辰砂釉(オックスブラッド)花瓶

フリードル・ホルツァー=キェルベリ完全ガイド|アラビアの「米粒磁器」を生んだオーストリアの陶芸家

この記事の要点

  • 1905年オーストリア生まれ。19歳でフィンランドに渡り、アラビア製陶所に46年間勤務した陶芸家
  • 1931年、ウィーンの美術館で出会った中国・乾隆帝時代の玲瓏磁器に魅せられ、11年の歳月をかけて「米粒磁器(リーシポスリーニ)」を完成させた
  • 辰砂釉(オックスブラッド)やターコイズ釉など、独自の釉薬開発でも知られる
  • 1954年ミラノ・トリエンナーレ金メダル、1962年プロ・フィンランディア勲章を受章
  • ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ヴィクトリア&アルバート博物館、大英博物館など世界の主要美術館に作品が所蔵されている

目次

  1. フリードル・ホルツァー=キェルベリとは
    1. オーストリアからフィンランドへ
    2. グラーツの工芸学校で陶芸と出会う
  2. アラビアでの46年——19歳から始まった挑戦
    1. 姉マリアとヘルシンキの日々
    2. トゥーコラの工場で
  3. 米粒磁器(リーシポスリーニ)の誕生
    1. ウィーンでの運命的な出会い
    2. 11年の開発、1942年の完成
    3. 20人の職人が紡ぐ「光の器」
  4. 釉薬の探求者——もうひとつの顔
    1. 辰砂釉(オックスブラッド)
    2. 孔雀のターコイズ
  5. 国際舞台での評価
  6. アラビア博物館のディレクター
  7. 東洋と北欧をつなぐ磁器の系譜
  8. ポルヴォーの晩年——穏やかな終章
    1. 世界の美術館に息づく光

フリードル・ホルツァー=キェルベリとは

1925〜1926年頃のフリードル・ホルツァー=キェルベリ
1925〜1926年頃のフリードル・ホルツァー=キェルベリ。フィンランドに渡って間もない若き日のポートレート(撮影:マリア・ホルツァー/ヘルシンキ市立博物館蔵、CC BY 4.0)

フリードル・ホルツァー=キェルベリ(Friedl Holzer-Kjellberg、1905〜1993年)は、フィンランド・アラビア製陶所の美術部門で46年間にわたって活動したオーストリア出身の陶芸家です。

19歳でオーストリアからフィンランドに渡り、アラビアに入社。中国の伝統的な玲瓏(リンロン)磁器に着想を得た「米粒磁器(リーシポスリーニ)」を11年の開発期間を経て完成させ、世界的な名声を築きました。ミラノ・トリエンナーレでの金メダルやプロ・フィンランディア勲章など数々の栄誉に輝き、その作品はMoMA、V&A、大英博物館など世界中の美術館に収められています。

米粒磁器の成功だけでなく、辰砂釉やターコイズ釉といった独自の釉薬開発、さらにはアラビア博物館のディレクターとしても活躍しました。オーストリアとフィンランド、そして中国の陶磁器の伝統を結びつけた、北欧デザイン史における稀有な存在です。

オーストリアからフィンランドへ

オーストリア・レオーベンの中央広場
オーストリア・シュタイアーマルク州レオーベンの中央広場(ハウプトプラッツ)。ペスト記念柱と歴史的な建物が並ぶ(撮影:Aciarium、CC BY-SA 4.0)

1905年10月24日、フリードルはオーストリアのシュタイアーマルク州に生まれました。アルプスの緑深い丘陵地帯が広がるこの地方は、オーストリア第二の都市グラーツを州都とする文化的にも豊かな土地です。

幼少期をオーストリアで過ごした彼女は、やがて陶芸への情熱に導かれ、州都グラーツの工芸学校へと進みます。この選択が、遠く離れた北欧の地での生涯を決定づけることになりました。

グラーツの工芸学校で陶芸と出会う

グラーツ・オルトヴァイン広場の工芸学校
グラーツ・オルトヴァイン広場の工芸学校校舎。1925〜1926年に建設されたヴェルクブント様式のファサードが残る(撮影:Turko Wilhelm、CC BY-SA 4.0)

