イングリッド・アトテルバーグのシャモットシリーズの花器

イングリッド・アッテルベリ完全ガイド|黒い素地と釉薬を探求したスウェーデン陶芸家

この記事の要点

  • イングリッド・アッテルベリ(Ingrid Atterberg、1920〜2008年)は、ウプサラ・エクビー(Upsala-Ekeby)に1944年から1963年まで在籍したスウェーデンの陶磁器デザイナー
  • 赤い粘土に酸化マンガンを加えた黒い素地を用い、掻き落としや釉薬表現を組み合わせた作品で知られる
  • 代表作はインカ(Inca、1947年)、スピラル(Spiral、1949年)、シャモット(Chamotte、1957〜59年)など、約20年の在籍期間に数多くのシリーズやコレクションを手がけた
  • ミラノ・トリエンナーレなど国際的な場でも評価されたと紹介されています(受賞年・対象作品は資料により記述が分かれる)。1961年にはスウェーデン手工芸・工業デザイナー協会(KIF)の共同創立メンバーとなった
  • 1963年にウプサラ・エクビーを離れ、1970年に自身の工房を構え、1990年代半ばまで制作を続けた

黒土と釉薬を探求した陶芸家

イングリッド・アッテルベリのポートレート
イングリッド・アッテルベリ(1920〜2008年)。撮影年・撮影者不詳(Upplandsmuseet所蔵) / 出典: SKBL(Svenskt kvinnobiografiskt lexikon)

スウェーデン中部の街ウプサラ。1944年にこの街にやってきた一人の陶芸家が、約20年にわたり、粘土や釉薬の表現を深く探求しました。イングリッド・アッテルベリ(Ingrid Atterberg、1920〜2008年)です。

1944年から1963年まで在籍したウプサラ・エクビー(Upsala-Ekeby)で、彼女は数多くのシリーズやコレクションを手がけました。インカ(Inca、1947年)、スピラル(Spiral、1949年)、シャモット(Chamotte、1957〜59年)——いずれもスウェーデン・モダニズム陶芸を語るうえでよく取り上げられるシリーズで、いまもオークションで取引されています。

しかし彼女の特徴は、形そのものよりも、形を支える素材表現にありました。赤い粘土に酸化マンガンを加えた黒い素地、シャモットの粒子を粒子のまま残す素地づくり、何層にも重ねた釉薬で深いクラクル(貫入)を生む技術——アッテルベリは、素材と焼成に対する深い関心を作品に反映したデザイナーでした。本記事では、その生涯と代表作、そしてウプサラ・エクビーという工場における位置を、写真とともにたどります。

生い立ち——ヘーンェサンドからヨーテボリへ

1920年、ボスニア湾の港町に生まれて

ヘーンェサンドのストール通り
ヘーンェサンドのストール通り。ボスニア湾に面したスウェーデン北部の港町で、アッテルベリは1920年5月11日にここで生まれた / Photo: Wikimedia Commons / Public domain

イングリッド・マグダレーナ・アッテルベリは1920年5月11日、スウェーデン北部の港町ヘーンェサンド(Härnösand)で生まれました。ボスニア湾に面した小さな街で、当時の人口は約1万人。19世紀には木材輸出の港として栄え、20世紀には行政と教育の街として知られていました。

父はスウェーデン国営電気通信庁の無線電信部門の責任者として勤務していた人物です。アッテルベリ家は技術系の知識層で、後年の彼女が粘土の化学組成や焼成温度に踏み込んでいく素地は、こうした家庭環境にもあったと考えられます。

ヨーテボリで過ごした幼少期

アッテルベリの幼少期は、北部のヘーンェサンドではなく、スウェーデン西海岸の大都市ヨーテボリ(Göteborg)で過ごされました。父の転勤に伴い一家は南へ下り、彼女はヨーテボリで育ちました。スウェーデン第二の都市であり、北海貿易の中心地でもあるこの街は、北欧モダンデザインの一大拠点でもありました。

スロイド協会工芸学校(現HDK)での学び

ヨーテボリのスロイド協会工芸学校
ヨーテボリ・スロイド協会工芸学校(Slöjdföreningens skola)。アッテルベリは1940〜1943年にこの学校で陶芸を学んだ / Photo: Wikimedia Commons / Public domain

