ライヤ・ウオシッキネン完全ガイド|エミリアを生んだアラビアの「美の母」
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この記事の要点
- ライヤ・ウオシッキネン(1923〜2004)は、アラビア製陶所で39年間にわたり装飾デザインを手がけたフィンランドの装飾画家
- エミリア、アリ、ポモナ、カレワラ・イヤープレートなど、数十のシリーズを生み出したアラビア史上屈指の装飾デザイナー
- 手描き、銅版転写、シルクスクリーン、転写紙などを器・素材・量産条件に応じて使い分け、オイバ・トイッカから「美の母」と紹介された
- フィンランド南部ホッロラ出身。60回以上の海外旅行で得たインスピレーションをデザインに昇華した
目次
ライヤ・ウオシッキネンとは
アラビアの器を手に取ったとき、まず形に目が行くかもしれません。けれども、白い器に物語を与えているのは、表面に描かれた装飾です。黒い線でアメリカの暮らしを描いたエミリア、イスラム装飾を思わせるアリ、果実を明るく並べたポモナ、フィンランド叙事詩を24年かけて描いたカレワラ・イヤープレート——これらを生み出したのが、ライヤ・ウオシッキネン(Raija Uosikkinen, 1923–2004)です。
アラビアには、器の形を作ったデザイナーがいました。一方で、その白い器に季節、旅、物語、異国への憧れを描き込んだ装飾家がいました。ウオシッキネンは、まさに後者の頂点に立つ人物です。カイ・フランクやウラ・プロコッペが手がけたのは、生活のための器の形そのものでした。彼らが整えた白い余白に、エミリアではアメリカの庭が、アリではイスラム文様が、ポモナでは台所の果物が、カレワラでは国民叙事詩が描かれました。アラビアの装飾を考えるとき、ウオシッキネンを抜きには語れません。
1923年、フィンランド南部の湖畔の町ホッロラに生まれたウオシッキネンは、ヘルシンキ中央工芸学校で磁器絵付けを学んだ後、1947年にアラビア(ARABIA)製陶所に入社しました。以来1986年の退職まで、39年にわたってアラビアの装飾デザインを担い、エミリア、アリ、ポモナ、カレワラ・イヤープレートをはじめとする多くのシリーズを世に送り出しました。
同僚のオイバ・トイッカは、工場見学者にウオシッキネンを「美の母(the mother of beauty)」と紹介していたといいます。手描きから銅版転写、シルクスクリーンまで——あらゆる装飾技法を自在に操り、フィンランドのミッドセンチュリーを彩った、アラビア史上最も多作な装飾画家の物語をたどります。
ホッロラからヘルシンキへ——生い立ちと教育
湖と中世教会の町ホッロラ
ウオシッキネンが生まれ育ったホッロラ(Hollola)は、フィンランド南部パイヤト=ハメ地域に位置する歴史ある自治体です。隣接するラハティ市の西側に広がり、ヴェシヤルヴィ湖をはじめとする44の湖に囲まれた水と森の土地。石器時代から人が暮らし、ヴァイキング時代には交易の拠点として栄えました。
町のシンボルは、15世紀末に建てられた聖マリア教会です。フィンランドで最大級の中世石造教会のひとつであり、カトリック時代末期の厳かな石壁が500年以上の時を刻んでいます。
ウオシッキネンはこの湖畔の町で幼少期を過ごし、少女時代には隣町ラハティの女子リセウムに5年間通いました。フィンランドの自然——湖面に映る白樺の森、野に咲く花々、北国の長い冬と短い夏——が、のちの装飾デザインの原風景になったのかもしれません。
ヘルシンキ中央工芸学校へ
1944年、第二次世界大戦末期のフィンランドで、21歳のウオシッキネンはヘルシンキ中央工芸学校(Taideteollinen oppilaitos)の門をくぐりました。現在のアールト大学 芸術・デザイン・建築学部の前身にあたるこの学校で、磁器絵付け(ポーセレン・ペインティング)を専攻。構図、フリーハンドデッサン、造形の授業を受け、陶磁器装飾の基礎を3年間で身につけました。
戦時中に入学し、戦後の混乱期に学びを重ねた世代。1947年の卒業と同時に、ヘルシンキ・トウコラ地区にあるアラビア製陶所の門をくぐりました。
アラビア装飾部門の39年
戦後のアラビア工場へ
