ヴィッケ・リンドストランドがコスタ・グラスブルークのために手がけた1952年のガラス花器

ヴィッケ・リンドストランド(Vicke Lindstrand)完全ガイド|オレフォース・ウプサラ・エクビー・コスタを横断したスウェーデンガラスの巨匠

ヴィッケ・リンドストランドの肖像写真
ヴィッケ・リンドストランド(Vicke Lindstrand)。スウェーデンガラス芸術の先駆者として知られる存在(Public domain)。

ヴィッケ・リンドストランド(Vicke Lindstrand、1904–1983)は、20世紀のスウェーデンガラスを語るうえで欠かすことのできないデザイナーです。広告画家として出発し、20代前半でオレフォース(Orrefors)のデザイン室に加わり、40代半ばでコスタ・グラスブルーク(Kosta Glasbruk)のアーティスティック・ディレクターに就任しました。半世紀にわたるそのキャリアは、北欧ガラスがアール・デコからモダニズム、そして色彩の解放へと変化していく時代そのものでもありました。

本記事では、ヨーテボリで広告画家として歩み出した青年期から、オレフォースでのアリエル技法の発明、ウプサラ・エクビー時代の陶器、そしてコスタでの「霧の中の樹」「秋」といった代表作、最晩年のオーフス・スタジオに至るまで、ヴィッケ・リンドストランドの全貌を整理します。

当店はスウェーデンとフィンランドのヴィンテージを中心に扱うが、リンドストランドの名前はウプサラ・エクビーやオレフォース、コスタの章で何度も登場してきました。ここでは独立した一本のガイドとして、その人物像と作品群を改めてまとめておきたいと思います。

この記事でわかること

  • ヴィッケ・リンドストランドの生涯と、オレフォース→ウプサラ・エクビー→コスタという3つの拠点
  • アリエル技法、グラール技法など、ガラス史を変えた制作技術への関わり
  • 「霧の中の樹」「秋」「コローラ」など、コスタ時代の代表シリーズ
  • シュトゥットガルト、ノーシェーピング、ウメオに残る巨大ガラスのモニュメント

目次

  1. 基本情報——ヴィッケ・リンドストランドとは
  2. 生い立ち——ヨーテボリの広告画家
  3. オレフォース時代(1928–1943)
  4. ウプサラ・エクビーの陶器(1943–1950)
  5. コスタ・グラスブルーク(1950–1973)
  6. 巨大ガラスのモニュメント
  7. オーフス・スタジオの晩年
  8. 作品の見分け方
  9. グラスリケット——「ガラスの王国」を旅する

基本情報——ヴィッケ・リンドストランドとは

まずは基本データを整理しておきます。生没年、活動拠点、代表シリーズを一覧にしました。

本名 Viktor Emanuel Lindstrand(通称 Vicke Lindstrand)
生年月日 1904年11月27日(スウェーデン・ヨーテボリ)
没年月日 1983年5月7日(スウェーデン・コスタ/享年78)
専門 ガラス/陶器/挿絵/彫刻
主な拠点 オレフォース(1928–1943)/ウプサラ・エクビー(1943–1950)/コスタ・グラスブルーク(1950–1973)/オーフス(1973–1983)
代表作・シリーズ 霧の中の樹(Träd i dimma)/秋(Höst)/コローラ(Colora)/アリエル技法/Prisma/Grön Eld/Legend i Glas
受賞・出展 1930年ストックホルム博覧会/1932・1936年オリンピック芸術競技/1939年ニューヨーク万博

生い立ち——ヨーテボリの広告画家

スウェーデン・ヨーテボリ港の風景
スウェーデン西海岸のヨーテボリ。リンドストランドが生まれ育った商業都市(CC BY-SA 4.0)。

ヴィッケ・リンドストランドは、1904年11月27日、スウェーデン西海岸の港湾都市ヨーテボリに生まれました。本名はヴィクトル・エマヌエル・リンドストランド(Viktor Emanuel Lindstrand)で、家族や友人からは「ヴィッケ」と呼ばれていました。ヨーテボリは17世紀にオランダ人の都市計画家によって建設されたスウェーデン第二の都市で、北海への玄関口として商業と造船で栄えてきました。リンドストランドの少年期は、ちょうど工業化が進み、街に新しい商店や広告が増えていく時代と重なります。

