ウラ・プロコッペ完全ガイド|バレンシアとルスカを生んだARABIAの名匠
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この記事のポイント
- ウラ・プロコッペ(1921-1968)はARABIAの製品デザイン部門で約20年間活躍したフィンランドのデザイナー
- バレンシア、ルスカ、リエッキなどARABIAを代表するシリーズを数多くデザインした
- 彼女が設計したSモデルは、コスモスやコラーリなど後のデザイナーの装飾にも受け継がれた
- 陶磁器工場の粉塵による珪肺症のため、47歳で他界した
目次
ウラ・プロコッペとは——47歳で逝った「匿名」のデザイナー
ウラ・プロコッペ(Ulla Procopé, 1921-1968)は、フィンランドの陶磁器メーカーARABIAで約20年間にわたり活躍したデザイナーです。バレンシアのコバルトブルー、ルスカの深い茶褐色、リエッキの耐火ストーンウェア——いずれも北欧ヴィンテージ食器の愛好家なら一度は目にしたことがあるシリーズでしょう。それらはすべて、この一人のデザイナーの手から生まれました。
しかし、プロコッペの名前は、同時代のデザイナーに比べて広く知られているとは言えません。それは偶然ではなく、彼女自身の信念でもありました。上司であるカイ・フランクの「デザイナーは匿名であるべきだ。陶磁器工場の製品は常にチームワークによる量産品だから」という哲学を共有し、プロコッペは低い公的プロフィールを維持し続けました。
この記事では、ヘルシンキに生まれ、南フランスで少女時代を過ごし、ARABIAのトウコラ工場で黙々と轆轤を回し続けた名匠の生涯と、彼女が残した作品群をたどります。
生い立ち——ヘルシンキに生まれ、南フランスで育つ
1921年11月17日、ウッラ・エレオノーラ・マティルダ・プロコッペはヘルシンキで生まれました。父アレクサンデル・フレドリック・プロコッペはフィンランド軍の中佐で、白衛軍(スオイェルスクンタ)の司令官を務めた人物です。母カリン・マリア(旧姓スパーレ)はスウェーデン系フィンランド人でした。
しかし、ウッラが3歳のとき、母カリンが亡くなります。1924年のことでした。その後、彼女は南フランス——スペイン国境に近い地域——で少女時代を過ごしたとされています。地中海の温暖な気候、鮮やかな色彩、素朴な陶器文化。後にバレンシアの装飾に結実することになる南欧の記憶は、この時期に刻まれたのかもしれません。
タイデテオッリネン中央工芸学校——陶芸家への道
フィンランドに戻ったプロコッペは、ヘルシンキのタイデテオッリネン中央工芸学校(Taideteollisuuskeskuskoulu)で陶芸を学びました。この学校は1871年に設立されたフィンランド最古のデザイン教育機関で、当時はアテネウム美術館と同じ建物に入居していました。カイ・フランク、ルート・ブリュック、ビルガー・カイピアイネンなど、フィンランドの主要なデザイナーの多くがこの学校の出身です。
1948年に卒業した後、プロコッペはすぐにARABIA工場の門をくぐることになります。後にこの学校は「タイデテオッリネン・コルケアコウル」(芸術工科大学)に昇格し、1986年にはARABIA工場の敷地内に移転。2010年にアールト大学に統合され、現在は芸術デザイン建築学部として運営されています。
アラビアへ——1948年、トウコラの工場にて
1948年、27歳のプロコッペはヘルシンキ郊外トウコラのARABIA工場に入社しました。当時のARABIAは、戦後復興の真っただ中にありながら、フィンランドデザインの黄金時代を築こうとしていた時期です。
手絵付け部門での修業
プロコッペは最初、手絵付け部門に配属されました。ここでオルガ・オソル(Olga Osol)の指導のもと、陶磁器への絵付け技術を習得します。1950年頃には型・装飾部門に異動し、陶磁器の造形そのものに携わるようになりました。