1873年に創業したアラビア製陶所は、1947年当時すでにフィンランド最大の陶磁器メーカーでした。ヘルシンキ・トウコラ地区のヴァンターヨキ川沿いに建つ巨大な工場には、数百人の職人とデザイナーが集いました。
ウオシッキネンがアラビアに入社したのは、同期のエステリ・トムラと同じ1947年。戦後の復興期、フィンランドは厳しい戦争賠償をソ連に支払いながらも、デザインの力で国際市場への足場を築こうとしていた時代です。カイ・フランク、ビルガー・カイピアイネン、ウラ・プロコッペらが活躍する黄金のアートデパートメントに、若き装飾画家として加わったのです。
すべての装飾技法を極める
ウオシッキネンの最大の強みは、陶磁器のあらゆる装飾技法を使いこなせたことです。
ウオシッキネンが操った技法は、大きく分けて4つあります。
- 手描き:筆の勢いと一点ごとの個体差を残す職人的な技法。装飾の自由度が高い反面、量産には向きません。
- 銅版転写(カッパープレート):銅版に彫った文様にインクを詰め、転写紙経由で器に写す伝統技法。アリのような深い線と陰影を生むものの、手間がかかります。
- シルクスクリーン:量産に向いた印刷技法で、線の安定性と再現性が高い。アラビアの戦後刷新を支えた技法のひとつです。
- 転写紙:あらかじめ印刷した装飾シートを器に貼り付けて焼き付ける、量産品の主役。
ウオシッキネンの強みは、これらを一つに固定せず、器・素材・量産条件に応じて使い分けたことです。とりわけシルクスクリーン印刷の活用においては工場全体に貢献し、アラビアの量産品の品質向上に大きな役割を果たしました。
1950年代にデザインしたポラリス(Polaris)シリーズでは、繊細なリンネソウの装飾を量産食器に落とし込み、手描きの感覚と工業的な再現性を両立させました。リンネソウ(ツインフラワー)の繊細な緑の装飾は、技法の革新者としての彼女の才能を象徴するものです。
「美の母」——オイバ・トイッカが見たウオシッキネン
1952年にアラビア社内に装飾部門が設立されると、ウオシッキネンは同部門を率いる立場となりました。以降、退職する1986年まで、量産食器の装飾設計や装飾技法の展開において中心的な役割を担います。
同僚のオイバ・トイッカが工場見学者に彼女を紹介するとき、こう言ったといいます——「美の母(the mother of beauty)」。フォルムに命を吹き込み、白磁に物語を描く。それがウオシッキネンの39年間でした。
白い器に物語を描くという仕事
ウオシッキネンは、単に模様を描いた人ではありません。器に物語、季節、旅、記憶を与えた装飾画家でした。アラビアの白い余白は、彼女の手にかかると、遠いアメリカの庭になり、イスラムの文様が踊る空間になり、台所の果物が並ぶ棚になり、フィンランドの叙事詩を語る陶板になりました。
同じフォルムでも、誰がどのように装飾するかで器の表情はまったく変わります。ウオシッキネンの装飾は、器を「見る対象」「読む対象」へ変えていきました。ここから先は、彼女が白い器に描いた世界を一つひとつ訪ねていきます。
代表作を巡る
エミリア(Emilia)——遠いアメリカへの憧れ(1959〜1966年)
ウオシッキネンの代表作として最もよく知られるエミリア(Emilia)は、白磁に黒のプリント装飾を施した格調高いシリーズです。
着想の源は、アメリカに移住した叔母セルマの暮らし。20世紀初頭のアメリカでの理想的な生活——庭でお茶を楽しむ貴婦人、ハンモック、花々、市場の賑わい——を、繊細な点描画のような筆致で白磁の上に描きました。
戦後のフィンランドは決して豊かな国ではありませんでした。ソ連への多額の戦争賠償を背負い、国民の暮らしは質素そのもの。遠い異国の華やかな暮らしへの憧れが、このシリーズには静かに漂っています。フィンランドのミッドセンチュリーの名作が、しばしば貧しさの中から生まれたという矛盾——エミリアはまさにその象徴です。
プレート、ボウル、トレイ、カップ、花瓶、キャニスターなど多様なアイテムで展開され、多くのフォルムはカイ・フランクがデザインしました。黒一色が基本ですが、極めて稀なヴァイオレット、ブラウン、グリーンのカラーバリエーションも存在し、コレクターの間で垂涎の的となっています。