幼少期から絵を描くことを好み、正式な美術アカデミーには進まず、商業画家として職業訓練を受けました。広告ポスターや雑誌の挿絵を描く仕事から出発し、20代前半までに地元の出版業界で名前を知られるようになります。雑誌の表紙、デパートのポスター、書籍の口絵——20世紀初頭のスウェーデンで広告画家として食べていくためには、流行のスタイルを敏感に取り入れ、印刷技術の制約のなかで明確な図像を作る能力が求められました。

この「商業デザインの現場で育った」という経歴は、のちのオレフォースでの仕事にも色濃く反映されています。図像を簡潔にまとめ、装飾とテキストの間に呼吸を作る力——それは広告画家が日々の仕事のなかで磨いていく感覚でした。後年、彼が「霧の中の樹」のような、シルエットだけで構成された作品を生むときも、この若き日の訓練がその根底にあったと読むことができます。

1920年代半ばまでに、リンドストランドはヨーテボリで広告画家としての足場を築いました。だがその才能は、まもなくもっと大きな場で発揮されることになります。スモーランドの森のなかの小さな村、オレフォースから声がかかったのです。

オレフォース時代(1928–1943)

1917年頃のオレフォースガラス工場
1917年頃のオレフォースガラス工場。スモーランドの森のなかに建てられたスウェーデンガラスの聖地(Public domain)。

1928年、リンドストランドはスモーランド地方の小村オレフォースにあるオレフォース・ガラス工場(Orrefors Glasbruk)に加わりました。当時のオレフォースはシモン・ガーテ(Simon Gate、1883–1945)とエドワード・ハルド(Edward Hald、1883–1980)という二人の巨匠を擁し、すでに国際的な名声を確立していました。1925年のパリ万国博覧会では「スウェディッシュ・グレース」と呼ばれた優雅なスタイルで世界の喝采を浴び、北欧ガラスは黄金期を迎えていたのです。23歳のリンドストランドは、この大家たちの下で本格的にガラスデザインの道に足を踏み入れることになります。

当時のオレフォースは、デザイン担当の画家と熟練職人が密接に協働する独特の体制を採っていました。デザイナーはアトリエでスケッチを描き、それを職人たちが窯の前で実体化させます。ガーテとハルドはこの体制のもとで、それぞれ得意な作風を展開していました。新参のリンドストランドは、二人とは異なる視点——商業画家として培ったグラフィックで物語性のあるモティーフ——を持ち込むことになります。

1930年ストックホルム博覧会のデビュー

1930年ストックホルム博覧会の会場
1930年ストックホルム博覧会の会場。北欧モダニズムが公に示された場で、リンドストランドが国際的にデビューした場所(CC0)。

リンドストランドの名前を一躍知らしめたのが、1930年のストックホルム博覧会(Stockholmsutställningen 1930)です。この博覧会は、機能主義(Funktionalism)と呼ばれる北欧モダニズムが世に問われた歴史的な展示であり、グンナル・アスプルンド(Gunnar Asplund)が会場設計を担当しました。

ここでリンドストランドは、エナメル装飾を施した12点のガラスの花器を発表しました。エキゾチックな動物や植物をモティーフにした図像は、それまでのオレフォースの重厚な彫刻ガラスとは一線を画すもので、国際的なデザイン雑誌に大きく取り上げられました。若いデザイナーが、北欧ガラスの新しい方向性を示した瞬間でした。

1932年のロサンゼルス・オリンピックと、1936年のベルリン・オリンピックでは、当時メダル種目に含まれていた芸術競技にリンドストランドも出展しています。「彫刻」「建築」「絵画」「文学」「音楽」と並んで、芸術競技は1912年から1948年まで五輪の正式種目でした。スウェーデンガラスを代表するデザイナーとして、国際舞台で評価される地位を彼はこの時期に固めていきます。

