ルート・ブリュック完全ガイド|アラビアで粘土を芸術に変えた50年の物語

ルート・ブリュック完全ガイド|アラビアで粘土を芸術に変えた50年の物語

この記事の要点

  • ルート・ブリュック(1916-1999)はフィンランドを代表する陶芸家。アラビア製陶所美術部門で約50年間活動した
  • 陶芸の経験ゼロでアラビアに招かれ、具象的な装飾陶板から幾何学的抽象、そして「白の時代」へと作風を変遷させた
  • 1951年ミラノ・トリエンナーレでグランプリを受賞。プロ・フィンランディア勲章も授与された
  • 夫はフィンランドデザインの巨匠タピオ・ヴィルカラ。紹介者はアラビアの同僚ビルガー・カイピアイネン
  • 2019年、日本で初の大規模回顧展「蝶の軌跡」が東京ステーションギャラリーほか4会場で開催された

目次

  1. ルート・ブリュックとは
  2. 生い立ち——ストックホルムに生まれ、フィンランドへ
    1. 蝶の研究者の父と画家の血筋
    2. カレリアの夏と自然への眼差し
  3. アテネウムでの学び——グラフィックデザインから陶芸への転機
  4. アラビア美術部門——粘土と出会った1942年
    1. エクホルムの招聘とカイピアイネンの導き
  5. 50年の芸術的変遷——具象から白の沈黙へ
    1. 第1期:パステルの世界(1940年代〜1950年代前半)
    2. 第2期:独自技法の確立(1948年〜1950年代後半)
    3. 第3期:幾何学的抽象への転換(1960年代〜1970年代)
    4. 第4期:白の時代(1970年代後半〜1991年)
  6. タピオ・ヴィルカラとの愛——フィンランドデザイン最高のパートナーシップ
    1. カイピアイネンが引き合わせた二人
    2. ラップランドの夏——白夜の創作
    3. ローゼンタールとの共同制作
  7. 代表作と展示場所——ヘルシンキを歩けば出会える芸術
  8. 受賞と栄誉——ミラノの「奇跡」
  9. 日本との縁——「蝶の軌跡」展
  10. 遺産——タピオ・ヴィルカラ ルート・ブリュック財団
  11. まとめ

ルート・ブリュックとは

1961年のルート・ブリュック
1961年のルート・ブリュック。撮影:オラヴィ・カスキスオ

ルート・ブリュック(Rut Bryk, 1916-1999)は、フィンランドを代表する陶芸家です。ヘルシンキのアラビア製陶所美術部門で約50年にわたり活動し、パステルカラーの装飾陶板から壮大な建築用セラミック壁画まで、陶芸という素材の可能性を極限まで追求しました。

1951年のミラノ・トリエンナーレでグランプリを受賞し、フィンランドデザインの黄金時代を象徴する芸術家のひとりとなりました。夫はイッタラのガラスデザインで知られるタピオ・ヴィルカラ。ふたりはフィンランドデザイン史上最も輝かしいパートナーシップを築いています。

しかし驚くべきことに、ブリュックがアラビアに招かれたとき、彼女には陶芸の経験が一切ありませんでした。グラフィックデザインを学んだ若い女性がどのようにして粘土を芸術に変えたのか。その物語は、ストックホルムの蝶の研究者の家に始まります。

生い立ち——ストックホルムに生まれ、フィンランドへ

1940年代のヘルシンキ中央駅
1940年代のヘルシンキ中央駅。ブリュックが若き日を過ごした街の姿

1916年10月18日、リンネア・ルート・ブリュックはスウェーデン・ストックホルムで生まれました。フィンランドの陶芸家として知られるブリュックですが、生まれた場所は隣国スウェーデンだったのです。

蝶の研究者の父と画家の血筋

父フェリクス・ブリュック(Felix Bryk, 1882-1957)は、オーストリア・ウィーン生まれの昆虫学者でした。鱗翅目——蝶と蛾——の研究者であり、特にパルナシウス亜科(ウスバシロチョウの仲間)の世界的な専門家として知られていました。フェリクスはフィレンツェで美術を学んでいたとき、フィンランド人女性アイノ・マキネンと出会い、コペンハーゲンで結婚します。

