シモン・ガーテ(Simon Gate)完全ガイド|オレフォースの黄金時代を築いた彫刻ガラスの巨匠——スウェディッシュ・グレースとグラールガラスの物語

シモン・ガーテ(Simon Gate)完全ガイド|オレフォースの黄金時代を築いた彫刻ガラスの巨匠——スウェディッシュ・グレースとグラールガラスの物語

シモン・ガーテ(Simon Gate)完全ガイド|オレフォースの黄金時代を築いた彫刻ガラスの巨匠——スウェディッシュ・グレースとグラールガラスの物語

シモン・ガーテの自画像
シモン・ガーテの自画像。ガラスに移る前は肖像画家・装飾画家として出発した(出典:Wikimedia Commons、Public Domain)

北欧ヴィンテージ食器を好きになると、やがてフィンランドやスウェーデンの「ガラス」へと関心が広がっていきます。イッタラ、ヌータヤルヴィ、コスタ・ボダ、そしてオレフォース(Orrefors)——名前は知っていても、その黄金時代を最初に築いた人物が誰だったのかは、意外と語られていません。その答えのひとつが、シモン・ガーテ(Simon Gate, 1883–1945)です。

ガーテは、スモーランドの深い森の中にあった無名の小さなガラス工場オレフォースに1916年に招かれ、わずか10年ほどで、世界が注目するガラスメーカーへと押し上げた立役者でした。透明なクリスタルの器面に、行列やダンスする女性たちを精緻な線で刻んだ彼の彫刻ガラスは、1925年のパリ万博でフランスの批評家たちを驚かせ、「スウェディッシュ・グレース(Swedish Grace)」と呼ばれる優雅な北欧モダンの象徴となりました。

本記事では、ガーテの生涯を、生まれ育ったヴェッテルン湖畔の農場から、ストックホルムの美術アカデミー、そしてスモーランドの森の中のガラス工場まで——時間と土地をたどりながら紹介します。同い年の盟友エドワード・ハルド(Edward Hald)との関係や、ガラスの中に絵を閉じ込める「グラール(Graal)」技法の物語も交えながら、読み終えるころには、北欧ガラスの「最初の一歩」がどのように踏み出されたのかが、少し身近に感じられるはずです。

この記事でわかること

  • シモン・ガーテの生涯と、画家からガラスデザイナーへと転じた歩み
  • オレフォースを世界的な名窯へ押し上げた「黄金時代」の背景
  • グラール技法とは何か——誰が、どのように生み出したのか
  • 「スウェディッシュ・グレース」と1925年パリ万博が北欧デザインに与えた意味

目次

  1. シモン・ガーテとは——一行プロフィール
  2. 基本情報
  3. ヴェッテルン湖畔の農場から、ストックホルムの美術アカデミーへ
  4. 1916年、森の中のガラス工場オレフォースへ
  5. グラール技法の誕生——ガラスの中に絵を閉じ込める
  6. ガーテとハルド——対照的な二人の盟友
  7. 「パリの杯」と1925年パリ万博——スウェディッシュ・グレースの誕生
  8. 代表作をたどる——城のガラスからバッカスの鉢まで
  9. 画家としての顔、故郷への帰還、そして晩年
  10. 日本とのつながり
  11. なぜいまシモン・ガーテなのか

1. シモン・ガーテとは——一行プロフィール

シモン・ガーテを一行でまとめるなら、「画家として出発し、オレフォースの彫刻ガラスで20世紀北欧ガラスの礎を築いた人」となります。1883年にスウェーデン南部の農村に生まれ、1945年に62歳で世を去りました。同い年の盟友エドワード・ハルド(1883–1980)とともに、無名だったオレフォースを世界の檜舞台へと導いた世代に属します。