1940年、アッテルベリはヨーテボリのスロイド協会工芸学校(Slöjdföreningens skola)に入学しました。スロイド協会は1848年に設立されたスウェーデン最古の工芸教育機関のひとつで、現在はHDK-Valand(イェーテボリ大学デザイン・工芸・美術アカデミー)として続いています。

現在のHDK校舎
現在のHDK校舎(ヨーテボリ)。アッテルベリが学んだスロイド協会工芸学校は、いまHDK-Valandとしてこの場所で続いている / Photo: Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

彼女が専攻したのは陶芸でした。当時の同校では、デザインだけでなく、ろくろの引き方、釉薬の調合、窯の温度管理まで含めた実技教育が行われていました。アッテルベリは在学中にろくろの職人資格(journeyman's certificate)を取得し、釉薬の化学組成と焼成技術にも精通しました。これは当時の陶磁器デザイナーとしては珍しく踏み込んだ専門性で、後にウプサラ・エクビーで素材そのものを設計する仕事に直結します。

1943年に学校を卒業した彼女は、しばらくヨーテボリで制作を行った後、1944年にウプサラへ移ります。

ウプサラ・エクビーでの20年

1944年入社——ヴィッケ・リンドストランドのもとで

ウプサラの街並み
ウプサラの街並み。スウェーデン中部の大学都市で、ウプサラ・エクビーの工場はこの街の郊外にあった / Photo: Wikimedia Commons / Public domain

1944年、24歳のアッテルベリはウプサラへ移り、ウプサラ・エクビー(Upsala-Ekeby AB)にデザイナーとして雇われました。ウプサラ・エクビーは1886年に煉瓦工場として始まり、1920年代から装飾陶器の生産に乗り出していた会社で、1942年にはオレフォースから移籍したヴィッケ・リンドストランド(Vicke Lindstrand、1904〜1983年)を芸術監督に迎え、新しい時代を歩み始めていました。

ヴィッケ・リンドストランドのポートレート
ヴィッケ・リンドストランド(1904〜1983年)。1942年からウプサラ・エクビーの芸術監督を務め、アッテルベリが入社した時の上司にあたる / Photo: Wikimedia Commons / Public domain

アッテルベリはリンドストランドのもとで自由な創作環境を与えられました。同僚のひとりに、当時すでにウプサラ・エクビーで地位を築いていたアンナ=リーサ・トムソン(Anna-Lisa Thomson、1905〜1952年)がいます。トムソンはアール・デコと有機的フォルムを融合させた花瓶で名を馳せた女性陶芸家で、アッテルベリにとっては10歳以上年上の先輩でした。

アンナ=リーサ・トムソン
アンナ=リーサ・トムソン(1950年撮影)。アッテルベリが入社した時期のウプサラ・エクビーを代表する先輩デザイナーだった / Photo: Wikimedia Commons / Public domain

アッテルベリは工場内に手引きろくろの専用工房を設けてもらい、量産品とは別に、少量生産の作品や素材実験に取り組める環境を得ました。雇用されたデザイナーであると同時に、自分の素材実験を続けられる職人——その立場が、後の素材表現の探求につながっていきます。

マンガン粘土——黒い素地と掻き落としの表現

エクビー工場跡
ウプサラ郊外、エクビー工場跡。19世紀後半に煉瓦工場として始まり、後にウプサラ・エクビーの陶磁器生産の中核となった / Photo: Wikimedia Commons / David Castor / CC0

ウプサラ・エクビーの工場で伝統的に使われていたのは、近郊で採れる赤い粘土(赤褐色のテラコッタ素地)でした。焼き上がりは煉瓦と同じ赤茶色をしており、これに釉薬をかけて装飾陶器を仕上げるのが標準的な手順でした。

アッテルベリは1940年代、赤い粘土に酸化マンガン(manganese oxide)を加えた黒い素地を作品に用いました。酸化マンガンを加えた素地は、焼成後に深い灰黒色を帯びます。こうした黒い素地は、釉薬だけに頼らず、素地そのものを意匠として見せる表現につながりました。スウェーデン語ではこのような黒い粘土が svartlera と呼ばれます。

この黒土の上に、彼女は素地を削り出して白い装飾を浮かび上がらせる「掻き落とし(sgraffito)」の技法を組み合わせました。釉薬で着彩するのではなく、素地そのものを彫って表現するという、より直接的で原始的な装飾です。1950年代のアッテルベリ作品では、この「黒い素地+掻き落とし」の組み合わせが重要な表現の一つとなりました。