母アイノの家系には芸術の血が流れていました。アイノの従兄弟にあたるペッカ・ハロネン(Pekka Halonen, 1865-1933)は、フィンランド国民的ロマン主義を代表する画家です。雪に覆われたフィンランドの森を描いた風景画で知られるハロネンの感性は、ブリュック家の芸術的な空気を形づくっていたことでしょう。

カレリアの夏と自然への眼差し

ヘルシンキ沖のスオメンリンナ要塞
フェリーから望むスオメンリンナ要塞。フィンランドの海と空が溶け合う風景は、ブリュックの色彩感覚の原風景となった(Photo: Michal Pise / CC BY 2.0)

ストックホルムで生まれ育ったブリュックですが、夏のあいだはフィンランド東部のカレリア地方、ラドガ湖のほとりで過ごしました。父フェリクスの蝶の採集に同行し、森や湖畔を歩いた日々は、彼女の自然への鋭い観察眼を育みました。蝶の羽の模様、野花の色彩、湖面に映る光——。後に陶板に描かれることになるモチーフの多くは、このカレリアの夏に根をもっています。

しかし幼少期は平穏なだけではありませんでした。両親は離婚し、妹は幼くして亡くなるという悲劇も経験しています。その後、母アイノとともにフィンランドに移住。ヘルシンキが、ブリュックの新たな故郷となりました。

アテネウムでの学び——グラフィックデザインから陶芸への転機

ヘルシンキのアテネウム美術館
夏のアテネウム美術館。ブリュックが学んだ中央工芸学校はこの建物内にあった(Photo: 5R-MFT / CC BY-SA 4.0)

1936年、20歳のブリュックはヘルシンキ中央工芸学校(Taideteollinen keskuskoulu)に入学しました。学校は、ヘルシンキ中央駅からほど近いアテネウムの建物内にありました。現在この建物はフィンランド国立美術館として親しまれていますが、当時はフィンランドの芸術教育の中心地でもあったのです。

ブリュックが選んだ専攻はグラフィックデザインでした。じつは当初、彼女は建築家になることを夢見ていました。しかし工学を学んでいた兄たちから「建築は男の仕事だ」と反対されたといいます。1930年代のフィンランドにおいても、女性の職業選択にはまだ壁がありました。

アテネウム美術館の正面
アテネウム美術館の展示室。19世紀に建てられたネオルネサンス様式の建物(Photo: Jaakko.kulta / CC BY-SA 4.0)

1939年に卒業したブリュックは、校長アルットゥ・ブルンメルの紹介でイラストレーションとテキスタイルデザインの仕事に就きました。リノカットによる植物や人物モチーフのテキスタイルデザイン、グリーティングカード、ブックカバーの制作。グラフィックデザイナーとしてのキャリアが始まりましたが、運命は彼女をまったく異なる方向に導くことになります。

なお、ヘルシンキ中央工芸学校はその後、ヘルシンキ芸術デザイン大学を経て、現在のアールト大学芸術・デザイン・建築学部へと発展しています。

アラビア美術部門——粘土と出会った1942年

1965年のアラビア製陶所トウコラ地区の航空写真
1965年のアラビア製陶所。ヘルシンキ・トウコラ地区に広がる工場群の航空写真(Photo: SKY-FOTO Möller / CC BY-SA 4.0)

1942年——フィンランドが第二次世界大戦の渦中にあった年、ブリュックの人生を決定づける出会いが訪れました。アラビア製陶所の初代美術監督クルト・エクホルム(Kurt Ekholm, 1907-1975)が、展覧会で彼女の作品を目にしたのです。

エクホルムの招聘とカイピアイネンの導き

アラビア製陶所の建物
現在のアラビア工場の建物。かつてはこの中にブリュックのアトリエがあった(Photo: Markus Koljonen / CC BY-SA 3.0)

エクホルムは、ストックホルム王立芸術アカデミーで学んだスウェーデン出身の陶芸家で、1933年からアラビアの美術監督を務めていました。ブリュックのグラフィックデザインの才能に、陶芸という新しい素材での可能性を見出したエクホルムは、彼女をアラビアの美術部門に研修生として招きます。

26歳のブリュックにとって、陶芸はまったく未知の領域でした。幼少期以来、粘土に触れたことすらなかったのです。最初の指導者となったのは、アラビア美術部門の同僚ビルガー・カイピアイネンでした。「装飾家の王」と呼ばれるカイピアイネンは、釉薬による絵付けの技法をブリュックに伝えました。