物語の彫刻——「真珠採り」「ペーガス」

リンドストランドはオレフォース時代を通じて、刻印彫刻(engraved glass)の名作を数多く残しました。代表作のひとつ「真珠採り(Pärlfiskaren)」は、海に潜って真珠を採る男の姿を、透明なクリスタルの曲面に細密な線で描いた花器です。空気の泡と魚たちが男のまわりに散り、ガラスの厚みのなかで前後の遠近感が表現されます。これは、彫刻という二次元の手法でありながら、ガラスの立体性を最大限に活かす独特の手法でした。

「ペーガス(Pegasus)」「魚と泳ぐ少女」など、神話と動物が交錯するモティーフも繰り返し登場します。リンドストランドの彫刻ガラスは、北欧アール・デコの代表作として、今日も美術館コレクションや国際オークションで安定した評価を得ています。

グラール技法とアリエル技法

エドワード・ハルドが最初のグラール・ガラスを点検する古写真
オレフォースのエドワード・ハルドが、自社所蔵の最初のグラール・ガラスを点検する場面。リンドストランドはこの技法の革新を引き継いだ世代(Public domain)。

オレフォースにはすでに、色ガラスを透明な層でくるむ「グラール(Graal)技法」が存在していました。1916年にハルドとマスターガラス職人のクヌート・ベリィクヴィスト(Knut Bergqvist)が確立した、ガラス内部に絵柄を閉じ込めるための独創的な技法です。リンドストランドはこのグラール技法を駆使した作品を多数手がけました。

そして1937年頃、リンドストランドはエドヴィン・エーストレム(Edvin Öhrström)、クヌート・ベリィクヴィスト(Knut Bergqvist)とともに、新しい技法の開発に関わりました。それがアリエル(Ariel)技法です。ガラスのコア(中心の色ガラス)にサンドブラストで凹みを彫り、別の透明ガラスでくるむことで、内部に気泡の幾何学模様を閉じ込める手法。シェイクスピアの『テンペスト』に登場する空気の精「エアリエル」に由来する名前で、第二次大戦をはさんでオレフォースの代表的な技法となっていきます。

オレフォース・ガラス工場のデザイン室内部
オレフォースのデザイン室(リトコントーレ)。リンドストランドが15年間、紙の上から窯の前へとデザインを送り出した場(Public domain)。

オレフォース時代のリンドストランドは、刻印彫刻(engraved glass)にも力を入れました。「真珠採り(Pärlfiskaren)」「魚と泳ぐ少女」など、人物と動物が織りなす物語性のあるモティーフが特徴で、北欧アール・デコの代表作として今日も高く評価されています。1932年と1936年のオリンピック芸術競技(当時、芸術もメダル種目だった)にも出展しました。

しかし1943年、第二次大戦下の経済情勢のなかで、オレフォースはリンドストランドを雇い続ける余力を失います。彼は15年間在籍した工場を離れることになりました。

ウプサラ・エクビーの陶器(1943–1950)

ウプサラ・エクビーの工房建物
ウプサラ・エクビー(Upsala-Ekeby)の工房。リンドストランドが7年間、ガラスから陶器へと素材を切り替えた地(CC0)。

オレフォースを去ったリンドストランドが向かった先は、スウェーデン中部の街ウプサラ郊外、エクビー(Ekeby)にあった陶磁器メーカー、ウプサラ・エクビー(Upsala-Ekeby AB)でした。1886年にレンガ工場として創業したこの会社は、1920年代から実用陶器の生産を本格化させ、戦間期にはスウェーデン最大級の陶磁器グループへと成長していました。

1943年、ウプサラ・エクビーはリンドストランドをアーティスティック・リーダーとして迎えました。ガラスの巨匠が、突然に陶土と釉薬の世界へと足を踏み入れたのです。しかしリンドストランドは挿絵画家としての出自を活かし、ストーンウェアの世界でも独自の表現を切り拓いていきます。

