エドワード・ハルド完全ガイド|マティスの弟子からスウェディッシュ・グレースの父へ——オレフォースとロールストランドを横断した北欧モダニズムの先駆者
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エドワード・ハルド(Edward Hald)完全ガイド|マティスの弟子からスウェディッシュ・グレースの父へ——オレフォースとロールストランドを横断した北欧モダニズムの先駆者
北欧ヴィンテージ食器の世界で「スウェディッシュ・グレース(Swedish Grace)」という言葉が語られるとき、必ず名前が挙がる人物がいます。エドワード・ハルド(Edward Hald、1883–1980)——スウェーデンの画家であり、パリでアンリ・マティスに学び、オレフォース(Orrefors)でガラスの世界を変え、ロールストランド(Rörstrand)では磁器に新しい時代の風を吹き込んだ、20世紀北欧デザインの最重要人物の一人です。
彼の名は、磁器の絵柄に親しんできた読者には少し遠い存在に感じられるかもしれません。実際、ハルドが最も知られているのは、オレフォースの「グラール(Graal)」というガラス技法の共同開発者としての姿です。一方で、1920年代から1930年代にかけては、ロールストランド(Rörstrand)やカールスクローナ磁器工場(Karlskrona)の磁器デザインにも深く関わり、同じ時期にロールストランドで「スウェディッシュ・グレース」を生み出したルイース・アーデルボリ(Louise Adelborg)らと近い場所で仕事をしていました。
本記事では、ハルドの生涯と仕事を、生まれ育ったストックホルムから、マティスの画塾、そしてスモーランド(Småland)の森に囲まれた小さな村オレフォースまで、時間と土地をたどりながら紹介します。途中には、ハルドが見た風景や、彼を取り巻いた人々の写真も挟んでいきます。記事を読み終えるころには、北欧モダニズムの「最初の一歩」がどのように踏み出されたのかが、少し身近に感じられるはずです。
この記事でわかること
- エドワード・ハルドの生涯と、商業学校から建築、画家、デザイナーへと続いた進路
- パリでのアンリ・マティスとの出会いと、北欧モダニズムへの影響
- オレフォースとロールストランドという二つの名窯を横断した稀有なキャリア
- 「グラール技法」「花火鉢」「スウェディッシュ・グレース」が世界に与えた衝撃
目次
- エドワード・ハルドとは——一行プロフィール
- 基本情報
- 商人を志しドレスデンで建築を学び、ついに絵筆をとる
- パリのマティス画塾——色彩と「日常の美」を学ぶ
- 1917年、運命の年——リリヤヴァルクス展、ロールストランド、オレフォース
- グラール技法の誕生——ガラスを「画布」に変えた発明
- 「花火鉢」と1925年パリ万博——スウェディッシュ・グレース誕生
- ロールストランド時代——磁器に持ち込んだモダニズム
- オレフォース芸術監督時代(1933–1944)と戦時下の窯
- 晩年と遺したもの——なぜいまエドワード・ハルドなのか
1. エドワード・ハルドとは——一行プロフィール
エドワード・ハルドを一行でまとめるなら、「画家として出発し、ガラスと磁器の両方で20世紀北欧デザインの基礎をつくった人」と言えます。1883年にストックホルムで生まれ、1980年に同地で96歳の生涯を閉じました。同時代を生きたスティグ・リンドベリ(Stig Lindberg、1916–1982)よりも一世代上で、リンドベリやリサ・ラーソン(Lisa Larson)が活躍する以前の北欧デザインの「土壌」をつくった世代に属します。
2. 基本情報
| 本名 | ニルス・ツーヴェ・エドワード・ハルド(Nils Tove Edward Hald) |
|---|---|
| 生没年 | 1883年9月17日 — 1980年7月4日(享年96) |
| 出身地 | スウェーデン、ストックホルム |
| 学歴 | ライプツィヒ商業学校 → ドレスデン工科大学(建築)→ コペンハーゲン/ストックホルム/パリで絵画を学ぶ/アンリ・マティス画塾 |
| 主な所属 | オレフォース(Orrefors、1917年〜、芸術監督1933–1944)/ロールストランド(Rörstrand、1920年代〜1930年代に磁器デザインに従事)/カールスクローナ磁器(Karlskrona) |
| 代表作 | 花火鉢「Fyrverkeriskålen」(1921年デザイン)/グラール技法のガラス器/天球「Himmelsglob」(1930年)など |
