようとしたこと。ガラスの王国スモーランドの教会に彼の仕事が数多く残されているのは、ホグランが地域に根を下ろし、その土地の人々とともに造形を育んだ証でもあります。
8. ガラスの王国グラスリケットと、コスタ・ボダ
ホグランの舞台となったボダは、「ガラスの王国」グラスリケットを構成する工場のひとつでした。スモーランドの森には、ボダのほかにも、1742年に創業した長い歴史をもつコスタ(Kosta)や、オーフォシュ(Åfors)など、いくつもの工場が点在していました。それぞれの工場が、森と湖にかこまれた小さな集落を抱え、何世代にもわたって炉の火を絶やさずに守り続けてきました。冬は長く、日照時間は短いこの土地で、赤々と燃える炉とガラスのきらめきは、人々の暮らしの中心にありました。
変化する経済環境のなかで、1976年にコスタ、ボダ、オーフォシュの3つの工場が合併し、「コスタ・ボダ(Kosta Boda)」が誕生します。さらに1989年にはオレフォースとも結びつき、より大きなグループへと再編されていきました。ホグランが活躍したボダの工場そのものは2003年に操業を停止しましたが、「Kosta Boda」のブランドは、いまもコスタを拠点に受け継がれています。スウェーデンガラスの全体像については、北欧ガラスの世界——コスタ・ボダとスウェーデンのガラス工芸もあわせてご覧ください。
同じくボダにゆかりのある作家としては、カトラリーや器を手がけたシグネ・ペション=メリンや、コスタで活躍したヴィッケ・リンドストランドらがいます。グラスリケットは、それぞれに個性の異なる作家たちが、同じ森の中で腕を競い合った場所でした。スモーランドの中心都市ヴェクショーには、その歴史を伝えるスウェーデン・ガラス博物館(Sveriges Glasmuseum)も置かれています。
9. ボダを離れて——公共彫刻と晩年
1973年、ホグランは20年間在籍したボダを離れます。その後は自らの鍛冶場を構え、ガラス・ブロンズ・鉄・れんが・花崗岩・コンクリートといった多彩な素材を用いた、公共彫刻やパブリックアートへと活動の軸を移していきました。スウェーデン各地の広場や公園には、彼が手がけた彫刻が、およそ150点も残されているとされています。
ガラスの仕事からすっかり離れたわけではありません。ボダを去ったのちも、ホグランはプーケベリ(Pukeberg)、リンスハンマル(Lindshammar)、ストロンベリスヒッタン(Studioglas Strömbergshyttan)といった工場と協働し、自由な立場でガラスをデザインし続けました。1968年にはガラス作家モニカ・バックストルムと共同で設計事務所を立ち上げ、1971年にはボダのデザイナー10人による共同体「ヴェート・フート(Vet Hut)」にも名を連ねています。器から建築、彫刻まで——ホグランの造形は、生涯を通じて一貫して「素材と手の対話」であり続けました。1998年1月27日、ストックホルムで65年の生涯を閉じます。
10. 日本とのつながり
エリック・ホグランは、日本でも根強い人気をもつ作家です。ただし、その関係の多くは、ホグラン本人が存命中(1998年没)の交流というよりも、没後の日本における「再発見・受容」という形で育まれてきました。この点は、正直に区別して紹介しておきたいと思います。
確かな事実として知られているのは、日本の北欧ヴィンテージ専門店による、継続的な紹介です。東京・表参道/原宿の専門店ELEPHANTは、2009年以降ほぼ毎年ホグランの展示を開いてきました。2017年には開店10周年を記念し、東京と京都の二都市で、真贋の保証を付したホグラン展が催されています。2019年には自由が丘のIDÉE SHOPでも展示会が開かれ、伊勢丹新宿店では「Erik Höglund|Primitive Modernity(プリミティブ・モダニティ)」と題した企画として、その作風が紹介されました。日本では、専門店やギャラリーが鑑定の保証を付けて継続的に扱う、数少ない北欧ガラス作家の一人として、確かな地位を築いています。
日本でとくに好まれてきたのは、琥珀色や深い緑をたたえた、気泡入りのガラスや、人や動物の姿が浮かぶ小さな器・灰皿のたぐいです。鑑定の保証書を付けて丁寧に扱う専門店が多いのも、ホグラン作品ならではの文化といえます。これは、銘やバックスタンプだけでは真贋を判じにくく、手仕事ゆえの個体差が大きいという、彼のガラスの性格とも関係しているのかもしれません。一点ごとに表情の異なるガラスを、目で見て確かめながら選ぶ——その楽しみ方そのものが、日本の愛好家に受け入れられてきました。