動物彫刻と「象」のシリーズ

ウプサラ・エクビー時代の代表作は、なんといっても動物彫刻のシリーズです。象(エレファント)の置物はさまざまなサイズと色で生産され、瞬く間に人気を集めました。マンドリル(モデル番号3003)、チーター、シマウマ、エスキモーといったモティーフも次々と造形されました。Bukowskisなどの北欧オークション市場では、これらのウプサラ・エクビー期の動物彫刻が今もコレクターの関心を集めています。

当時のウプサラ・エクビーには、アンナ=リーサ・トムソン(Anna-Lisa Thomson、1905–1952)、イングリッド・アッテルベリ(Ingrid Atterberg、1920–2008)、マリ・シムルソン(Mari Simmulson、1911–2000)らが在籍しており、リンドストランドは彼らとともに、この会社を北欧モダニズムの実験場へと変えていきます。リンドストランドが導入したグラフィックな図像の感覚と、トムソンやアッテルベリの抽象的な彫り文様、そしてシムルソンの民俗的なモティーフが交差した1940年代のウプサラ・エクビーは、スウェーデン陶芸史のなかでも特筆すべき時代です。

グラフィックな彫り花器

動物彫刻と並行して、リンドストランドは多数の花器を手がけました。1944年のモデル336、1947–48年のマンドリル彫刻(モデル3003)、円筒形のシンプルな花器に大胆な線刻を施した一連の作品など、彼の関心は装飾ではなく「形と線の関係」にありました。広告画家として培ったグラフィックな構成力が、釉薬と素地の表現と出会った時期でもあります。

釉薬の選択も特徴的で、つや消しの黒釉、深い緑釉、温かみのあるベージュ釉など、戦時下から戦後にかけてのスウェーデンの落ち着いた美意識を反映した色調が選ばれました。彫りと釉薬、素地の組み合わせを実験するこの時期の経験は、後のコスタ時代に、彼の「光と色」の感覚として結実していくことになります。

コスタ・グラスブルーク(1950–1973)

現在のコスタ・グラス工場
スモーランド地方コスタ村にある、現在のコスタ・グラス工場。リンドストランドが23年間アーティスティック・ディレクターを務めた拠点(CC BY-SA 4.0、撮影 Holger.Ellgaard)。

1950年、リンドストランドはスモーランド地方の小村コスタにあるコスタ・グラスブルーク(Kosta Glasbruk)にアーティスティック・ディレクターとして迎えられます。1742年創業のコスタは、スウェーデン最古のガラス工場の一つで、19世紀には王室御用達の地位を獲得していました。しかし戦後、デザイン面での停滞が指摘されていたコスタにとって、リンドストランドの就任は転機となります。

コスタ工場でのガラス吹き作業
コスタ工場での吹きガラス作業。リンドストランドがここで職人たちと組み、新しい色ガラスの世界を切り拓いた場面(CC BY-SA 3.0、撮影 Mogens Engelund)。

色彩への転向——「霧の中の樹」と「秋」

オレフォース時代のリンドストランドは、無色透明のクリスタルに彫刻を施す作品が中心でした。しかしコスタに移ってからの彼は、色ガラスへの大胆な転向を見せます。1950年代後半から1960年代にかけて、彼は青、緑、黄、琥珀といった色を、層構造のなかに閉じ込めた作品を次々と発表しました。

その代表作が「霧の中の樹(Träd i dimma)」です。透明なガラスの内部に、影絵のように細い樹々のシルエットが浮かび上がる花器のシリーズで、スモーランドの森に立ちこめる朝霧を思わせる作品として高い評価を受けました。

同じく代表作の「秋(Höst)」は、琥珀色と褐色のガラスを重ね合わせ、北欧の短い秋の光を閉じ込めたシリーズです。コスタ時代のリンドストランドは、こうして「自然の風景をガラスに翻訳する」という独自の表現を確立していきました。

ヴィッケ・リンドストランドがコスタのために手がけた1952年のガラス花器
コスタ・グラスブルークのためにリンドストランドが手がけた1952年の花器。色ガラスへの転向期を代表する一点(CC BY 3.0、撮影 Sailko)。