シャモットとシンテーゴッド——素材を表現に取り込む

エクビー工場のタイルストーブ
エクビー工場で作られたタイルストーブ。煉瓦と装飾陶器の両方を手がけた工場の原点が伝わる / Photo: Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

アッテルベリの素材表現は、マンガン粘土だけにとどまりません。1950年代後半には、粗いシャモット(chamotte)粒を含む素地を前面に出した作品にも取り組みました。シャモットとは、一度焼成した粘土を砕いて粒状にしたもので、これを生粘土に混ぜると、表面にざらついた質感が生まれ、亀裂を抑えながら大型の作品を焼くことができます。

シャモットを含む粗い素地は、表面にざらついた質感を与え、アッテルベリの作品に彫刻的な存在感をもたらしました。1957〜59年に発表されたシャモットシリーズは、この素材感を前面に出した作品群として知られています。

さらに彼女は「シンテーゴッド」(sintergods、焼結陶土)と呼ばれる、ストーンウェアに近い高温焼成の素地にも取り組みました。釉薬を介さずに素地そのものの色と質感で勝負する——彼女の陶芸観は、装飾を素材の中に溶かし込んでいく方向に進んでいきます。

国際的な評価——ミラノ・トリエンナーレなど

1957年ミラノ・トリエンナーレ会場
1957年の第11回ミラノ・トリエンナーレ会場。アッテルベリの作品もミラノ・トリエンナーレで評価された作家として紹介されている / Photo: Wikimedia Commons / Paolo Monti / CC BY-SA 4.0

アッテルベリの作品は、ミラノ・トリエンナーレなど国際的な場でも評価されたと紹介されています。ただし、受賞年や対象作品については資料によって記述が分かれるため、本記事では同展で評価を受けた作家として整理します。ミラノ・トリエンナーレは1920年代から続くデザインの国際展で、スカンディナビア・モダンの世界的評価が確立した舞台でもあります。

1960年代初頭には、海外の展示・工芸イベントでも評価されたと紹介されることがあり、彼女の作品はスウェーデン国内にとどまらず、ヨーロッパとアメリカで評価される存在になっていきました。

代表作シリーズを辿る

インカ(Inca、1947年)

インカシリーズのフロアベースとプレート
インカ(Inca)シリーズのフロアベースとプレート。素焼きに近い質感に幾何学的な掻き落とし装飾が施されている / 出典: Auctionet

1947年に発表されたインカ(Inca)シリーズは、アッテルベリの初期代表作です。素地は粗めの土を生かし、表面には階段状の幾何学文様や直線的なグラフィックが彫り込まれました。シリーズ名は古代アンデス文明にちなんでおり、当時のヨーロッパで広まっていた古代文明への関心を背景にした作品です。

インカには大型のフロアベース(床置きの花器)とプレート型作品が含まれ、装飾陶器でありながら建築的なスケールを持ちました。リンドストランド芸術監督が掲げていた「室内空間に置かれた彫刻としての陶器」という方針と、アッテルベリの幾何学的感覚が結びついたシリーズです。

スピラル(Spiral、1949年)

スピラルシリーズの花器
スピラル(Spiral)シリーズの花器。1949年発表、ろくろ目を生かしながら表面に渦巻きの彫りを刻んでいる / 出典: Auctionet

1949年のスピラル(Spiral)シリーズは、アッテルベリの装飾感覚がより自由になった作品です。ろくろで成形した素地の表面に、らせん状の凹凸を彫り、釉薬を部分的にかけることで、光が当たる場所と影になる場所のリズムを生み出しました。素材は赤土と、後にマンガン粘土の両方が使われています。

スピラルはオークションでもしばしば見かけるシリーズで、ペアで残るものは特に人気があります。1940年代後半のスウェーデン陶芸が、戦後の物資不足のなかで装飾を素地そのものに頼っていった流れを示す作品でもあります。

1950年代の黒土シリーズ

黒土の花器
マンガン粘土による黒い素地の花器。表面を彫り込む「掻き落とし」で白い線が浮かび上がる / 出典: Auctionet

1950年代を通じて、アッテルベリはマンガン粘土を使った一連の作品を発表しました。当時の作品名としては「Negro」「Somali」「Burma」「Inca」のように、古代文明や遠い土地の名が冠されています。これは1950年代欧州の装飾陶器に広く見られた命名傾向で、現代の感覚ではそのまま使うのが難しい呼称も含まれます。本記事では便宜上「黒土シリーズ」と総称します。