| 国際的栄誉 | 1925年パリ万国博覧会で世界的成功/1932年・1936年オリンピック芸術競技参加 |
3. 商人を志しドレスデンで建築を学び、ついに絵筆をとる
ハルドは1883年、ストックホルムに生まれました。父はノルウェー出身、母はスウェーデン人という家庭で、当初は技師や商人としての堅実な道を期待されていました。本人もその期待に応えるべく、まずはドイツのライプツィヒ商業学校で商学を学びました。さらにドレスデン工科大学で建築を修めるという、いかにも世紀末ヨーロッパの実用的な教養青年らしい歩みです。
転機が訪れたのは1907年前後、24歳のころでした。ハルドは「商人にも建築家にもならず、画家になる」と決意し、人生の方向を大きく変えました。スウェーデン国内の美術学校に学んだのち、コペンハーゲン、そしてパリへと拠点を移し、ヨーロッパ各地の芸術空気を直接吸い込みながら、自分の表現を探していきました。
同時代の北欧デザイナーとの位置関係
ハルドが画家を志した1907年は、リサ・ラーソン(1931年生まれ)はまだ生まれてもおらず、スティグ・リンドベリも生まれて間もないころにあたります。グスタフスベリの巨匠ヴィルヘルム・コーゲ(Wilhelm Kåge、1889–1960)よりわずかに年長で、グンナー・ニールンド(Gunnar Nylund、1904–1997)よりも一世代上の存在です。ハルドの仕事は、のちの世代がモダニズムを当然のように使いこなす土台になっていきました。
4. パリのマティス画塾——色彩と「日常の美」を学ぶ
1908年から1909年にかけて、ハルドはパリで「アカデミー・マティス(Académie Matisse)」に通いました。マティスがその数年前にパリ郊外で開いた私塾で、北欧諸国——とりわけスウェーデン、ノルウェー、デンマーク——からやって来た若い画家たちが多く集まる場所でした。フォーヴィスムの旗手であったマティスは、強い色彩と単純な線、そして「日常のもの」を堂々と画題に据える姿勢を、若い弟子たちに伝えていました。
ハルドは1909年にスウェーデンへ戻りました。その後の彼の仕事のなかには、マティスから受け取った「明るく、清潔で、ユーモアのある」感覚がしばしば顔を出します。後年、彼自身がガラスや磁器に描いた花火、サーカス、海水浴、フットボールといった主題は、いずれも当時の市民の余暇を取り上げたもので、神話や寓意ではなく「日常を芸術に取り戻す」というマティスの精神に近いものです。
5. 1917年、運命の年——リリヤヴァルクス展、ロールストランド、オレフォース
ハルドにとって1917年は、人生のなかでも特別な意味を持つ一年となりました。この年、彼はストックホルムのリリヤヴァルクス美術館(Liljevalchs)で開かれた「家庭展(Hemutställningen)」に出品します。スウェーデン手工芸協会(Svenska Slöjdföreningen)が主催したこの展覧会は、「美しいモノで満たされた、現代の市民の家」を提案するもので、デザイナーとメーカーが手を組み、シンプルで購入可能な暮らしの道具を見せ合う場でした。
同じ1917年、ハルドはロールストランドおよびカールスクローナ磁器工場のために、機械生産に適した新しいテーブルウェア「タービン・サービス(Turbin-servisen)」をデザインしています。古典的な装飾を排し、形そのものの簡潔さで魅力を出すこの仕事は、当時の磁器業界ではまだ珍しい考え方でした。リリヤヴァルクスの展示は、彼の名を一躍北欧デザイン界に知らしめることになります。
そして同じ年、スモーランド地方の小さな村オレフォースのガラス工場が、彼を新たなデザイナーとして迎えました。前年の1916年にはすでにサイモン・ゲイト(Simon Gate、1883–1945)が芸術監督として入社しており、二人は同い年の盟友として、以降30年近くにわたってオレフォースの芸術部門を牽引していくことになります。
スモーランドの森とガラス工場
スモーランドはスウェーデン南部の地方で、薄い土壌のため農業には向かず、針葉樹の森から取れる薪と地下の珪砂を活かしたガラス産業が古くから栄えた土地です。「グラスリケット(Glasriket=ガラスの王国)」とも呼ばれるこの地域に、オレフォース、コスタ、ストロンベリスヒッタンなど、現在も世界に知られる窯が集まっています。
6. グラール技法の誕生——ガラスを「画布」に変えた発明