この時期の修業が、後の彼女のデザインの基盤となります。絵付けの技術を体で知っていたからこそ、絵付け師にとって描きやすいフォルムを設計でき、釉薬の挙動を理解した上で形状を決定できたのです。
カイ・フランクのチームへ
1956年、プロコッペは製品デザイン部門に復帰し、カイ・フランク率いるチームの一員となりました。このチームは、フランク(部門長)、プロコッペ(陶芸家)、ヨーラン・ベック(轆轤師)、カーリナ・アホ(型図面師)の4人で構成されていました。
フランクのもとで、プロコッペは「日常のための実用的な陶磁器」というデザイン哲学を深めていきました。フランクが提唱した「デザイナーの匿名性」——量産品は個人の署名作品ではなく、チームワークの成果であるという考え——をプロコッペは忠実に守り、生涯にわたって低い公的プロフィールを維持しました。
リエッキ(Liekki)——炎の名を持つ耐火食器
1957年に発表されたリエッキ(Liekki、フィンランド語で「炎」)は、プロコッペの初期の代表作です。ARABIA研究所が開発した新しい耐火ストーンウェア素材を用い、オーブンや直火にも耐える調理器具として設計されました。「オーブンからそのままテーブルへ」というコンセプトは、当時としては画期的なものでした。
リエッキは同年のミラノ・トリエンナーレで名誉賞を受賞。1978年まで生産が続けられました。温かみのある茶色の釉薬をまとったその素朴な姿は、フィンランドの家庭の日常に深く根づいていたのです。
ルスカ(Ruska)——フィンランドの秋を器に
1960年にデザインされ、1961年から1999年まで実に38年間にわたって生産されたルスカ(Ruska、フィンランド語で「紅葉」「秋の茶色」)は、プロコッペの最大のヒット作であり、ARABIA史上最も長く愛されたシリーズのひとつです。
ルスカの最大の特徴は、ARABIAの量産品としては初めてマット釉薬を採用したことです。茶色の濃淡と黒い斑点が織りなす釉薬の表情は、窯の中で一点ずつ異なる模様を描きます。まさに秋のフィンランドの森——赤や茶色に染まった木々と、落ち葉に覆われた大地——をそのまま器に映し取ったかのようです。
ルスカはプロコッペが設計したSモデルをベースとしています。このSモデルの汎用性の高さが、後にアネモネ、ロスマリン、コスモス、コラーリといった多彩な装飾シリーズを支えることになります。
バレンシア(Valencia)——コバルトブルーの手描き
1960年にデザインされ、2002年まで40年以上にわたって生産が続けられたバレンシアは、プロコッペの代表作として最も広く知られています。白磁にコバルトブルーで描かれた大胆な装飾は、南欧の陶器文化を思わせるものです。
バレンシアの装飾は全品が手描きでした。ステンシルや転写ではなく、熟練の絵付け師が一点一点筆を走らせたため、同じデザインでありながら微妙に異なる表情を持っています。バレンシアという名前は、スペインの地中海都市バレンシアに由来するとされ、少女時代を南フランスで過ごしたプロコッペの記憶が反映されていると考えられます。
バレンシアはNDモデルをベースとしており、ルスカのSモデルとは異なるフォルムラインです。端正でやや華奢なプロポーションは、コバルトブルーの装飾を引き立てるよう計算されていました。当初はフルーツ皿やチーズ皿など限定的なアイテムとして発売されましたが、1966年までに総合的なテーブルウェアに拡充されました。
バックスタンプに刻まれた「UP」
バレンシアの裏面には、「ARABIA FINLAND」の刻印に加えて、「UP」というイニシャルが手書きされていることがあります。これはウラ・プロコッペ(Ulla Procopé)のイニシャルです。その横に記された別のイニシャルは、実際に絵付けを担当した絵付け師のサインです。匿名性を旨としたプロコッペですが、バックスタンプには確かにその痕跡が残されています。
アネモネとロスマリン——花咲くSモデル