グラフィックデザインで培った色彩感覚と構図の力。そこに釉薬という新しい表現手段が加わったとき、ブリュックの芸術は独自の輝きを放ち始めます。彼女は以後、1991年までの約50年間をこのアラビアの美術部門で過ごすことになります。

50年の芸術的変遷——具象から白の沈黙へ

ブリュックの50年にわたる芸術的旅路は、おおむね4つの時期に分けることができます。具象から抽象へ、色彩から白へ——。その変遷は、20世紀美術の大きな流れとも響き合いながら、きわめて個人的で独創的な道のりでもありました。

第1期:パステルの世界(1940年代〜1950年代前半)

1950年代のルート・ブリュック
1950年代のルート・ブリュック。パステルカラーの装飾陶板で注目を集めた時期

アラビアでの初期作品は、ファイアンス焼きのパステルカラーの陶板でした。帽子をかぶった女性、公園を散歩する恋人たち、花々や動物——。リラックスした絵画的なスタイルで、日常の情景や神話の世界を柔らかな色調で描いています。

この時期の作品には、グラフィックデザイナーとしての素養が明確に表れています。二次元的な構図の中に、パステルブルー、やわらかなピンク、淡い緑が調和する作品群は、戦時下のフィンランドにあってなお、人々の暮らしの美しさを肯定するものでした。

第2期:独自技法の確立(1948年〜1950年代後半)

1948年、ブリュックは工房の職人たちとともに、独自の石膏型成型技術を開発しました。この技法は、正方形のタイルに釉薬を用いて繊細な色彩を表現するもので、スタンプやエングレービング(彫り込み)による加飾と組み合わせることで、それまでの陶芸にはない表現を可能にしました。

具象的なモチーフを維持しながらも、表現はより複雑に、より表現主義的になっていきます。色面と浮彫による強いコントラスト、聖書的な主題やゴシック建築からの着想——。パステルの世界から一歩踏み出し、素材そのものの可能性を探求する姿勢が鮮明になっていきました。

ルート・ブリュック 陶板
ルート・ブリュックの陶板作品。色面と浮彫による独自の表現が見られる(当店取扱品)

この時期のブリュックの作品は、アラビア社内に設けられたアトリエで制作されていました。大量生産の陶器とは別枠の工房で、裁量を与えられたアーティストたちが一点物の作品を生み出す——アトリエ作品と呼ばれるこれらの制作物は、一般の店頭には並ばず、限られた顧客のもとへ届けられていました。ブリュックの陶板もまた、そうしたアトリエから生まれた作品です。

ルート・ブリュック 小サイズ陶板 トゥフカヴァティ 1950年代後半
当店で販売中「トゥフカヴァティ」(1950年代後半)。厚みのある正方形のタイルに深いエメラルドグリーンの釉薬が掛けられている。フィンランド語で「灰皿」を意味する作品名を持つ ¥700,000
ルート・ブリュック 中サイズ陶板 1950年代後半
当店で販売中花をモチーフにしたアラベスク模様の陶板(1950年代後半)。素焼きの温かみのある表面に、中央の窪みにだけわずかに白い釉薬が施されている ¥500,000

1970年代にアトリエが閉鎖されると、こうした一点物の陶板が新たに生まれることはなくなりました。現存する作品は、ブリュックが粘土と釉薬に向き合っていた時代の、静かな証人です。

第3期:幾何学的抽象への転換(1960年代〜1970年代)

ルート・ブリュックによる陶芸作品「アラビア」
ヘルシンキ市からアムステルダム市の700周年記念に贈られたブリュックの陶芸作品「アラビア」(1973-1975年)。幾何学的なモジュールの集積による壮大なスケール(Photo: Rut Bryk / CC BY-SA 3.0)

1960年代に入ると、ブリュックの作品は劇的な転換を遂げます。具象的モチーフは姿を消し、幾何学的な抽象表現が前面に出てきました。タイルの三次元的な特性と釉薬の微妙な変化を活かし、光と影、反射によって刻々と表情を変えるパターンを創り出しています。