コスタの代表シリーズ

コスタ時代23年間のあいだに、リンドストランドが生み出したシリーズは数えきれないほど多くあります。なかでもよく知られるのが以下です。

  • 霧の中の樹(Träd i dimma)——透明ガラスに細い樹のシルエットを閉じ込めた、もっとも有名なシリーズ
  • 秋(Höst)——琥珀と褐色の色層を重ねた花器群
  • コローラ(Colora)——内側に鮮やかなコバルトブルーやラピスブルーの色ガラスを抱いた、モダニスト的な花器
  • ソメルソ(Sommerso)——イタリア・ヴェネツィアの技法に着想を得た、透明と色のレイヤーを楽しむシリーズ
  • 「魚」シリーズ——刻印彫刻によって、ガラスのなかを泳ぐ魚を描いた花器群

これらのシリーズに共通するのは、リンドストランドが商業画家として培ったグラフィックな線の感覚と、コスタの職人たちが受け継いできた吹きガラスの伝統が交差していることです。デザイン画と職人の手が出会う場所——それがコスタ・グラスブルークでした。

「ガラスの王様」と呼ばれた23年

コスタ時代のリンドストランドは、社内では文字どおり「王様」のような存在でした。アーティスティック・ディレクターとして全体のデザイン方針を決定するだけでなく、自らも年間数百点のデザイン画を描きました。彼が在籍した23年のあいだに、コスタは戦後のマンネリ化を脱し、スカンジナビアン・モダンの代表的メーカーの一つへと変貌を遂げます。1965年にはコスタが近隣のボーダ(Boda)ガラス工場と合併し、現在の「コスタ・ボダ(Kosta Boda)」の原型が生まれました。リンドストランドはこの統合期も中心的役割を担い、ブランドの方向性を導きました。

彼のもとで育った後進のデザイナーも多くいます。1960年代半ばからは、モナ・モーラレス=シルトベリ(Mona Morales-Schildt)、エリック・ヘグルンド(Erik Höglund)、ベルティル・ヴァリーン(Bertil Vallien)、ウルリカ・ヒッドマン=ヴァリーン(Ulrica Hydman-Vallien)といった次世代のデザイナーがコスタ・ボダに加わり、リンドストランドが切り拓いた「色彩のガラス」の路線をさらに発展させていきました。

巨大ガラスのモニュメント

リンドストランドの仕事は、家庭で楽しむ花器やグラスにとどまりません。彼はパブリック・アートとしての巨大ガラス彫刻を戦後ヨーロッパに次々と残していきました。

ノーシェーピング市庁舎前のガラス彫刻「プリスマ」
スウェーデン・ノーシェーピング市にある「プリスマ(Prisma)」。1967年完成、高さ11.5mのガラス彫刻(Public domain)。

1939年のニューヨーク万博では、スウェーデン館のために巨大なガラスの噴水「Monumental Fountain」を制作しました。これがモニュメンタル・ガラス彫刻の出発点です。戦後、彼の手がけた代表的な公共彫刻は以下のとおりです。

  • Ikaros Nadel(イカロスの針、シュトゥットガルト、1964年)——高さ約9m
  • Prisma(プリスマ、ノーシェーピング、1967年)——高さ約11.5m
  • Grön Eld(緑の炎、ウメオ、1970年)——高さ約9m。当時、世界最大のガラス彫刻と言われた
  • Legend i Glas(ガラスに描かれた伝説、ヴェクシェー、1978年)——高さ約5.5m
ウメオの「グレーン・エルド(緑の炎)」
スウェーデン北部の街ウメオに立つ「Grön Eld(緑の炎)」。1970年の完成当時、世界最大級のガラス彫刻として知られた一点(CC BY-SA 3.0、撮影 MikaelLindmark)。
ヴェクシェーの「Legend i Glas」
スモーランド地方の中心都市ヴェクシェーに残る「Legend i Glas」。リンドストランドが74歳のときの作品(Public domain)。