のちにイッタラの「i」を生んだティモ・サルパネヴァや、ベルサを描いたスティグ・リンドベリが活躍するよりずっと前——ガーテとハルドは、まだ「ガラス工場にアーティストが常駐し、芸術と量産を結びつける」という発想そのものが新しかった時代に、その働き方を切り拓いた先駆者でした。

シモン・ガーテの肖像写真
シモン・ガーテの肖像写真。オレフォースの写真家ヨーン・セルビング(John Selbing)による記録(出典:Wikimedia Commons、Public Domain)

2. 基本情報

本名 カール・オスカル・シモン・ガーテ(Carl Oscar Simon Gate、旧姓ヨンソン Jonson)
生没年 1883年3月10日 — 1945年5月11日(享年62)
出身地 スウェーデン、セードラ・フォーゲロース教区(ヴェステルヨートランド地方、ヴェッテルン湖西岸・ホー近郊)
学歴 ストックホルム高等工芸学校(1902–1905)→ 王立美術アカデミー付属美術学校(1905–1909)
主な所属 オレフォース・ガラス工場(1916–1945、芸術監督)/サンドヴィーク(オレフォースの日用ガラス部門)
代表作 彫刻ガラス「パリの杯(Parispokalen, 1922)」「バッカスの鉢(Bacchusskålen)」/グラールガラス/「城のガラス(Slottsglas)」シリーズ/シャンパングラス「サルー(Salut, 1923)」
国際的栄誉 1925年パリ国際装飾美術博覧会でグランプリ受賞/ヴァーサ勲章(1926)・北極星勲章(1938)・Litteris et Artibus(1942)
主な所蔵 ストックホルム国立美術館/メトロポリタン美術館(NY)/ヴィクトリア&アルバート博物館(ロンドン)/スモーランド博物館(ヴェクショー)ほか

3. ヴェッテルン湖畔の農場から、ストックホルムの美術アカデミーへ

シモン・ガーテは1883年3月10日、スウェーデン南部のセードラ・フォーゲロース教区に、農場主オスカル・ヨンソンの子として生まれました。生家はカールスベリ農場。この一帯は、スウェーデン第2の大きさを誇るヴェッテルン湖(Vättern)の西岸、ホー(Hjo)という小さな町の南に広がる、なだらかな丘陵と森と畑の土地です。

ヴェッテルン湖と湖畔に建つ赤い納屋の風景
ヴェッテルン湖と、湖畔に建つスウェーデンらしい赤い木造の納屋。ガーテが生まれ育った西岸一帯も、こうした森と湖の風景に包まれている(出典:Wikimedia Commons、CC BY-SA 4.0、撮影:Ymblanter)

静かな湖と針葉樹の森に囲まれた農村に育ったガーテは、しかし家業を継ぐのではなく、絵の道を志します。20歳になる年の1902年から1905年まで、首都ストックホルムの高等工芸学校(現在のコンストファック Konstfack の前身)で学び、続く1905年から1909年にかけては、由緒ある王立美術アカデミー付属の美術学校に進みました。

1905年頃のストックホルム王立美術アカデミーの建物
1905年頃のストックホルム王立美術アカデミー。ちょうどガーテが学んだ時期の校舎の姿(出典:Wikimedia Commons、Public Domain)

アカデミーを出たあとのガーテは、ガラスとはまだ無縁でした。肖像画や風景画、装飾画、書籍の挿絵や装丁を手がける、一人の画家・グラフィックアーティストとして1910年代を過ごします。立体造形の経験はほとんどなく、その素養はあくまで「平面に絵を描く」ことにありました。この絵画の素養こそが、のちにガラスの器面を一枚の画布に変える仕事へとつながっていきます。

4. 1916年、森の中のガラス工場オレフォースへ

転機は1916年に訪れます。スモーランド地方の小さな村オレフォースのガラス工場が、画家だったガーテを芸術監督として迎え入れたのです。招いたのは、当時の工場支配人アルベルト・アーリン(Albert Ahlin)でした。当時のオレフォースには、コスタから招かれた腕利きのガラス吹き職人(マスターブロワー)、クヌート・ベルクヴィスト(Knut Bergqvist)もいました。

