キュリッキ・サルメンハーラ(1960年頃)

キュリッキ・サルメンハーラとは|ARABIAアート部門を支えた陶芸家

この記事の要点

  • キュリッキ・サルメンハーラ(Kyllikki Salmenhaara、1915–1981)は、フィンランド北部の町テュルナヴァに生まれ、戦後のARABIA「アート部門」を内側から支えた陶芸家です
  • 1947年から約15年間ARABIAに在籍。ミラノ・トリエンナーレで4大会連続入賞(銀賞1951/名誉賞1954/グランプリ1957/金賞1960)
  • 1961年にPro Finlandia勲章を受章。1963年から母校(現在のアールト大学の前身)で教鞭をとり、1970年には工芸・工業芸術分野を代表する初期の教授職の一人として任命された
  • 1974年に陶芸技法書『Keramiikka, ammattitekninen käsikirja』を刊行し、翌1975年にフィンランド国家工業芸術賞を受賞した
  • 作風は「素材としての粘土」と「偶然性を許容する釉薬」。シャモット入りの炻器、重ねがけした釉薬、大ぶりの浅鉢型作品と細長い壺型作品で知られます

目次

  1. キュリッキ・サルメンハーラとは
  2. テュルナヴァに生まれて
  3. ヘルシンキ中央美術工芸学校とデンマーク修業
  4. ARABIAアート部門での仕事
  5. ミラノ・トリエンナーレと国際的評価
  6. アルフレッド大学留学とPro Finlandia受章
  7. 教育者としての後半生
  8. 晩年と『Keramiikka』
  9. バックスタンプの見方
  10. まとめ
  • テュルナヴァに生まれて——北部オストロボスニアの大地
    1. 幼少期と「芸術家になる」という宣言
    2. 家族に送り出されたヨーロッパ修業
  • ヘルシンキ中央美術工芸学校で陶芸と出会う
    1. 1943年の卒業と最初の職場
  • デンマーク・サクスボーへ——ナタリー・クレブスの教え(1946)
  • 1947年、ARABIAへ
    1. シャモット入りの炻器という選択
    2. 大ぶりの浅鉢型作品と細長い壺型作品
    3. 釉薬を「偶然」に任せる
  • ミラノ・トリエンナーレ4大会連続入賞
    1. 1951年 銀賞、1954年 名誉賞
    2. 1957年 グランプリ
    3. 1960年 金賞
  • 1956年、アルフレッド大学へ——アメリカ留学
  • 1961年、Pro Finlandia 受章
  • 教育者としての後半生(1963–1981)
    1. 1970年、工芸・工業芸術分野を代表する教授職に任命
  • 1970年代の客員講師活動と素材実験への関心
  • 晩年と遺産——『Keramiikka』(1974)
  • 同時代のARABIA陶芸家たち
  • バックスタンプの見方
  • 日本でサルメンハーラの仕事に触れる
  • キュリッキ・サルメンハーラとは

    ろくろを回すキュリッキ・サルメンハーラ
    1960年頃のキュリッキ・サルメンハーラ。ろくろの前で粘土と向き合っている(撮影:ペティネン/パブリックドメイン)。

    ARABIA「アート部門」の中核を担った陶芸家

    キュリッキ・サルメンハーラ(Kyllikki Salmenhaara、1915–1981)は、戦後フィンランドを代表する陶芸家の一人です。1947年から1961年までの約15年間、ヘルシンキのアラビア(ARABIA)工場「アート部門」に在籍し、ビルガー・カイピアイネン、トイニ・ムオナ、フリードル・ホルツァー=キェルベリといった同僚たちとともに、フィンランド陶芸を世界の表舞台へ押し上げた中心人物の一人でした。

    ミラノ・トリエンナーレでは1951年・1954年・1957年・1960年と4大会連続で入賞し、1957年にはグランプリ、1960年には金賞を獲得。1961年にはPro Finlandia勲章(フィンランド獅子勲章のメダル)を受けています。

    「素材」と「偶然」を信じた人

    サルメンハーラの仕事は、彼女と同じ年代のフィンランド陶芸家のなかでも独特の手触りを持っています。シャモット(耐火粘土の粒)を混ぜた粗い炻器、何層も重ねては拭き取られた釉、鉄分による斑点、釉が掛かるところと掛からないところを意図的に残した肌——。「素材としての粘土」と「偶然を許容する焼成」を彼女は生涯にわたって追い続けました。

    その姿勢はやがて、若い世代の陶芸家たちへ「工業デザインの中の手仕事」という、それまでフィンランドにあまり無かった選択肢を残すことになります。

    テュルナヴァに生まれて——北部オストロボスニアの大地

    テュルナヴァの麦畑
    サルメンハーラの生地、テュルナヴァ(Tyrnävä)の麦畑。北部オストロボスニアに広がる平らな耕作地は、フィンランドの「穀倉地帯」と呼ばれてきた(撮影:Estormiz/CC0)。

    幼少期と「芸術家になる」という宣言

    サルメンハーラは1915年7月14日、フィンランド北部の小さな町テュルナヴァに生まれました。オウル市のすぐ南、北部オストロボスニア(Pohjois-Pohjanmaa)の平らな耕作地に位置する町で、現在も人口は約7,000人。フィンランドでも有数の麦と馬鈴薯の産地として知られています。