フリードルはグラーツの工芸学校(Kunstgewerbeschule Graz)で美術とデザインを学びました。ドイツ語圏の工芸学校は、絵画や彫刻だけでなく、陶芸、織物、金属加工など実践的な技術教育を重視する教育機関でした。ここでフリードルはろくろの基礎技術を身につけ、素材と向き合う陶芸の本質を体得していきます。

卒業間近のころ、遠いフィンランドのアラビア製陶所からデザイナーとしての採用の誘いが届きます。当時のアラビアは、ヨーロッパ各地から才能ある陶芸家を積極的に招いていました。フリードルはこの招きに応じ、まだ見ぬ北の国へ旅立つ決意をします。

アラビアでの46年——19歳から始まった挑戦

冬のコートを着たフリードル、背景に蒸気船
冬のコートを着たフリードル・ホルツァー。背景にバルト海の蒸気船が見える。フィンランドでの初期の一枚(ヘルシンキ市立博物館蔵、CC BY 4.0)

1924年、19歳のフリードルは姉マリア・ホルツァーの要請を受け、フィンランドへ渡りました。アラビア製陶所にデザイナーとして入社し、以後1971年の退職まで46年間、この工場で創作を続けることになります。

当時のフィンランドは独立からわずか7年。ヘルシンキの冬は彼女の故郷オーストリアとは比較にならないほど厳しく、言葉も文化も異なる環境でした。しかし若きフリードルは、アラビアの工房に生涯の居場所を見出していきます。

姉マリアとヘルシンキの日々

1924年のヘルシンキ、海岸でのフリードルと姉マリア
1924年のヘルシンキ。右が陶芸家フリードル・ホルツァー=キェルベリ、左が姉で写真家のマリア・ホルツァー。ヘルシンキの海岸にて(ヘルシンキ市立博物館蔵、CC BY 4.0)

フリードルのフィンランドでの暮らしを支えたのは、姉のマリア・ホルツァーでした。マリアは写真家として活動しており、ヘルシンキ市立博物館には彼女が撮影したフリードルの写真が多数所蔵されています。海辺で寄り添う姉妹の姿、カードゲームに興じる日常——マリアのレンズを通して、異国で新生活を築いていくフリードルの姿が伝わってきます。

1932年、フリードルはアラビアのエンジニアであったエリク・キェルベリ(Erik Kjellberg)と結婚しました。以後、旧姓を冠した「ホルツァー=キェルベリ」の名で知られるようになります。

トゥーコラの工場で

トゥーコラのアラビア磁器工場
20世紀初頭のトゥーコラ地区。右手にアラビア磁器・ファイアンス工場(ハメーンティエ135番地)が見える(撮影:シグネ・ブランデル、ヘルシンキ市立博物館蔵、CC BY 4.0)

アラビア製陶所は、ヘルシンキ北部のトゥーコラ地区に位置していました。1873年にスウェーデンのロールストランド社の子会社として創業し、フリードルが入社した1924年にはすでにフィンランド最大の陶磁器メーカーに成長していました。

現在のアラビア工場建物
現在のアラビア工場建物。アラビアンランタ地区のランドマークとして残り、芸術デザイン大学が入居している(撮影:Markus Koljonen、CC BY-SA 3.0)

フリードルがアラビアで最初に手がけた作品は、大きな透かし彫りのボウルでした。磁器の壁に穴を開けるという、のちの米粒磁器にも通じる技法との出会いが、キャリアの出発点にあったことは、後年の米粒磁器との接点を予感させるものでした。

米粒磁器(リーシポスリーニ)の誕生

玲瓏磁器のティーポット
中国の玲瓏(リンロン)磁器のティーポット。米粒状の透かし穴に釉薬が膜を張り、光にかざすと半透明に輝く。フリードルはこの技法に魅せられ、北欧の地で独自の米粒磁器を完成させた(撮影:Wildfeuer、CC BY-SA 3.0)