1917年のオレフォース・ガラス工場の建物
1917年当時のオレフォース・ガラス工場。ガーテが芸術監督として加わった翌年の姿(出典:Wikimedia Commons、Public Domain)

当時のオレフォースは、瓶や窓ガラス、ありふれた日用ガラスを焼く無名の工場にすぎませんでした。1726年に騎兵士官が製鉄所として創設した古い拠点で、ガラス工房が併設されたのは19世紀末のこと。芸術的なガラスへの転換が始まったのは、1913年に領事ヨハン・エークマン(Johan Ekman)が工場を買い取ってからでした。エークマンは、薄利の日用ガラスではなく、芸術性の高いガラスで生き残る道を選び、そのために画家を招くという当時としては大胆な決断を下します。その白羽の矢が立ったのが、ガーテでした。

スモーランドの森と「ガラスの王国」

オレフォースが位置するスモーランドは、スウェーデン南部の内陸地方です。土壌が薄く農業に向かないこの土地では、古くから別の資源が頼りにされてきました。炉を焚くための森の薪と、ガラスの原料となる地中の珪砂です。森と砂——この二つがそろっていたために、スモーランドには数多くのガラス工房が生まれ、やがて「グラスリケット(Glasriket=ガラスの王国)」と呼ばれるようになりました。

スモーランド地方のスクルーフ・ガラス工房の建物
「ガラスの王国」スモーランドに点在するガラス工房のひとつ、スクルーフ・ガラス工房。いまも操業を続けるスモーランドのガラス工房の一例(出典:Wikimedia Commons、CC BY-SA 3.0、撮影:MikaelLindmark)

「ガラスの王国」の起点は、1742年にコスタ(Kosta)で最初の工房が開かれたことにさかのぼります。19世紀末の最盛期には、スウェーデン全土の多くのガラス工場がこの地方に集中しました。深く青い湖と、林間の空き地、赤錆色の木造小屋が点在する森——ガーテが画家から転身して通うことになったのは、まさにこうした風景の只中にある小さな工房でした。首都ストックホルムのアカデミックな美術界から、森のガラス工場へ。その対比こそが、ガーテの後半生の舞台でした。

5. グラール技法の誕生——ガラスの中に絵を閉じ込める

ガーテがオレフォースに加わった1916年は、のちに「オレフォースの代名詞」となるガラス技法が生まれた年でもありました。それがグラール(Graal)です。透明なクリスタルの芯に色ガラスの層を被せ、その表面に文様をエッチングや彫刻で描いたうえで、もう一度加熱しながら透明なガラスで包み込んで成形する——。こうしてつくられたガラスは、内部に絵を抱え込んだような、奥行きのある独特の表情を見せます。

シモン・ガーテがデザインしたグラールガラスの花器
グラール技法のガラス器。意匠はシモン・ガーテ、吹き(成形)は名工クヌート・ベルクヴィスト、文様型はハインリヒ・ヴォルマン(Heinrich Wollman)による。色ガラスの文様が透明なガラスの内側に浮かぶ(出典:Wikimedia Commons、CC BY 4.0、Kulturparken Småland/撮影:Jörgen Ludwigsson)

誰がグラールを生んだのか

グラールは「ガーテの発明」として語られることがありますが、これは正確ではありません。技術的な突破口を開いたのは、ガラス吹き職人クヌート・ベルクヴィストでした。古くからあった色ガラスを重ねるカメオ技法を応用し、最初のグラール作品が制作されたのは1916年のことです。

「グラール」という名前を与えたのは、支配人アルベルト・アーリンでした。スウェーデンの詩人グスタフ・フレディングの詩に登場する、ワインがルビーのように輝くガラスの逸話から着想し、騎士物語の「聖杯(Graal)」になぞらえて、1916年11月にこの名を提案したと伝えられます。