これらのモニュメントは、北欧ガラスが「装飾工芸品」の枠を越えて、都市の公共空間に新しい光をもたらす存在になりうることを示しました。リンドストランドが商業画家として歩み始めた青年期、誰もこの結末を予想しなかったに違いありません。

スウェディッシュ・モダンの中での位置

ヴィッケ・リンドストランドは、しばしば「商業性と芸術性の両方を備えた稀有な存在」と評されます。同時代のオレフォースには、ガーテとハルドという伝統派の重鎮、そして戦後にはイングボリ・ルンディン(Ingeborg Lundin、1921–1992)の「リンゴ(Äpplet)」のようなモダニズムの代表作を生む後輩がいました。コスタには、戦前から伝統的なクリスタル装飾の職人たちが揃っていました。リンドストランドはその両者のあいだに立って、装飾と機能、伝統と新しさを横断する役割を果たしました。

1950年代から60年代のスウェーデンは、いわゆる「スウェディッシュ・モダン」の黄金期にあたります。家具のブルーノ・マットソン(Bruno Mathsson)、テキスタイルのアストリッド・サンプ(Astrid Sampe)、陶器のヴィルヘルム・コーゲ(Wilhelm Kåge)やスティグ・リンドベリ(Stig Lindberg)など、各分野の巨匠たちが活発に交流していた時代です。

ヴィッケ・リンドストランドとブルーノ・マットソンが並ぶ1954年の写真
1954年、ヴィッケ・リンドストランド(左)と家具デザイナーのブルーノ・マットソン(右)。スウェディッシュ・モダンを支えた巨匠たちの交友を伝える一枚(Public domain)。

マットソンが「人体の自然な姿勢」から座面を導き出したように、リンドストランドはスモーランドの自然と職人の手から色ガラスの表現を導きました。1954年に撮影されたこの2人のスナップ写真は、両者の友情だけでなく、スウェディッシュ・モダンが「個」と「個」の信頼関係のうえに成り立っていたことを物語っています。

オーフス・スタジオの晩年

スウェーデン南部のオーフスの空撮
スウェーデン南部、バルト海に面した街オーフス(Åhus)。引退後のリンドストランドが小さなスタジオを構えた地(CC0)。

1973年、69歳のリンドストランドはコスタ・グラスブルークを退きました。しかしそれは引退ではなく、新しい段階の始まりでした。彼はスウェーデン南部、バルト海に面した街オーフス(Åhus)に拠点を移し、若いガラス作家ハンネ・ドロイトラー(Hanne Dreutler)とアーサー・ジルンザック(Arthur Zirrnsack)とともに、独立工房「Studio Glashyttan」を運営しました。

商業的な量産から離れ、より自由にガラスと向き合う日々のなかで、リンドストランドは1978年のヴェクシェーの「Legend i Glas」をはじめとする晩年の代表作を生み出しました。1983年5月7日、長く愛した小村コスタで亡くなりました。享年78。

リンドストランドの遺品の多くは、スモーランドの中心都市ヴェクシェーにあるスモーランド博物館(Smålands museum、別名 Sveriges glasmuseum=スウェーデン・ガラス博物館)に収められています。ここはスウェーデンガラスの国立的なコレクション拠点であり、リンドストランドの作品を体系的に見ることができる場所として、世界中のガラスファンが訪れる聖地となっています。

作品の見分け方

ヴィッケ・リンドストランドの作品をオークションや市場で見分けるための、基本的なポイントを整理します。

サインと刻印

オレフォース時代の作品は、底面に Orrefors のロゴと、デザイナー名のイニシャル L、そして作品番号が刻まれています。彫刻ガラスはモデル番号と通し番号が付くことが多くあります。

コスタ時代の作品には、Kosta LHKosta Lindstrand といった刻印が施されます。「LH」は「Lindstrand」の略号で、コスタ独自の番号体系(例:LH 1234LU 1234 のような形式)が併記されることもあります。