フリードル・ホルツァー=キェルベリの名を世界に知らしめたのは、「米粒磁器」と呼ばれる透光性の磁器です。フィンランド語で「リーシポスリーニ(riisiposliini)」、英語では「ライスポーセリン(rice porcelain)」と呼ばれるこの技法は、磁器の壁に米粒状の小さな穴を開け、釉薬で覆うことで光が透けて見える半透明の窓をつくり出すものです。

ウィーンでの運命的な出会い——中国の玲瓏磁器

玲瓏磁器のティーカップ
中国の玲瓏磁器ティーカップ。光に透ける米粒状の透かし模様が特徴。フリードルが1931年にウィーンで見た乾隆帝時代の磁器も、このような透光性をもっていた(撮影:Wildfeuer、CC BY-SA 3.0)

転機は1931年に訪れました。フリードルはウィーン応用美術館(Museum für angewandte Kunst)を訪れた際、18世紀・清朝乾隆帝時代の中国磁器に出会います。そこには「玲瓏(リンロン)」と呼ばれる透かし彫りの技法で作られた皿がありました。

玲瓏磁器は、中国語で「精巧な透かし細工」を意味し、明朝永楽年間(15世紀初頭)に景徳鎮で生まれたとされる伝統技法です。薄い磁器の壁に小さな穴を開け、釉薬を掛けて焼成すると、穴の部分が半透明のガラス質の膜で覆われ、光にかざすと美しく輝きます。

この繊細な光の表現に、フリードルは深く心を動かされました。オーストリアからフィンランドに渡り、アラビアの工房でろくろに向かい続けてきた陶芸家が、故郷近くのウィーンで東洋の磁器と出会う——その瞬間から、米粒磁器の開発が始まりました。

11年の開発、1942年の完成

ウィーンでの出会いから米粒磁器の最初のコレクションが発売されるまで、実に11年の歳月が流れています。中国の伝統技法を北欧の工場環境で再現するには、素地の配合、壁の厚み、穴の大きさ、釉薬の粘度、焼成温度——あらゆる要素を一から試行錯誤する必要がありました。

1942年、ついに米粒磁器の最初のコレクションが発売されます。以後10年間、米粒磁器はアラビアのベストセラーであり続けました。カップ&ソーサー、ボウル、花瓶、コーヒーセット、ティーセット——さまざまな器が、透き通る光の文様をまとって北欧の家庭に届けられました。

フリードルは米粒磁器に複数のパターンを生み出しています。枝をモチーフにした「オクサ(Oksa)」、縞模様の「ヴィール(Viiru)」、規則的な列の「リヴィ(Rivi)」、真珠のような「ヘルミ(Helmi、1969年)」、葉の「レフティ(Lehti)」、光線の「サデ(Sade)」——いずれもフィンランド語の自然由来の名が付けられ、北欧の自然と東洋の伝統が溶け合うフリードルの世界観を象徴していました。

20人の職人が紡ぐ「光の器」

米粒磁器の製造工程は、極めて労働集約的なものでした。一つの器が完成するまでに、およそ20人の職人が関わったといわれています。

まず、ろくろで極めて薄い壁の磁器を成形します。乾燥する前に、米粒状の小さな楕円形の穴をパターンに沿って一つひとつ手作業で切り抜きます。この工程では、壁が薄すぎると崩れ、厚すぎると光を通さないため、職人の経験と繊細な手の感覚が求められました。

穴を開けた素地を素焼きした後、釉薬を全体にかけて本焼きします。焼成の過程で、釉薬が穴の上にガラス質のフィルム状の膜を形成し、穴は完全に塞がれます。しかし、そのフィルムは周囲の壁よりもはるかに薄いため、光にかざすと半透明の窓のように輝くのです。

この精緻な技術ゆえに不良率は高く、価格も決して安くはありませんでした。それでも人々は米粒磁器を求め続けました。1942年から1974年まで、32年間にわたって生産が続けられたことが、その人気の証です。

釉薬の探求者——もうひとつの顔

清朝康熙期の辰砂釉花瓶
清朝康熙期(1662〜1722年)の辰砂釉(郎窯紅)花瓶。銅を用いた還元焼成による深い血赤色は、西洋では「オックスブラッド」と呼ばれた。フリードルはこの東洋の伝統釉を北欧の窯で再現した(Chazen Museum of Art所蔵、CC0)