オレフォース・ガラス工場の製図室の内部
オレフォース・ガラス工場の製図室(1935年頃)。デザイナーたちが図面と向き合った設計の現場(出典:Wikimedia Commons、Public Domain)

ガーテが文様の作図を通じてグラール制作に本格的に加わったのは、1917年からでした。やがて器の形そのものもベルクヴィストと協働で手がけるようになり、同じ年に加わった画家エドワード・ハルドも、この技法の展開に関わっていきます。つまりグラールは、職人と画家、技術者と芸術家が同じ炉の前に立たなければ成立しない、共同作業の結晶でした。ガーテとハルドが工場に常駐したからこそ、ガラスを画布とするこの発想が花開いたといえます。

オレフォースの初期グラール作品を確認するエドワード・ハルド
オレフォース所蔵の初期グラール作品を手に取って確認するエドワード・ハルド。ガーテと並んでグラールの展開を担った同い年の盟友(出典:Wikimedia Commons、Public Domain)

従来のガラス装飾の主流は、表面をカット(切り子)したり、外側を削るエングレービング(彫刻)でした。これに対しグラールは、ガラスそのものを絵を保持する素材として捉え直しました。この発想の転換が、のちのオレフォースを技術的にも芸術的にも他の窯から際立たせる原動力となります。1930年代には、ガラスの内部に意図的に気泡を閉じ込めて絵を描く「アリエル(Ariel)」など、グラールの考え方をさらに押し広げた新技法も生まれていきました。

6. ガーテとハルド——対照的な二人の盟友

オレフォースの黄金時代を語るとき、ガーテの名はしばしばもう一人の名とともに挙げられます。エドワード・ハルド(Edward Hald, 1883–1980)です。二人は奇しくも同じ1883年生まれ。ガーテが1916年に、ハルドが翌1917年にオレフォースへ加わり、以降30年近くにわたって、この窯の芸術部門を二人三脚で牽引しました。

同い年で、同じ工場で、同じグラール技法を共有しながら、二人の作風は驚くほど対照的でした。ガーテは、行列やダンスする女性たちといった主題を、新古典主義的で荘重な、緻密な線刻で器面に描きました。優美で格調高く、記念碑的な大作を得意としたのがガーテです。

エドワード・ハルドがデザインした彫刻ガラスの花器「リズム」
エドワード・ハルドがデザインした彫刻ガラスの花器「リズム(Rhythm)」。軽やかで現代的なハルドの線は、ガーテの荘重な古典様式と好対照をなす(出典:Wikimedia Commons、CC BY-SA 2.0、撮影:Tim Evanson)

一方のハルドは、パリでフォーヴィスムの巨匠アンリ・マティスに学んだ画家でした。彼の線は表現主義的で軽快、遊び心にあふれ、ボール遊びをする少女たちや花火といった、市民の日常の情景を主題に選びました。古典のガーテ、モダンのハルド——。性格の異なる二つの感性が同じ工場に同居したことが、オレフォースの表現の幅を一気に広げたのです。

なお、役職の面で最初に芸術監督に就いたのはガーテ(1916年)であり、ハルドが社長兼芸術監督として工場を率いるのは、世界恐慌と戦争に挟まれた1930年代以降のことです。「ハルドが初代」と誤解されることがありますが、先に窯の扉を開いたのはガーテでした。二人の関係や、ハルドがロールストランドの磁器デザインにも関わった歩みについては、エドワード・ハルド完全ガイドでも詳しく紹介しています。

7. 「パリの杯」と1925年パリ万博——スウェディッシュ・グレースの誕生

ガーテの名を国際的なものにした舞台が、1925年にパリで開かれた「現代装飾美術・産業美術国際博覧会(Exposition internationale des arts décoratifs et industriels modernes)」——いわゆる「アール・デコ博」でした。当時のスウェーデンは、まだ芸術やデザインの分野で国際的に大きな存在とは見なされていませんでした。しかし、ガーテとハルドらオレフォース勢が出品した彫刻ガラスは、フランスの批評家たちを驚かせます。