1960年代の作品は、明るく遊び心のある色彩が特徴です。そして1960年代後半からは、無数の異なる形状と色彩をもつ小さなモジュールを組み合わせた大型の建築用セラミック壁面作品の制作が始まりました。個々のタイルはひとつの音符のようなもの。それが何百、何千と集まったとき、壮大な交響曲のような空間が生まれるのです。

第4期:白の時代(1970年代後半〜1991年)

ブリュックの芸術的旅路の最終章は、「白の時代」と呼ばれています。色彩は限りなく抑制され、ほぼ純白のタイルで構成された作品群が生まれました。しかし白一色に見えるその表面は、微妙な凹凸と釉薬の光沢の違いによって、光の角度が変わるたびにまったく異なる表情を見せます。

2024年のアラビア製陶所の建物
現在のアラビア製陶所の建物。ブリュックは1991年までこの場所で作品を制作し続けた(Photo: Marit Henriksson / CC BY-SA 4.0)

制作方法もまた驚くべきものでした。ブリュックはアラビアのアトリエの床に無数のタイルを並べ、高い足場に上がって全体を俯瞰しながら、一枚一枚を並べ替えていきました。気の遠くなるような手仕事の積み重ねによって、教会や市庁舎といった公共建築を彩る壮大な壁画が生み出されたのです。

色を削ぎ落とすことで、かえって光そのものが作品の主役になる。この「白の時代」の美学は、余白や静けさを重んじる日本の美意識とも深く共鳴するものがあります。

タピオ・ヴィルカラとの愛——フィンランドデザイン最高のパートナーシップ

1959年のタピオ・ヴィルカラ
1959年のタピオ・ヴィルカラ。イッタラのガラスデザインで世界的に知られるフィンランドの巨匠

ルート・ブリュックの物語を語るうえで、夫タピオ・ヴィルカラ(Tapio Wirkkala, 1916-1985)の存在は欠かすことができません。ふたりは同じ1916年生まれ。それぞれ独立した芸術家でありながら、互いの創造性を深く尊重し合う、フィンランドデザイン史上最も美しいパートナーシップを築きました。

カイピアイネンが引き合わせた二人

1944年、ヘルシンキのタイデハッリ・クラブでのこと。アラビアの同僚であり、ブリュックの最初の陶芸の師でもあったビルガー・カイピアイネンが、ふたりを引き合わせました。出会った瞬間から離れがたい関係となり、翌1945年に結婚。最初の旅行先にはイタリアを選びました。ふたりが共有していた初期ルネサンス美術への情熱は、生涯にわたる創造的インスピレーションの源泉となっています。

のちにふたりのあいだには、息子サミ(1948年生、インテリア建築家)と娘マーリア(1954年生、現代美術家)が生まれました。

ラップランドの夏——白夜の創作

イッタラのガラス工場で作業するタピオ・ヴィルカラ
イッタラのガラス工場で作業するヴィルカラ。ガラス、陶芸、木彫、金属——あらゆる素材を操る職人であった(Photo: Herman Alfred Turja / CC BY 4.0)

1960年代後半から、ふたりは毎年夏をフィンランド北部ラップランドで過ごすようになりました。パーダル湖畔のレンメンスーという場所に構えた質素な小屋が、彼らの夏の拠点です。

釣りをし、湖から水を汲み、薪を割る。白夜の季節、ヴィルカラは昼夜を問わずデザインに没頭しました。世界中の工房から試作品が郵送で届き、湖をボートで渡って運ばれたといいます。電話もテレビもない静寂のなかで、ふたりはそれぞれの創作に向き合い続けました。

フィンランドの自然——白夜の光、凍った湖面、針葉樹の森——は、ブリュックの「白の時代」にも、ヴィルカラの有機的なガラスデザインにも、深い痕跡を残しています。

ローゼンタールとの共同制作

タピオ・ヴィルカラとルート・ブリュックの共作、ローゼンタール ヴィンターライゼ
ヴィルカラがフォルムをデザインし、ブリュックが表面装飾を手がけたローゼンタールのヴィンターライゼ(冬の旅)シリーズ(Photo: Ante Vranković / CC BY-SA 4.0)

ふたりの芸術的協働を象徴する仕事が、ドイツの名窯ローゼンタールとの共同制作です。ヴィルカラが磁器テーブルウェアのフォルムをデザインし、ブリュックが表面装飾を担当するという役割分担で、いくつかの名シリーズが生まれました。