米粒磁器の成功に隠れがちですが、フリードルは釉薬の開発においても卓越した才能を発揮しました。アラビアの研究所長と密接に協力しながら、独自の釉薬を次々と調合していきます。

辰砂釉(オックスブラッド)——深紅の器

1940年代から開発を始めた辰砂釉は、銅を含む釉薬を還元焼成によって発色させる技法です。中国では古くから「郎窯紅」や「牛血紅」として珍重された深い血赤色を、フリードルは北欧の窯で再現しました。

彼女の辰砂釉による大型の壺やボウルは、ヘルシンキ市の公式贈答品としても採用されました。国賓や外交使節に贈られるフィンランドの「顔」として、フリードルの器が選ばれていたのです。

孔雀のターコイズ

辰砂釉と並んでフリードルの代表的な釉薬に、鮮やかなターコイズブルーの「孔雀」釉があります。アラビアの研究所長と共同で調合した釉薬で、その名の通り孔雀の羽のような深みのある青緑色が特徴でした。

またコバルトブルーの釉薬も得意とし、大型の壺やボウルに施しました。フリードルにとって釉薬の探求は、米粒磁器とは別のもうひとつの創造の柱でした。本人は米粒磁器の成功に対して「次々と新しいデザインを求められることへの重圧」を感じており、むしろ新しいアイデアや実験に取り組みたかったと伝えられています。

国際舞台での評価

ヘルシンキ・デザインミュージアム
ヘルシンキのデザインミュージアム(2019年撮影)。フリードルの作品はこの美術館をはじめ、世界各国の主要コレクションに収められている(撮影:Vadelmavene、CC BY-SA 4.0)

フリードルの才能は、国際的な展覧会を通じて早くから評価されていました。主な受賞歴は以下の通りです。

  • 1929年: バルセロナ万国博覧会に出品
  • 1933年: 第5回ミラノ・トリエンナーレ——銀メダル
  • 1935年: ブリュッセル万国博覧会——金メダル
  • 1937年: パリ万国博覧会——銀メダル
  • 1954年: 第10回ミラノ・トリエンナーレ——金メダル
  • 1962年: プロ・フィンランディア勲章(フィンランド獅子勲章)

特に1954年のミラノ・トリエンナーレでの金メダルは、米粒磁器が世界的に認められた象徴的な瞬間でした。同時期、フィンランドからはカイ・フランクやタピオ・ヴィルカラといった巨匠たちも国際舞台で活躍しており、フリードルは彼らと肩を並べてフィンランドデザインの黄金時代を支えた一人でした。

1952年から1954年にかけては、英国、米国、カナダへの巡回展にも参加。北欧の枠を超えてフリードルの名は世界に広まっていきます。

アラビア博物館のディレクター

1965年のアラビア工業地区航空写真
1965年のアラビア工業地区の航空写真。フリードルが働いた工場群が広がるトゥーコラ地区の全貌(撮影:SKY-FOTO Moller、CC BY-SA 4.0)

1948年、思いがけない転機が訪れます。アラビア工場内の博物館を管理していたクルト・エクホルムがヨーテボリへ移ったことで、フリードルが後任のディレクターに就任したのです。

アラビアの博物館には、1873年の創業以来の膨大なコレクションが収蔵されていました。フリードルは多言語を操る語学力を活かし、国内外の来客にガイドを務めました。工房で作品を生み出す陶芸家であると同時に、アラビアの歴史を伝える語り部でもあったのです。

東洋と北欧をつなぐ磁器の系譜

フリードルの芸術を語る上で欠かせないのが、東洋の陶磁器の伝統との深い結びつきです。

米粒磁器の原型である中国の玲瓏磁器は、15世紀の景徳鎮に端を発し、清朝の乾隆帝時代に最盛期を迎えました。西洋では「ライスグレイン(米粒)」の名で知られていますが、実際には米粒を埋め込むのではなく、磁器の壁に穴を切り抜く技法です。

フリードルの影響は中国陶磁器に留まりませんでした。彼女は1949年に中国・宋代の碗について「形は完璧で永遠だ。それは陶芸家から陶芸家への挨拶であり、メッセージだ」と記しています。辰砂釉もまた中国の伝統釉であり、フリードルの芸術の根底には常に東洋への敬意が流れていました。