1925年パリ万博のスウェーデン館
1925年パリ国際装飾美術博覧会のスウェーデン館。ここでオレフォースのガラスが国際的な脚光を浴びた(出典:Wikimedia Commons、Public Domain)

この博覧会で、シモン・ガーテ、エドワード・ハルド、そしてオレフォース社は、いずれも最高賞であるグランプリ(Grand Prix)を受けました。スウェーデンは金メダルをはじめ多くの賞を集め、主催国フランスに次ぐ高い評価を得て、北欧デザインが世界の表舞台に躍り出る大きな足がかりとなったのです。

「パリの杯」——ストックホルムからパリへの贈り物

この成功を象徴する一品が、ガーテがデザインした「パリの杯(Parispokalen)」です。1922年、ストックホルム市がパリ市へ贈るためにつくられた、高さ約85cmという堂々たる蓋付きの大杯で、吹き(成形)は名工ベルクヴィストが担いました。器面には両都市の景観や紋章、そして優美な女性像が、緻密な線刻で描かれています。完成までに彫師が費やした時間は数百時間に及んだと伝えられ、オレフォースの高い技術を示す記念碑的な作品となりました。

この大杯は第二次世界大戦中にパリ市庁舎の地下に保管され、その後しばらく忘れられていたものの、1980年代後半に再発見・修復されたとも伝えられます。一国の都市が他国の都市へガラスを贈る——その晴れの品にガーテのデザインが選ばれたこと自体が、当時の彼の評価の高さを物語っています。

スウェディッシュ・グレースとは

1920年代のスウェーデンに花開いたこの優雅なデザイン潮流は、のちに「スウェディッシュ・グレース(Swedish Grace)」と呼ばれるようになりました。新古典主義の気品を残しながら、過剰な装飾を退け、単純な形態に抑制のきいた優美さをまとわせる——大陸のきらびやかなアール・デコとも一線を画す、北欧らしい清新な美学です。この呼び名を与えたのは、イギリスの建築批評家フィリップ・モートン・シャンド(Philip Morton Shand)でした。シャンドがこの語を用いた時期については、1925年パリ万博の論評だったとする説と、1930年のストックホルム博覧会を論じた1930年の評論で広く知られるようになったとする説があり、資料によって幅があります。

陶磁器の分野では、ロールストランドのルイース・アーデルボリ(Louise Adelborg)が、白い浮き彫りの食器シリーズ(のちに「スウェディッシュ・グレース」と呼ばれる)でこの美学を体現しました。ガラスのガーテとハルド、磁器のアーデルボリ——素材は違えど、同じ時代の空気を吸った作り手たちが、北欧モダンの夜明けをかたちづくっていったのです。

8. 代表作をたどる——城のガラスからバッカスの鉢まで

ガーテの仕事は、記念碑的な彫刻ガラスから、量産を前提とした実用的な食器まで、驚くほど幅広いものでした。

城のガラス(Slottsglas)

シモン・ガーテがデザインした紫色の城のガラスの大杯
1923年のヨーテボリ博覧会のためにガーテがデザインした「城のガラス(Slottsglas)」の大杯。深い青紫の色ガラスが用いられている(出典:Wikimedia Commons、CC BY 4.0、Kulturparken Småland/撮影:Jörgen Ludwigsson)

「城のガラス(Slottsglas)」は、ガーテが1920年代に手がけた、色ガラスを用いた一連の器のシリーズです。深い紫や緑をたたえた厚みのあるガラスは、彫刻ガラスとはまた違った、ぽってりとした存在感を放ちます。下の緑のボウルのように、表面に力強い縦の溝(リブ)を刻んだものもあり、色と造形そのものの美しさで見せる作品群です。