1961年から1962年にかけて、プロコッペはSモデルをベースに二つの花柄シリーズを発表しました。アネモネ(Anemone)は白地に青い花を手描きした清楚なシリーズ、ロスマリン(Rosmarin)は錆赤と茶色で花柄を描いた温かみのあるシリーズです。ロスマリンは1961年から1974年まで、アネモネは1962年から1976年まで生産されました。
アネモネとロスマリンは、ルスカと同じSモデルを共有しています。つまり、フォルムは同一でありながら、装飾によってまったく異なる印象を与えるのです。プロコッペが設計したSモデルの懐の深さを、最もわかりやすく示す例と言えるでしょう。
Sモデル——20世紀後半のARABIAを形づくったフォルム
プロコッペが1960年に設計したSモデルは、ARABIAの製品ラインにおいて極めて重要な役割を果たしました。ルスカ、アネモネ、ロスマリンだけでなく、以下のシリーズもすべてSモデルをベースとしています。
- コスモス(Kosmos)——グンヴァル・オリン=グレンクヴィストが装飾をデザイン(1963年)
- コラーリ(Koralli)——ライヤ・ウオシッキネンが装飾をデザイン(1983年)
- メリ(Meri)——青緑のグラデーション釉薬
つまり、プロコッペが設計した一つのフォルムが、異なるデザイナーの手を経て、20年以上にわたって新しい表情を生み出し続けたのです。これは、彼女のフォルムデザインがいかに完成度の高いものであったかを物語っています。「型師、工場研究所、窯番との成功した協力」——プロコッペが重視したチームワークの精神が、Sモデルの長寿命を支えました。
珪肺症との闘い——工房の粉塵が奪った命
プロコッペは、陶磁器工場で長年にわたり粉塵にさらされたことにより、珪肺症(シリコーシス)を発症しました。珪肺症は、シリカ(ケイ素の酸化物)の微粒子を吸入することで肺が線維化する職業病です。陶磁器の原料には大量のシリカが含まれており、轆轤作業や釉薬の調合時に発生する粉塵は、当時の作業環境では十分に管理されていませんでした。
1960年代半ば、プロコッペの症状は悪化し、轆轤作業が困難になりました。最晩年は製図台での作業に移行しましたが、病状の進行を止めることはできませんでした。1968年12月21日、療養先のスペイン・カナリア諸島テネリフェ島にて、ウラ・プロコッペは47歳で他界しました。
20年間の活動期間で、これほど多くのシリーズを生み出し、ARABIAの製品ラインの基盤を築いたことは驚異的です。彼女の仕事は、文字通り命を削って生まれたものでした。
没後の評価——世界の美術館に息づく作品
プロコッペの作品は、現在も世界各地の美術館に収蔵されています。ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館にはGAモデルのティーポット、リエッキのクッキングポット、ルスカのプレートが展示されています。ストックホルムのナショナルミュージアムにはルスカのティーカップが収められ、オランダのデザインミュージアムやオーストラリアのナショナル・ギャラリー・オブ・ヴィクトリアにも作品が所蔵されています。1957年のミラノ・トリエンナーレでは名誉賞を受賞し、アメリカやオランダの展覧会でも金メダルを獲得しました。
生前はデザイナーの匿名性を守り、静かに轆轤を回し続けたプロコッペ。しかし没後半世紀を経て、北欧ヴィンテージ食器への関心の高まりとともに、その名は再び脚光を浴びています。バレンシアのコバルトブルーを手に取るとき、ルスカの茶色い釉薬を眺めるとき、私たちはプロコッペが残した「匿名の仕事」の確かさに触れているのです。
まとめ
- ウラ・プロコッペ(1921-1968)はARABIAで約20年間活躍し、バレンシア、ルスカ、リエッキなどの名作シリーズを生んだ
- 彼女が設計したSモデルは、コスモスやコラーリなど後続シリーズの基盤となり、20世紀後半のARABIA製品ラインを形づくった
- カイ・フランクの「デザイナーの匿名性」という哲学を共有し、チームワークによる量産品の質を追求した
- 陶磁器工場での粉塵による珪肺症のため、47歳で他界。現在は世界各地の美術館に作品が収蔵されている