共通するのは、黒い素地の上に白い掻き落とし文様が彫り込まれている点です。装飾は抽象的な線、植物の輪郭、あるいは図像的な人物像など多岐にわたります。マンガン粘土は釉薬で覆わなくても完成された色を持つため、彫った線がそのまま白く残ります。素地の色と彫りの線、それだけで構成された禁欲的な装飾は、戦後のスウェーデン・モダニズムの一つの到達点でした。

シャモットシリーズ(Chamotte、1957〜59年)

シャモットシリーズの花器
シャモット(Chamotte)シリーズの花器。粗いシャモット粒を含む素地に厚い釉薬を流し掛けし、彫刻のようなフォルムを与えている / 出典: Auctionet

1957〜59年に発表されたシャモットシリーズは、アッテルベリの素材研究が結晶した作品群です。粗いシャモット粒をたっぷり含む素地に、不均一に厚い釉薬を流し掛けし、岩塊のような表面が生まれました。フォルムは抽象彫刻に近く、造形作品としての存在感が前面に出ています。

シャモットシリーズは、1957年に発表され、1959年頃まで製造されたと紹介されています。粗い素地と釉薬の対比を前面に出したこのシリーズは、アッテルベリの素材研究をよく示す仕事です。陶器の表面を「滑らかに整える」ことが当然視されていた時代に、あえて荒々しい質感を提示したアッテルベリの選択は、後のスカンディナビア・モダン陶芸における素材表現の流れとも響き合っています。

ブリス、ヴェストクスト——後期の手描き装飾

1960年代に入ると、アッテルベリの作品はより色彩豊かなものへ変化します。ブリス(Bris、「そよ風」の意)、ヴェストクスト(Västkust、「西海岸」の意)、ブルマ(Burma)といったシリーズには、手描きの花や葉、抽象的なリズムが描かれました。素地はマンガン粘土から赤土へ戻り、上絵付けや釉下彩で装飾が施されています。

これらの後期シリーズは、彼女自身が量産化と手仕事の境界線を意識し始めた時期のものです。1960年代のウプサラ・エクビーは機械化を進めており、アッテルベリはそのなかでも手描きでしか出せない表情を残そうとしていました。

イタリア・モンテルポでの2年間

モンテルポ・フィオレンティーノの遠景
モンテルポ・フィオレンティーノ(Montelupo Fiorentino)。フィレンツェ近郊の陶磁器の街で、アッテルベリは1952〜54年にここのMancioli Natale社で働いた / Photo: Wikimedia Commons / Sidvics / CC BY-SA 4.0

1952年から1954年にかけて、アッテルベリはイタリア中部トスカーナ州のモンテルポ・フィオレンティーノ(Montelupo Fiorentino)にあるマンチョーリ・ナターレ(Mancioli Natale)社で働きました。モンテルポはフィレンツェ近郊の小さな町ですが、ルネサンス期から続くマヨリカ陶器の伝統的な産地で、地中海陶芸の中心地のひとつです。

モンテルポ・フィオレンティーノの街並み
モンテルポ・フィオレンティーノの街並み。アッテルベリがイタリアで陶芸の在り方を見つめ直した街 / Photo: Wikimedia Commons / CC BY 4.0

地中海の陶芸文化に触れた経験は、後の作品理解において一つの背景として見ることができます。マンガン粘土の発想自体はスウェーデンの土から始まっていますが、素地の色を装飾の主体に据える発想は、地中海の素焼き陶器(マヨリカ以前のテラコッタ)と通じるものがあります。スウェーデンの北方的感性と、イタリアの素材主義が交差した時期でした。

1950年代にはほかに、スウェーデン国内のアルステルフォース(Alsterfors)、モーレロース(Målerås)といったガラス工場でもデザインの仕事を請け負っています。陶磁器とガラス、北方と南方を往復しながら、自身の表現を磨いていきました。

独立後の40年——ウプサラの工房で

1961年、KIFの共同創立

1961年、アッテルベリはスウェーデン手工芸・工業デザイナー協会(Sveriges konsthantverkare och industriformgivare、略称KIF)の共同創立メンバーとなりました。これは陶芸、ガラス、テキスタイル、家具など、手工芸と工業デザインの境界で働く職人・デザイナーたちが、自身の職業的地位と権利を守るために結成した協会です。翌1962年には理事会メンバーに選出されています。