シモン・ガーテがデザインした緑色の城のガラスのボウル
ガーテの「城のガラス」シリーズの青緑のボウル。厚みのある吹きガラスの色と造形(出典:Wikimedia Commons、CC BY 4.0、Kulturparken Småland/撮影:Jörgen Ludwigsson)

バッカスの鉢(Bacchusskålen)

ガーテの彫刻ガラスを代表する一作とされるのが「バッカスの鉢(Bacchusskålen)」です。1925年パリ万博のためにデザインされたこの鉢には、酒の神バッカスが、女性や男性、動物たちとともに葡萄酒の樽を載せた車を曳く、にぎやかな行列が線刻されています。生を讃える豊穣な物語性こそ、ガーテの真骨頂でした。一点を彫り上げるのに長い時間を要したと伝えられ、コレクター市場でも高く評価されています。

建築・船を彩ったガラス

ストックホルム・コンサートホールの内側ホワイエの照明
ストックホルム・コンサートホールの内側ホワイエの天井と照明。ガーテはハルドとともに、この建物の照明のガラスを手がけた(出典:Wikimedia Commons、CC BY-SA 4.0、撮影:Holger Ellgaard)

ガーテの仕事は、器の中だけにとどまりませんでした。ストックホルム・コンサートホールの照明器具やシャンデリア、鏡のガラスを、ハルドとともに手がけたほか、1928年に就航した豪華客船M/Sクングスホルム号の装飾も担当しています。器から建築空間まで、ガラスという素材を縦横に扱える、画家出身ならではの構想力がそこにありました。

日用のガラス——サンドヴィークとシャンパングラス「サルー」

サンドヴィーク・ガラス工場の1963年の航空写真
サンドヴィーク・ガラス工場(1963年の航空写真)。オレフォースの日用ガラス部門として、ガーテのデザインした実用的な食器を生産した(出典:Wikimedia Commons、CC0)

記念碑的な大作の一方で、ガーテは多くの人の手に届く日用のガラスにも力を注ぎました。オレフォースの日用ガラス部門であったサンドヴィーク(Sandvik)向けには、装飾を抑えた実用的な食器を数多くデザインしています。1923年に発表されたシャンパングラス「サルー(Salut)」や、「雲(Molnet)」と名づけられたシリーズなど、家庭に普及するガラスにも彼の感性は息づいていました。芸術と量産、その両方に橋を架けることこそ、オレフォースが掲げた理想であり、ガーテはその体現者でした。

9. 画家としての顔、故郷への帰還、そして晩年

ガラス作家として名を成したガーテですが、その出発点が画家であったことは終生変わりませんでした。彼は油彩画を描き続け、装飾画の仕事も手がけています。アカデミーで磨いた絵筆の力が、ガラスの線刻の精緻さを支えていたのです。

晩年のガーテは、生まれ故郷であるセードラ・フォーゲロースに心を寄せ、地元の教会の装飾に携わったと伝えられます。森と湖に囲まれた農村に生まれ、首都の美術アカデミーで学び、スモーランドのガラスの王国で名声を得た一人の作り手が、最後に故郷の風景へと還っていく——その円環は、彼の人生を静かに物語っています。

シモン・ガーテは1945年5月11日、長く働いたオレフォースで、62歳の生涯を閉じました。同い年の盟友ハルドは、その後も35年を生き、戦後スウェーデンのガラス産業を支え続けます。ガーテが先に世を去ったことで、二人が並走したオレフォースの黄金時代は、ひとつの節目を迎えました。生前にはヴァーサ勲章や北極星勲章、芸術への貢献を讃えるLitteris et Artibusのメダルを受けるなど、ガーテはスウェーデンを代表する芸術家として遇された人物でした。

10. 日本とのつながり

シモン・ガーテ個人と日本との直接的な接点は、残念ながら明確な記録に乏しいのが正直なところです。ガーテが活躍した1910年代から1940年代にかけてのオレフォースの国際展開は、1925年パリ万博を起点に、主にアメリカやヨーロッパへ向かっていました。戦前期の日本での展覧会や、日本人コレクターとの関わりを示す確かな資料は、見あたりません。