では、なぜ日本でこれほど愛されるのでしょうか。ここからは事実というより、ひとつの解釈になります。ホグランが体現した美意識——気泡や脈理という「欠点」をそのまま肯定すること、手仕事の痕跡を消さないこと、名もなき素朴なものの中に美を見いだすこと——は、柳宗悦(やなぎ・むねよし)が説いた民藝の「用の美」や、不完全さやつつましさの中に美を見る「侘び寂び」の感覚と、深く響き合うように思えます。名もなき職人の手の痕跡を尊ぶまなざしは、北欧と日本という遠く離れた土地で、それぞれに育まれてきたものでした。ホグラン自身が日本の民藝から直接影響を受けたという記録は確認できていませんが、この美学的な親しさが、日本でホグランが静かに愛され続ける背景にあると読むことは、無理のない解釈ではないでしょうか。
11. なぜいま、エリック・ホグランなのか
北欧ヴィンテージのガラスを集めていくと、磨き抜かれた端正なクリスタルとは別の場所に、ホグランのガラスはぽつんと立っています。気泡を抱え、ゆがみを残し、土のような色をまとったそのガラスは、「完璧であること」とは違う価値——素材の正直さ、手の体温、つくり手のおおらかさ——を、静かに教えてくれます。
カールスクルーナの港町に生まれ、ストックホルムで彫刻を学び、スモーランドの森のガラス工場で時代を変えた——。一点の小さな琥珀色のガラスの向こうに、そんなひとりの人生と、北欧の森の静けさが透けて見えるとき、「ヴィンテージ」という言葉は、少しだけ厚みのあるものに変わります。ホグランのガラスは、北欧の暮らしや光景を思わせる色合いとともに、いまも日本の棚の上で、静かな存在感を放ち続けています。
まとめ
- エリック・ホグラン(1932–1998)は、彫刻家として出発し、1953年にガラス工場ボダのデザイナーとして迎えられた、スウェーデンガラスの革新者です
- 気泡や脈理という「欠点」をあえて肯定し、琥珀や緑の深い色、ぽってりと厚い素朴なかたちで、磨き抜かれた完璧さを理想とした当時のスウェーデンガラスの価値観を大きく動かしました
- 1957年にルニング賞を受け、「ボダといえばホグラン」と言われるほど、スウェーデンの人々に親しまれました
- 器だけでなく、鉄とガラスのシャンデリア、教会のガラス窓、花崗岩やブロンズの公共彫刻まで——その造形は素材を越えて広がりました
- 日本では没後、専門店やギャラリーを通じて静かに再発見され、その素朴な美意識が民藝や侘び寂びと響き合う作家として、いまも愛され続けています
よくある質問
Q. エリック・ホグランとはどんな作家ですか?
A. エリック・ホグラン(Erik Höglund)は、スウェーデンのガラス工場ボダで活躍したガラス作家・彫刻家です。気泡やゆがみを欠点として隠すのではなく、素材の表情として前面に出し、琥珀色や緑、スモークカラーの厚みあるガラスで独自の世界を築きました。
Q. ホグランのガラスの特徴は何ですか?
A. ホグランのガラスの特徴は、ぽってりとした厚み、気泡を含んだ質感、琥珀や緑などの深い色、人や動物を思わせる素朴なモチーフです。磨き抜かれた透明なクリスタルとは異なり、手仕事の跡や素材のゆらぎをそのまま魅力に変えたところに大きな個性があります。
Q. アダムとイヴとは何ですか?
A. アダムとイヴ(Adam & Eva)は、ホグラン作品のなかで、向かい合う男女の人物像が浮かぶガラスに対して市場で親しまれてきた通称です。正式な作品名ではありませんが、ホグランらしい人物表現を象徴するモチーフとして、コレクターの間でよく知られています。
Q. ボダとコスタ・ボダはどう違いますか?
A. ボダ(Boda)は、ホグランが1953年から活動したスモーランド地方のガラス工場です。のちにコスタ、ボダ、オーフォシュなどが統合され、コスタ・ボダ(Kosta Boda)というブランドへ再編されていきました。ホグランを語るうえでは、若い時期の創作の舞台としてのボダがとくに重要です。
あわせて読みたい関連記事
関連商品をチェック
ホグランが切り拓いた北欧ガラスの世界を、当店のヴィンテージコレクションでご覧いただけます。
当店の北欧ヴィンテージ食器
北欧から直輸入。全品検品済み。1万円以上送料無料。