アリ(Ali)——銅版転写の終盤を代表するシリーズ(1960年代〜1970年代)
アリ(Ali)は、1961年に登場したアラビアの装飾シリーズで、アラビアにおける銅版転写装飾の終盤を代表するシリーズです。銅版に彫られた文様にインクを詰め、転写紙に写し取り、器に貼り付けたうえで薄く透明の釉薬をかけて再焼成する——極めて手間のかかる伝統的な技法で、一つひとつの器に深みのある風合いが宿りました。
装飾のモチーフは、海外旅行を重ねたウオシッキネンがイスラム文化圏で出会った装飾文様から着想を得た花柄パターン。ブルーとブラウンの2色で展開され、とりわけ深い青が人気を集めました。フォルムは資料によってカーリナ・アホまたはカイ・フランクのデザインとされ、ウオシッキネンは装飾を担当しました。
シルクスクリーンや量産型転写紙の普及とともに、銅版転写のような手仕事の技法は次第に姿を消しました。アリは単なる青い花柄ではなく、アラビアの装飾技術史を語るシリーズです。
シルクスクリーンや量産型転写紙の普及とともに、こうした手仕事の技法は次第に姿を消しました。アリはアラビアの銅版転写の時代に幕を引く、貴重なシリーズです。
ポモナ(Pomona)——9つの果実のジャムポット(1965〜1975年)
ポモナ(Pomona)は、果物をモチーフにしたジャムポットのシリーズです。カイ・フランクがデザインしたFAモデルのフォルムに、ウオシッキネンが9種類の果物——リンゴ、ブルーベリー、プラム、グーズベリー、イチゴ、蜂蜜(蜂の巣模様)、リンゴンベリー、オレンジ、カラント——の装飾を施しました。
蓋を開けるとそれぞれの果実が鮮やかに描かれた、キッチンを彩る陽気なシリーズでした。このデザインはアラビア傘下のフィネル(Finel)エナメルウェアにも展開され、鍋やポットとして多くの家庭で親しまれました。
カレワラ イヤープレート——24年の叙事詩(1976〜1999年)
ウオシッキネンの後期の代表作が、フィンランドの国民叙事詩『カレワラ』をテーマにしたイヤープレートです。1976年から1999年まで毎年1枚ずつ、24年間にわたって制作されました。
約20cm角のストーンウェア製陶板に、カレワラの物語の一場面がウオシッキネンの手で描かれ、裏面にはフィンランド語・英語・スウェーデン語でカレワラの本文が記されています。毎年限定版として発売されたこのシリーズは、フィンランド国内外のコレクターに愛されました。
カレワラは19世紀にエリアス・リョンロートが各地の口承詩を編纂した叙事詩であり、フィンランド人の精神的支柱です。ガッレン=カッレラの絵画、シベリウスの交響詩など多くの芸術家がその世界を描いてきましたが、ウオシッキネンは陶板という媒体で、24年という歳月をかけてこの壮大な物語に取り組みました。
ソトカ、シルパ、そのほかの名品
ウオシッキネンの作品リストは驚くほど長いものです。上記のシリーズ以外にも、数多くの名品を残しています。
ソトカ(Sotka、1960年代末〜1974年)は、手描きの青い抽象的な羽毛装飾が特徴的なシリーズ。書道的な自由な筆致で描かれ、職人の手仕事ゆえに一点ごとに色合いが異なる、味わい深い器でした。
シルパ(Sirpa、1960年代)は、4つのハートを囲む青い葉と花が描かれたソルトディッシュやカッティングボード。壁掛け用の穴が空けられ、実用品でありながらインテリアとしてもデザインされました。
1950年代のハッタラ(Hattara)は、1961年にアメリカ・サクラメントの国際陶磁器展で金メダルを受賞。ウオシッキネンの装飾技術が国際的に認められた記念すべき作品です。ほかにも、ルイヤ(Ruija、1975〜1981年)、コラーリ(Koralli、1983〜1987年)、ペッレルヴォ(Pellervo、1950年代)、エデン(Eden、1971年)など、食器からインテリア装飾品まで、その作品は多岐にわたります。
カイ・フランクとの対話——フォルムと装飾
ウオシッキネンのキャリアを語るうえで、カイ・フランクとの協働関係は欠かせません。「フィンランドデザインの良心」と称されたフランクがフォルム——器の形——をデザインし、ウオシッキネンが装飾——表面の文様——を担当する。このパートナーシップは、エミリア、ポモナ、ハッタラ、ポラリス、エデンなど、数多くのシリーズを生み出しました。