1916年から1917年にかけて、オレフォースのガラス職人クヌート・ベルクヴィスト(Knut Bergqvist)、サイモン・ゲイト、そしてエドワード・ハルドの三人は、ある新しいガラス装飾法に取り組んでいました。色付きガラスを薄い層として被せ、そこに絵柄を彫刻したうえで、再加熱しながら透明なガラスで覆い包む——いわゆる「グラール(Graal)」技法です。
名前は、騎士物語に登場する「聖杯(Graal/Grail)」に由来します。ガラスの内部に絵が浮かび上がる神秘性が、聖杯の伝説と重ねられたものと言われています。ガラスを彫って終わりではなく、もう一度ガラスで包む——この「内側に絵を抱え込む」という発想が、グラール技法の核心です。
従来、ガラス装飾の主流は「カット(切り子)」や「エングレービング(彫刻)」など、外側を削るものでした。グラールはガラス自体を画布として使い、内部に絵を保持します。職人と画家、技術者と芸術家が同じ釜の前に立たなければ成立しない発明で、ハルドとゲイトが工場に常駐したことそのものが、この技法を可能にしたと言えます。
7. 「花火鉢」と1925年パリ万博——スウェディッシュ・グレース誕生
1921年、ハルドはのちに彼の代表作となる「花火鉢(Fyrverkeriskålen)」モデル248をデザインしました。透明なクリスタルガラスの鉢の表面に、夜空に上がる花火と、それを見上げる人びとが集まる公園の情景が、繊細なエングレービング(彫刻)で描かれています。優雅で、軽やかで、しかしどこか親しみのある光景——マティスから受け継いだ「日常を堂々と画題にする」姿勢が、ガラスのうえで結晶した一作です。
このガラス鉢は1925年、パリで開かれた「現代装飾美術・産業美術国際博覧会(Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes)」——いわゆる「アール・デコ博」——のスウェーデン館で発表されました。当時のスウェーデンは決して芸術大国とは見なされていませんでしたが、ハルドとサイモン・ゲイトらオレフォース勢が出品したガラス器は、フランスの批評家たちを驚かせ、グランプリを獲得します。
イギリスの建築評論家モートン・シャンド(Philip Morton Shand)は、これら一連の北欧デザインを「Swedish Grace(スウェディッシュ・グレース)」と評しました。新古典主義の優雅さを残しながら、肥大した装飾を退け、軽やかで明るく、そして大量生産にも耐える——20世紀前半の北欧美学を象徴する言葉となりました。ハルドはサイモン・ゲイトとともにオレフォースのガラス表現を国際的に押し上げ、この「スウェディッシュ・グレース」と呼ばれる北欧美学を世界に印象づけた中心人物の一人です。
1930年のストックホルム博覧会のためには、《天球(Himmelsglob)》と題された大型のガラス作品も制作しました。透明なガラス球の表面に12星座を刻んだもので、ナショナルミュージアム(Nationalmuseum)にも収蔵されている代表作の一つです。グラール技法とは異なる、エングレービング(彫刻)の精緻さを示す仕事として位置づけられます。
「グレース」と「機能主義」のあいだ
スウェディッシュ・グレースの優雅さは、その後の機能主義(Funktionalism、ファンキス)に乗り越えられていく面もあります。しかし、装飾を整理し、形と素材の対話を重視する基本姿勢は、機能主義へとそのまま受け継がれました。ハルドとゲイトの仕事は、優雅さから機能主義へと舵を切る、その蝶番のような位置にあります。
8. ロールストランド時代——磁器に持ち込んだモダニズム
1920年代から1930年代にかけて、ハルドはオレフォースでの仕事と並行して、ロールストランド(Rörstrand)およびカールスクローナ磁器工場(Karlskrona)の磁器デザインにも深く関わりました。1726年創業のロールストランドはマイセンに次ぐヨーロッパ最古級の磁器メーカーで、長く宮廷や上流階級向けの華やかな食器をつくってきた窯です。そこに、機械生産を前提とし、装飾を整理した新しい食器を提案する——ハルドの役割は容易なものではありませんでした。
ハルドはこの時期、絵柄を簡潔にし、形そのもので語る磁器を多数発表しました。同じころ、ロールストランドではルイース・アーデルボリ(Louise Adelborg)が「スウェディッシュ・グレース」を1930年に発表し、ハルド自身が手がけた青と黒のグレーズによる手描き花瓶や、グンナー・ニールンド(Gunnar Nylund)の動物彫刻なども共存していました。古い窯に新しい風が吹き込まれた、まさに過渡期です。