代表的なものに「センチュリー キュムラス」「ポリゴン ヴィンターライゼ(冬の旅)」「ポリゴン ロドス」があります。ヴィルカラの端正なフォルムとブリュックの繊細な装飾が出会うことで、どちらか一方だけでは到達しえなかった美しさが実現されました。

1985年、ヴィルカラは69歳で世を去りました。しかしブリュックはその喪失を乗り越え、最後の大作「氷の流れ」(Jäälohkarevirta)の制作を続行しています。この作品は大統領公邸マンテュニエミ(Mäntyniemi)に設置された7枚パネルの陶壁レリーフで、ブリュックが3年をかけて制作した最大傑作です。プルマンキ湖に流れ込む小川から着想を得た、きらめく白い氷の造形。

ルート・ブリュック 氷の流れ(Ice Flow)
ルート・ブリュック「氷の流れ」(1987-91年)大統領公邸マンテュニエミ蔵

代表作と展示場所——ヘルシンキを歩けば出会える芸術

ヘルシンキ大聖堂
ヘルシンキ大聖堂。フィンランドの首都を象徴するこの街のいたるところに、ブリュックの作品が息づいている(Photo: Diego Delso / CC BY-SA 3.0)

ブリュックの作品の多くは、ヘルシンキの公共建築に恒久的に設置されています。フィンランドを訪れる機会があれば、街を歩くだけで彼女の芸術と出会うことができるのです。

「太陽の中の都市」(1975年)——ヘルシンキ市庁舎
ヘルシンキ市庁舎のロビー階段に設置された「白の時代」の代表作です。無数の白いタイルが織りなす壁面レリーフは、階段を上り下りする人々の目線の高さや、窓から差す光の角度によって、まるで生きているかのように表情を変えます。市民に深く愛されている作品です。

「氷の流れ」(1987-1991年)——マンテュニエミ大統領官邸
ブリュック最後の大作は、建築家ライリ&レイマ・ピエティラが設計した大統領官邸のために制作されました。7枚のパネルから成るこの壁面レリーフは、官邸の公的な空間と私的な空間を仕切るスクリーンとして機能しています。夫ヴィルカラの死後も6年をかけて完成させたこの作品は、ブリュック芸術の集大成であり、愛する伴侶への静かな追悼でもありました。

その他の主要設置場所

  • フィンランド銀行——セラミック・インスタレーション「木」
  • 在ニューデリー・フィンランド大使館——「北の春」(1984年)
  • アムステルダム市——「アラビア」(1973-1975年、ヘルシンキ市からの贈り物)

受賞と栄誉——ミラノの「奇跡」

ブリュックの芸術は、国際的にも高く評価されました。なかでも1951年の第9回ミラノ・トリエンナーレは、彼女のキャリアにおける最大の転機となった出来事です。

この年のトリエンナーレで、ブリュックはタイルデザインによりグランプリを受賞しました。同時に夫タピオ・ヴィルカラ、テキスタイル作家ドラ・ユングもグランプリを獲得。フィンランドという小国が複数の最高賞を独占したこの出来事は、「ミラノの奇跡」と呼ばれ、フィンランドデザインが世界の注目を集める決定的な契機となりました。

受賞・栄誉
1951年 第9回ミラノ・トリエンナーレ グランプリ
1954年 第10回ミラノ・トリエンナーレ 名誉賞
1962年 プロ・フィンランディア勲章
1974年 フィンランド国家デザイン賞
1982年 白薔薇騎士勲章第一級
1994年 ヘルシンキ大学名誉博士号

日本との縁——「蝶の軌跡」展

2019年のヘルシンキ・デザイン博物館
ヘルシンキのデザイン博物館。フィンランドデザインの殿堂であり、ブリュックの作品もコレクションに含まれている(Photo: Vadelmavene / CC BY-SA 4.0)

2019年から2020年にかけて、日本で初の大規模なルート・ブリュック回顧展「ルート・ブリュック 蝶の軌跡」が開催されました。タイトルの「蝶の軌跡(Touch of a butterfly)」は、父フェリクスが蝶の研究者であったことに由来しています。

展覧会はEMMA(エスポー近代美術館)が所蔵するタピオ・ヴィルカラ ルート・ブリュック財団コレクションを中心に、約200点の作品で約50年のキャリアを網羅するものでした。