フランクのBモデル食器をはじめとするミニマルなフォルムは、装飾にとって空白のキャンバスでもありました。ただし、装飾が主張しすぎるとフランク的な機能美を壊してしまいます。ウオシッキネンはその境界を理解していました。だから彼女の装飾は、器の形を殺さず、むしろ形を浮かび上がらせました。形の簡潔さが装飾の余白を生み、装飾の豊かさが形に表情を与える——二人の創作はまさにフォルムと装飾の対話でした。
器の形が先にあり、その形にふさわしい装飾が後から生まれる。あるいは装飾の構想が先にあり、それを引き立てるフォルムが選ばれる。両者のどちらが先だったのかは、おそらく作品によって異なるでしょう。エミリア、ポモナ、ハッタラ、ポラリス、エデン——彼らが共作したシリーズの数々が、その対話の記録です。
旅する装飾画家——世界を巡るインスピレーション
ウオシッキネンは生涯で60回以上の海外旅行を行い、東アジアやアメリカをはじめ世界各地を訪れました。熟練した写真家でもあった彼女は、旅先で柄物の布地を蒐集し、異文化の装飾モチーフを貪欲に吸収しました。
アリのイスラム装飾、エミリアのアメリカ的情景——旅で得た体験が、食器の表面に異国の物語を描くインスピレーションの源泉となりました。1950年代のフィンランドから世界に目を向け、グローバルな感性をローカルな陶磁器に落とし込む。ウオシッキネンのデザインは、ヘルシンキの工場にいながら世界を旅する試みだったのかもしれません。
1954年にはミラノ・トリエンナーレ、1958年にはブリュッセル万博にアラビアの代表として出品。1960年のミラノ・トリエンナーレにも参加し、フィンランドデザインの国際的な評価を高める一翼を担いました。
退職後の日々——アラビアで培った知識を次世代へ
1986年にアラビアを退職した後も、ウオシッキネンと工場との縁は完全には切れませんでした。退職後の彼女は、ヘルシンキのアラビア工場のすぐ近くに暮らしていたといいます。美術史研究者Satu Kähkönenが研究のために訪ねた際、ウオシッキネンは自らのキャリアを慣れた様子で語り、退職から何年も経っていたにもかかわらず「ときおり工場に立ち寄っている」と話していたと記録されています。
同時に、ウオシッキネンは教育者でもありました。Toimela自由学校では磁器絵付けを、ヘルシンキ芸術デザイン大学(現アールト大学)では陶磁器の量産装飾を教えています。これは単なる趣味の絵付け教室ではありません。アラビアで39年にわたり培った、手描き・銅版転写・シルクスクリーン・量産装飾の知識を、次の世代へ手渡す仕事でした。
ウオシッキネンは、作品を残しただけのデザイナーではありません。アラビアの装飾を支えた技術と考え方そのものを、教育を通じて後世へ伝えた人物でもありました。
2004年1月15日、ヘルシンキにて逝去。享年80歳。アラビアの装飾部門に39年を捧げ、退職後の18年間も教育者としてその知識を伝え続けた生涯でした。ウオシッキネンの作品はヘルシンキ・デザインミュージアムに収蔵され、フィンランドのデザイン史にその名を刻んでいます。
まとめ
アラビアの歴史は、カイ・フランクやウラ・プロコッペのようなフォルムデザイナーだけで語ることはできません。白い器に線を引き、花を咲かせ、果実を置き、物語を描いた装飾デザイナーたちがいて、はじめて北欧の食器は家庭の記憶になりました。ライヤ・ウオシッキネンは、その中心にいた人物です。
エミリアには遠いアメリカへの憧れが、アリには異国の装飾への眼差しが、ポモナには日々の台所の楽しさが、カレワラにはフィンランドの叙事詩が刻まれています。手描きから銅版転写、シルクスクリーンまで——技法を器と素材に応じて使い分け、量産食器という枠組みのなかで装飾を芸術の領域へ押し上げた装飾デザイナー。オイバ・トイッカが彼女を「美の母」と紹介したのは、白い器に装飾という生命を与える役割そのものへの敬意でもありました。
退職後はToimela自由学校とヘルシンキ芸術デザイン大学で、アラビアで培った装飾の知識を後世へ手渡しました。ウオシッキネンの作品を手元に置くことは、フィンランドのデザイン史と、世界を旅した装飾デザイナーの視線を、暮らしの中に迎え入れることでもあります。