同時代に走り抜けた仲間たち
ハルドのロールストランド時代と前後して、グスタフスベリではヴィルヘルム・コーゲ(Wilhelm Kåge)が1917年に芸術監督に就任し、1933年にはアルジェンタ(Argenta)シリーズが本格化していきます。北欧の磁器業界全体が「アーティスト=芸術家を窯に常駐させる」という新しい働き方へと切り替わっていった時期でした。ハルドはガラスと磁器、二つの異なる素材の世界で同時にこの動きを牽引した、稀有な存在です。
9. オレフォース芸術監督時代(1933–1944)と戦時下の窯
1933年、ロールストランドでの磁器デザインから離れたハルドは、オレフォースに専念し、サイモン・ゲイトの後を継ぐかたちで芸術監督に就任します。ちょうど世界恐慌と第二次世界大戦に挟まれた厳しい時代で、原料の輸入は途絶え、燃料は不足し、職人たちは戦地に動員されていきました。
それでもハルドはこの時期に、グラール技法をさらに発展させた「アリエル(Ariel)グラス」(1937年、デザイナーのヴィッケ・リンドストランド(Vicke Lindstrand)、エドヴィン・オールストレーム(Edvin Öhrström)、そして職人のグスタフ・ベルクヴィスト(Gustaf Bergqvist)らと共同開発)など、新技法の実用化を進めました。アリエルは、ガラス内部に空気を意図的に閉じ込めて気泡で絵を描く技法で、グラールの「ガラスを画布として使う」発想をさらに押し広げた成果です。
サイモン・ゲイトは1945年に62歳で世を去ります。盟友を失ったハルドは、それでもオレフォースに残り続け、戦後復興期のスウェーデン・ガラス産業を背負っていきました。1944年に芸術監督職を後進に譲ったあとも、デザイナーとして1978年ごろまで会社と関わり続けました。およそ60年にわたるオレフォースとの関係は、北欧デザイン史でも稀に見る長さです。
10. 晩年と遺したもの——なぜいまエドワード・ハルドなのか
ハルドは1980年7月4日、ストックホルムで96歳の生涯を閉じました。生前にすでに「教授(Professor)」の称号を受け、1932年と1936年のオリンピック芸術競技にも参加するなど、スウェーデンを代表する芸術家として遇されていました。彼の作品はストックホルム国立美術館(Nationalmuseum)、スモーランド美術館、オレフォース博物館などに収蔵されています。
では、北欧ヴィンテージ食器を愛する私たちにとって、エドワード・ハルドの仕事を知ることに、いまどんな意味があるのでしょうか。それは「私たちが当たり前に楽しんでいる北欧の食器は、どこから来たのか」を辿り直すことにほかなりません。スティグ・リンドベリのベルサ、リサ・ラーソンの猫、マリアンヌ・ウェストマン(Marianne Westman)のモナミ——いずれも、ハルドとゲイトの世代が築いた「アーティストが工場に常駐し、日常の器をデザインする」という働き方のうえに成立しています。
食器を手に取るとき、その背後に、20代でマティスの画塾に通い、30代でスモーランドの森のなかの小さなガラス工場に通い詰めた一人の若者がいたこと——その記憶が、ヴィンテージという言葉を少しだけ厚みのあるものに変えてくれるはずです。
まとめ
- エドワード・ハルド(1883–1980)は、画家としてアンリ・マティスに学んだのち、オレフォース(1917年〜)とロールストランドおよびカールスクローナ磁器の現場で活躍した、北欧デザインの先駆者です
- 1921年デザインの「花火鉢」と、1925年パリ万博での成功が、英国の批評家モートン・シャンドによる「スウェディッシュ・グレース」命名のきっかけとなりました
- サイモン・ゲイト、職人クヌート・ベルクヴィストとともに開発したグラール技法は、ガラス内部に絵を閉じ込めるという発想で、20世紀ガラス工芸の方向を大きく変えました
- 1930年ストックホルム博覧会のために制作した《天球(Himmelsglob)》は、12星座を刻んだ大型ガラス作品として、ナショナルミュージアムにも収蔵されています
- ロールストランドおよびカールスクローナ磁器の仕事を通じて、ルイース・アーデルボリらと並走しながら、磁器の世界にもモダニズムを持ち込みました
- 1933年から1944年まではオレフォース芸術監督として、戦時下のガラス産業を支え、戦後復興へとつなぐ役割を果たしました
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