こうした東洋の技法をフィンランドの地で独自に昇華させたフリードルの仕事は、北欧デザインが持つ「異文化からの吸収と独自の解釈」という特質を端的に示しています。オーストリアに生まれ、フィンランドで生き、中国の伝統に学んだ彼女の経歴そのものが、北欧デザインの国際性を体現していました。

ポルヴォーの晩年——穏やかな終章

ポルヴォー旧市街の赤い木造倉庫群
ポルヴォー旧市街の赤い木造倉庫群。ポルヴォー川沿いに並ぶこの風景は、フィンランドで最も有名な景観の一つ(撮影:Jae Lo Presti、CC BY-SA 4.0)

1971年、フリードルは66歳でアラビアを退職しました。46年間——人生の半分以上をこの工場に捧げた歳月でした。米粒磁器の生産は彼女の退職後もしばらく続きましたが、1974年に終了しています。

ポルヴォー大聖堂
ポルヴォー大聖堂(2024年9月撮影)。15世紀に遡るこの石造りの教会は、ポルヴォー旧市街の丘の上に立つ。フリードルが晩年を過ごしたこの街は、フィンランドで2番目に古い歴史ある都市(撮影:Christian David、CC BY-SA 4.0)

フリードルは晩年をポルヴォーで過ごしたとされています。ポルヴォーはヘルシンキの東約50kmに位置するフィンランドで2番目に古い都市で、赤い木造倉庫群が川岸に並ぶ美しい旧市街で知られています。1993年9月11日、フリードルはこの穏やかな街で87年の生涯を閉じました。

世界の美術館に息づく光

2024年のアラビアンランタ地区
2024年のアラビアンランタ地区。かつてアラビア工場が立ち並んだこのエリアは、現在は住宅と文化施設が融合する創造的な地区に生まれ変わった(撮影:Safa Hovinen、CC BY 2.0)

フリードルの作品は、世界の主要な美術館に収蔵されています。

  • ニューヨーク近代美術館(MoMA)
  • ヴィクトリア&アルバート博物館(V&A、ロンドン)
  • 大英博物館(ロンドン)——ヘルミ(1969年)の米粒磁器セットを所蔵
  • デザインミュージアム・ヘルシンキ
  • チューリッヒ・デザイン美術館
  • アムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum)
  • ロースカ美術館(ヨーテボリ)
  • ウニヴェルザールミュージアム・ヨアネウム(グラーツ)——故郷の美術館
  • ファエンツァ陶磁器博物館(イタリア)
  • コレクション・カッコネン(フィンランド)——EMMA美術館に常設展示

故郷グラーツの美術館から、フィンランドの美術館、ロンドン、ニューヨークまで——フリードルが生涯をかけて追い求めた「光の器」は、世界中の展示室で今も静かに光を透かし続けています。

そして、フリードルが46年間通い続けたトゥーコラの工場は、現在「アラビアンランタ」と呼ばれる地区に姿を変えました。工場の煉瓦造りの建物は文化遺産として保存され、芸術大学や住宅が立ち並ぶ創造的なエリアとして、新たな命を吹き込まれています。

まとめ

  • 本名: フリードル・キェルベリ(旧姓ホルツァー)
  • 生没年: 1905年10月24日〜1993年9月11日(87歳)
  • 出身: オーストリア・シュタイアーマルク州
  • 活動拠点: フィンランド・ヘルシンキ、アラビア製陶所(1924〜1971年、46年間)
  • 代表作: 米粒磁器(リーシポスリーニ、1942〜1974年)、辰砂釉・ターコイズ釉の陶器
  • 主な受賞: ミラノ・トリエンナーレ金メダル(1954年)、プロ・フィンランディア勲章(1962年)
  • 所蔵先: MoMA、V&A、大英博物館、デザインミュージアム・ヘルシンキほか
  • 配偶者: エリク・キェルベリ(Arabia社エンジニア、1932年結婚)

あわせて読みたい関連記事

関連商品をチェック

コラムに戻る