一方で、所蔵という形での接点はたしかに存在します。オレフォースは、自社の作品を収蔵する世界の主要美術館として、東京国立近代美術館と横浜美術館の名を挙げています。ガーテやハルドを擁したオレフォースのガラスが、日本の公立美術館にも収められてきたことを示すものです。ただし、これはブランド側が公表する情報であり、収蔵作品がガーテ本人の作かどうか、いつ収蔵されたかまでは特定できていません。

では、ガーテの作風と日本の美意識は無縁なのでしょうか。ここは慎重に考える必要があります。「北欧デザインと日本の美意識の親和性(簡素、自然との共生、用の美)」がさかんに語られるのは、主に1950年代以降のスカンジナビアン・モダニズム——機能的で簡潔な日常の道具——に対してです。行列や女性像を荘重に刻んだ1920年代のガーテの装飾的な作風は、それとは時代も性格も異なります。とはいえ、1925年のパリ万博を経て確立された北欧ガラスの「優美で簡潔な線と透明感」は、のちの北欧モダンへと連なり、それが戦後の日本で広く愛されていきました。ガーテはその大きな流れの源流のひとりとして位置づけられます。日本との関係は、直接の影響というより、こうした系譜のなかで静かに結ばれているのです。

11. なぜいまシモン・ガーテなのか

現在のオレフォース村のガラス工房の建物
現在のオレフォース村のガラス工房。ガーテとハルドが黄金時代を築いた工房は、いまも「ガラスの王国」の象徴として知られる(出典:Wikimedia Commons、CC BY-SA 4.0、撮影:Holger Ellgaard)

北欧ヴィンテージ食器を愛する私たちにとって、シモン・ガーテの仕事を知ることに、いまどんな意味があるのでしょうか。それは「私たちが当たり前に親しんでいる北欧のガラスや器は、どこから来たのか」を辿り直すことにほかなりません。

イッタラのモダンなグラス、コスタ・ボダの色ガラス、そしてオレフォースのクリスタル——これらの背後には、まだ「ガラス工場に芸術家が常駐する」という発想そのものが新しかった時代に、森の中の小さな工房へ通い詰めた一人の画家がいました。ガーテとハルドが切り拓いた「芸術と量産を結びつける働き方」は、のちの北欧デザイン全体の土台になっていきます。スティグ・リンドベリも、リサ・ラーソンも、この土壌の上で花を咲かせた世代でした。

ヴェッテルン湖畔の農場に生まれ、ストックホルムの美術アカデミーで絵を学び、スモーランドの森のガラス工房で世界的な名声を得た——。一枚のガラスの向こうに、そんな一人の人生が透けて見えるとき、「ヴィンテージ」という言葉は、少しだけ厚みのあるものに変わるはずです。

まとめ

  • シモン・ガーテ(1883–1945)は、画家として出発し、1916年にオレフォースの芸術監督として迎えられた、北欧ガラスの先駆者です
  • 同い年の盟友エドワード・ハルド(1917年入社)とともに、無名だったオレフォースを世界的な名窯へと押し上げました。ガーテは荘重・古典的、ハルドは軽快・現代的と、作風は対照的でした
  • ガラスの内部に絵を抱え込むグラール技法は、名工クヌート・ベルクヴィストが技術を確立し、アーリンが命名、ガーテとハルドがデザイナーとして展開した共同作業の成果です
  • 1922年の「パリの杯」と、1925年パリ万博でのグランプリが、英国の批評家が名づけた「スウェディッシュ・グレース」という北欧モダンの美学を世界に印象づけました
  • 記念碑的な彫刻ガラスから日用のグラスまでを横断したガーテの仕事は、のちの北欧デザイン全体の土台となりました

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