会場 会期
東京ステーションギャラリー 2019年4月27日〜6月16日
伊丹市立美術館(兵庫) 2019年9月7日〜10月20日
岐阜県現代陶芸美術館 2020年6月6日〜8月16日
新潟県万代島美術館 2020年10月10日〜12月6日

東京、兵庫、岐阜、新潟という4都市を巡回したこの展覧会は、フィンランド大使館とフィンランドセンターの後援を受けて実現しました。公式図録『ルート・ブリュック 蝶の軌跡』(ブルーシープ刊)も出版されています。

ブリュックの作品が日本で反響を呼んだ背景には、日本の美意識との深い共鳴があります。大量生産を避け、手仕事を貫いた姿勢は日本の工芸精神に通じるものです。自然の光と影の微妙な変化への繊細な感受性、そして晩年の「白の時代」に見られる余白と静寂の美学——。国境を越えて響き合うこの感性こそが、フィンランドと日本のデザイン文化をつなぐ見えない糸なのかもしれません。

遺産——タピオ・ヴィルカラ ルート・ブリュック財団

ヘルシンキのテンニスパラツィ
ヘルシンキのテンニスパラツィ。HAM(ヘルシンキ市立美術館)が入る文化施設(Photo: Arkkipuudeli / CC BY-SA 3.0)

1991年にアラビアを退社した後、健康上の理由もあり制作活動から離れたブリュックは、1999年11月14日、ヘルシンキで83歳の生涯を閉じました。ヘルシンキ・ヒエタニエミ墓地に、夫ヴィルカラとともに眠っています。

ヘルシンキ・ヒエタニエミ墓地
ヘルシンキ・ヒエタニエミ墓地(Photo: Ralf Roletschek / CC BY-SA 4.0)

2003年、子供のサミとマーリアが中心となり、「タピオ・ヴィルカラ ルート・ブリュック財団」が設立されました。5,000点以上の完成作品、プロトタイプ、スケッチ、図面、写真からなるコレクションを管理し、ふたりの芸術的遺産の保存と研究を推進しています。

ヘルシンキ芸術デザイン大学の入口
旧ヘルシンキ芸術デザイン大学(現アールト大学)の入口。アラビア工場の建物内にあり、ブリュックの創作の記憶が息づいている(Photo: Markus Koljonen / CC BY-SA 3.0)

2011年にはコレクション全体がEMMA(エスポー近代美術館)に寄託され、2017年にはエスポー市のWeeGee展示センター内に「ブリュック&ヴィルカラ ビジブル・ストレージ」が開設されました。約2,500点の作品を常時公開するこの展示施設は、世界でも類を見ないスケールで、ふたりの創造の全貌を伝えています。

2016年にはブリュックの生誕100周年を記念して、EMMAで「ルート・ブリュック——魔法の箱(The Magic Box)」展が開催されました。200点以上の作品が5つのセクションで構成され、娘マーリア・ヴィルカラによる特別インスタレーションも展示されています。

また、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館にもブリュック作品が所蔵されており、ブリュックの芸術的遺産は国境を越えて守り継がれています。

まとめ

ルート・ブリュック——粘土を芸術に変えた50年の軌跡

  • 生涯: 1916年ストックホルム生まれ、1999年ヘルシンキ没(享年83歳)
  • 教育: ヘルシンキ中央工芸学校(アテネウム)でグラフィックデザインを専攻
  • キャリア: 1942年〜1991年、アラビア製陶所美術部門で約50年間活動
  • 作風の変遷: パステルの具象 → 独自技法の確立 → 幾何学的抽象 → 白の時代
  • 主要受賞: 1951年ミラノ・トリエンナーレ グランプリ、1962年プロ・フィンランディア勲章
  • パートナー: タピオ・ヴィルカラ(1945年結婚)。ローゼンタールとの共同制作でも知られる
  • 代表作: 「太陽の中の都市」(ヘルシンキ市庁舎)、「氷の流れ」(マンテュニエミ大統領官邸)
  • 遺産: タピオ・ヴィルカラ ルート・ブリュック財団(2003年設立)、EMMA常設展示
  • 日本との縁: 2019-2020年「蝶の軌跡」展が4都市を巡回

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