ウプサラ・エクビーの陶器には、底面に Ekeby SwedenUpsala Ekeby のスタンプが施され、モデル番号と並んでリンドストランドの手によるグラフィックな彫り文様が見られます。

時代と素材の見分け方

  • オレフォース期(1928–1943)——透明クリスタルが主体。彫刻ガラスとグラール/アリエル技法の作品が中心
  • ウプサラ・エクビー期(1943–1950)——ストーンウェアの動物彫刻と花器。釉薬の表現が豊か
  • コスタ期(1950–1973)——色ガラスの多層構造が中心。「霧の中の樹」「秋」「コローラ」など色彩のシリーズ
  • オーフス期(1973–1983)——スタジオ・グラスの一点物。量産品ではなく作家性の強い作品

真贋を見分ける3つのポイント

リンドストランドの名前で売買される作品は数多いが、なかには取り違えや誤帰属も含まれます。基本的な確認ポイントを3つ挙げます。

  1. 底面の刻印——刻印は針の先で手書きされるため、わずかな書体の違いがある。同一の刻印が機械的に複製されているように見えるものは要注意です。
  2. 気泡と色ガラスの精度——コスタ時代の色層は、層と層の境界が極めて精密に揃っている。後年の模倣品では、色ガラスが流れ込んだような曖昧な境界線になることが多い。
  3. モデル番号と資料の照合——スモーランド博物館やオークションハウスの過去落札データには、モデル番号と作品の写真が記録されている。番号から逆引きして、実物と照合できる。

グラスリケット——「ガラスの王国」を旅する

スモーランド地方の道路標識「グラスリケット」
スモーランド地方の道路標識。「Glasriket(ガラスの王国)」と書かれた看板が、オレフォース、コスタ、ボダなどガラス工場群への入口を示す風景(CC BY-SA 3.0)。

リンドストランドの活動拠点となったオレフォースとコスタは、いずれもスウェーデン南部スモーランド(Småland)地方の小村です。スモーランドは、19世紀から20世紀にかけて多くのガラス工場が集積したことから、「グラスリケット(Glasriket)=ガラスの王国」と呼ばれてきました。

南スモーランドのブナの森
南スモーランドのブナの森。リンドストランドが「霧の中の樹」で描いた風景の原型となる場所(CC BY-SA 4.0、撮影 Pudelek)。

森に囲まれた静かな村々に、何世代にもわたって炉の火が絶えなかった——これがスモーランドの土地が育てた文化です。オレフォースもコスタも、人口数百人の集落でありながら、世界のガラス史に名を残す名作を生み出し続けてきました。リンドストランドが「霧の中の樹」で表現した、樹々のあいだに立ちこめる朝霧の光景は、まさにこの地の風景そのものでもあります。

スモーランド地方は、岩盤の薄い氷河地形の土地で、農耕には向かない代わりに、製鉄や林業、ガラス製造といった工業が古くから発達しました。広大な森林資源は窯の火を絶やさず、湖沼の水は冷却に用いられます。19世紀には15を超えるガラス工場がこの地に集積し、北欧最大のガラス産業地帯を形成しました。現在ではその多くが閉鎖されていますが、コスタ・ボダ、オレフォース、ストルパン(Skruf)など主要な工場は今も操業を続けており、訪問者にガラス吹きの実演を見せています。

現在のオレフォース・ガラス工場の建物
スモーランド地方オレフォース村のガラス工場。リンドストランドが15年間在籍した拠点(CC BY-SA 4.0、撮影 Bernt Fransson)。

グラスリケットを訪れると、コスタからオレフォースまでは車で約30分の距離にあり、両者のあいだに広がる森と湖の景色が、北欧ガラスの色彩感覚そのものを形作ってきたことを実感できます。リンドストランドは1928年から1983年に没するまで、人生のほぼすべての時間をこの地方で過ごしました。「グラスリケットの人」と呼ぶにふさわしい生涯でした。

現在のコスタ村の風景
コスタ村のガラス工場の建物。スモーランドの森のなかに、今も炉の煙が立ちのぼる風景(CC BY-SA 3.0、撮影 Bernt Fransson)。