この時期の彼女は、単なる雇われデザイナーではなく、業界全体の構造に関わる人物になっていきました。

1970年、ウプサラに自身の工房を開く

17世紀のウプサラ
17世紀のウプサラの街並み(『Suecia Antiqua et Hodierna』より)。スウェーデン最古の大学を擁する街で、アッテルベリは1970年からここで自身の工房を開いた / Photo: Wikimedia Commons / Public domain

1960年代の陶磁器産業では機械化と量産化が進み、手仕事を重視する作家にとって制作環境は変化していきました。アッテルベリも1963年にウプサラ・エクビーを離れ、のちに自身の工房で制作を続けます。手仕事を重視する制作姿勢と、量産化が進む産業陶磁器の環境との間には、次第に距離が生まれていったと見ることができます。

退社後の数年間(1963〜1969年)はフリーランスとして各地の窯で仕事を請け、1970年、ついにウプサラの郊外に自身の小さな工房を開きました。1970年、ウプサラ郊外に自身の小さな工房を開き、少量生産の手挽き作品を中心に、1990年代半ばまで制作を続けました。

多層クラクル釉薬への没頭

独立工房での後期作品で彼女が深く取り組んだのが、多層クラクル釉薬です。クラクル(craquelure)とは、釉薬の表面に意図的に細かい貫入(ひび)を入れた装飾技法を指します。釉薬と素地の収縮率の差を利用し、冷却過程でガラス質の釉薬に網目のような亀裂を生じさせます。

アッテルベリは赤、橙、紫といった鮮やかな色の釉薬を何層にも重ね、層ごとに異なる表情のクラクルが現れる、複雑な表面表現に取り組みました。1950年代の禁欲的な黒土シリーズから、晩年の色彩豊かな釉薬作品へ——50年に及ぶキャリアのなかで、彼女の表現は「素地」から「釉薬」へとゆっくりと比重を移していきました。

2008年3月27日に亡くなりました。享年87でした。

ウプサラ・エクビーの中での位置

アンナ=リーサ・トムソンのパプリカシリーズ
アンナ=リーサ・トムソンの代表作「パプリカ」(Paprika)。アッテルベリが入社した1944年のウプサラ・エクビーには、こうした有機的フォルムの先行作品があった / Photo: Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

ウプサラ・エクビーの100年あまりの歴史のなかで、アッテルベリは「素材そのものを表現の中心に据えたデザイナー」として位置付けられます。アンナ=リーサ・トムソンが有機的フォルムでウプサラ・エクビーの装飾陶器の方向性を切り開き、ヴィッケ・リンドストランド芸術監督が国際的なモダニズムをもたらしたあと、アッテルベリは粘土と釉薬の側から、工場の美術陶磁器に素材と釉薬を前面に出す方向性を加えました。

同時期にウプサラ・エクビーで活躍したデザイナーには、エステル・ヴァーリン(Ester Wallin)、ベリット・ターネル(Berit Ternell)、マリ・シムルソン(Mari Simmulson)らがいます。シムルソンが装飾画家としてカラフルな絵柄を残したのに対し、アッテルベリは素地そのものを語らせる方向に進みました。同じ工場のなかでも、デザイナーごとに表現の道筋はまったく異なっていたのです。

まとめ

この記事のまとめ

  • イングリッド・アッテルベリ(1920〜2008年)は、1944〜1963年にウプサラ・エクビーで活躍したスウェーデンの陶芸家
  • 赤土に酸化マンガンを加えた黒い素地、シャモットの粗い質感、シンテーゴッドの焼結素地など、素材そのものを表現の中心に据えた仕事に踏み込んだ
  • インカ(1947年)、スピラル(1949年)、シャモット(1957〜59年)、ブリス、ヴェストクストなど、約20年の在籍期間に、数多くのシリーズやコレクションを手がけた
  • ミラノ・トリエンナーレなど国際的な場で評価された作家として紹介され、1961年KIF共同創立。1963年にウプサラ・エクビーを離れ、1970年にウプサラで自身の工房を開いた
  • 晩年は多層クラクル釉薬に取り組み、素地から釉薬へ、50年かけて表現の比重を移し続けた

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