年表で見るリンドストランドの55年

ガラスと陶器を行き来したリンドストランドのキャリアを、年表で整理します。

出来事
1904 ヨーテボリで生まれる(11月27日)
1920年代 ヨーテボリで広告画家として活動
1928 オレフォース・ガラス工場に入社(23歳)
1930 ストックホルム博覧会で12点の花器を発表、国際的に注目される
1932 ロサンゼルス・オリンピック芸術競技に出展
1936 ベルリン・オリンピック芸術競技に出展
1937年頃 エドヴィン・エーストレム、クヌート・ベリィクヴィストとアリエル技法を開発
1939 ニューヨーク万博でスウェーデン館の「Monumental Fountain」を制作
1943 戦時下の経済情勢でオレフォースを離れ、ウプサラ・エクビーへ移籍(39歳)
1950 コスタ・グラスブルークのアーティスティック・ディレクターに就任(46歳)
1950年代後半 「霧の中の樹」「秋」「コローラ」など色ガラスの代表作を発表
1964 シュトゥットガルトに「Ikaros Nadel」(高さ約9m)を設置
1965 コスタとボダが合併、現在のコスタ・ボダの原型が成立
1967 ノーシェーピングに「Prisma」(高さ約11.5m)を設置
1970 ウメオに「Grön Eld」(高さ約9m)を設置——当時、世界最大級のガラス彫刻
1973 コスタを引退、オーフスに「Studio Glashyttan」を構える(69歳)
1978 ヴェクシェーに「Legend i Glas」(高さ約5.5m)を設置
1983 5月7日、コスタで没(享年78)

よくある質問

Q. リンドストランドの作品でもっとも入手しやすいのは?

A. コスタ時代(1950–1973)の花器が比較的流通量が多く、入手の敷居も低い傾向にあります。色ガラスの小ぶりな花器であれば、北欧オークション市場で数万円から見つかる場合もあります。ただし大ぶりの作品や、「霧の中の樹」「秋」の代表的なデザインは、状態によって価格が大きく上がります。

Q. オレフォース期のアリエル技法の作品は今も購入できる?

A. アリエル技法の作品は、製造工程が複雑なため当時から少量しか作られておらず、現存数も限られています。リンドストランドが関わった1930年代後半のアリエル作品は、Bukowskis、Stockholms Auktionsverk、Lauritzなど北欧の主要オークションで時折出品されます。状態の良いものは数十万円から数百万円の値が付くこともあります。

Q. ウプサラ・エクビーの陶器とコスタのガラスは、どちらが評価が高い?

A. どちらも独立した評価を受けています。陶器コレクターのあいだでは、1940年代のウプサラ・エクビー期の動物彫刻が高い人気を保っており、ガラスコレクターのあいだではコスタ期の色ガラス作品が代表作として扱われます。リンドストランドのキャリア全体を理解したいのであれば、両方を見比べることが望ましいといえます。

Q. スモーランド博物館以外で作品を見られる場所は?

A. ストックホルムの国立美術館(Nationalmuseum)、ヨーテボリの王立美術館(Röhsska museet)、ヴェクシェーのスモーランド博物館などにコレクションがあります。また、ニューヨークのメトロポリタン美術館、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館にもオレフォース期の彫刻ガラスが所蔵されています。

まとめ——ヴィッケ・リンドストランドが残したもの

ヨーテボリの広告画家として出発し、オレフォースでアリエル技法の革新に関わり、ウプサラ・エクビーで陶器に挑み、コスタで色彩のガラスを確立し、最晩年は南部オーフスのスタジオで自由に制作した——ヴィッケ・リンドストランドの55年のキャリアは、それ自体が20世紀北欧ガラスの縮図です。装飾性と機能性、量産と一点物、商業と芸術。その二項対立のあいだを、彼は半世紀にわたって行き来し続けました。スモーランドの森に立ちこめる朝霧と、コバルトブルーの花器の内側に閉じ込められた光——その2つは、リンドストランドのなかで地続きでした。

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