    幼い頃から立体物を形づくることに夢中で、母親が後年「娘は子どもの頃から『芸術家になる』と脅していた」と振り返ったほどでした。家族はやがてヘルシンキへ移ります。

    テュルナヴァの耕作地に立つ農家
    テュルナヴァの耕作地に点在する木造の納屋。北部オストロボスニアの夏は短く、夜の九時を過ぎても光が残る(撮影:Estormiz/CC0)。

    家族に送り出されたヨーロッパ修業

    高校(リュセオ)を終えた頃、彼女の家族は「芸術家になる」という娘の夢を諦めさせようと、外国へ送り出します。行き先はイギリス、フランス、ベルギー、ドイツ、スウェーデン。家族の意図に反して、若いキュリッキはむしろこの旅で、ヨーロッパの陶芸とデザインを直接見て歩く時間を得ました。フィンランドへ戻ったとき、芸術家になる意志はかえって固まっていました。

    ヘルシンキ中央美術工芸学校で陶芸と出会う

    1907年のヘルシンキ・ヘメーンティエ通り
    1907年のヘルシンキ、ヘメーンティエ通り。サルメンハーラが学生として通った1930年代後半のヘルシンキも、まだ木造の建物が多く残っていた(撮影:シグネ・ブランデル/パブリックドメイン)。

    帰国後、サルメンハーラは1937年にヘルシンキの中央美術工芸学校(Taideteollisuuskeskuskoulu)の陶芸科に入学します。同校は現在のアールト大学芸術デザイン建築学部の前身にあたる学校で、1973年に「芸術デザイン大学(Taideteollinen korkeakoulu)」へ昇格し、2010年にアールト大学へ統合されました。

    1943年の卒業と最初の職場

    1943年に同校を卒業すると、サルメンハーラはエスポーのカウクラハティ硝子製作所(Kauklahden lasitehdas)で数年間働きました。陶芸科の卒業生がガラス工場に就職するのは珍しいことでしたが、彼女にとって「素材を扱う仕事」であれば陶もガラスも地続きでした。その後、1946年にデンマークのSaxbo工房で、ナタリー・クレブスのもと釉薬と炻器の研究に取り組みます。

    デンマーク・サクスボーへ——ナタリー・クレブスの教え(1946)

    デンマーク・グラッサクセの教会
    サルメンハーラが滞在したデンマーク・グラッサクセ(Gladsaxe)地区にあるブディンゲ教会。1946年、彼女はこの近郊にあったサクスボー工房で釉薬の研究に取り組んだ(撮影:Bob Collowân/CC BY-SA 3.0)。

    戦争が終わった翌年、1946年。サルメンハーラはデンマーク・コペンハーゲン郊外のグラッサクセ地区にあったサクスボー(Saxbo)工房を訪ねます。サクスボーは、化学者出身の陶芸家ナタリー・クレブス(Nathalie Krebs、1895–1978)が1929年に設立した小さな工房で、釉薬研究と少量生産の炻器で北欧陶芸の評価を大きく高めていました。

    グラッサクセのスネグレホイ
    グラッサクセ地区の小さな丘、スネグレホイ(Sneglehøj)。コペンハーゲンの北西郊外に広がる住宅街には、当時のデンマーク陶芸工房がいくつも点在していた(撮影:Praesepe/CC BY-SA 3.0)。

    クレブスは、化学を背景に持つ独立陶芸家として、当時のヨーロッパでも稀な存在でした。サルメンハーラはこの工房で釉薬の調合と還元焼成の技術を学びます。後年彼女が「偶然を許容する釉」を信じるようになった原点は、この一年間のサクスボー滞在にあったと語られます。

    1947年、ARABIAへ——アート部門の中核として

    工房で粘土を扱うサルメンハーラ
    1960年代、工房でろくろを使うサルメンハーラ。シャモットを混ぜた粗い土を、手で押さえながら成形している(撮影者不詳/パブリックドメイン)。

    デンマーク滞在から戻った翌1947年、サルメンハーラはARABIAに迎え入れられます。配属先は同社の「アート部門」(Taideosasto)。1932年にクルト・エクホルム(Kurt Ekholm)が立ち上げた、量産製品とは別枠の「一点物の芸術陶磁器」を生み出す部門で、当時の主任はフリードル・ホルツァー=キェルベリ、同僚にはトイニ・ムオナ、ビルガー・カイピアイネン、ルート・ブリュック、後にカイ・フランクが加わります。

    シャモット入りの炻器という選択

    ARABIAでサルメンハーラが選んだ素材は、磁器ではなく炻器(stoneware)でした。なかでも彼女が好んだのは、シャモット(chamotte:素焼きにした耐火粘土を粉砕した粒)を混ぜ込んだ土。シャモットは高温で焼いても収縮しにくく、土の保形性を高める一方、肌に独特のざらつきと粒立ちを残します。サルメンハーラの作品の表面に見える、まるで岩肌のような質感の正体はこのシャモットです。

    大ぶりの浅鉢型作品と細長い壺型作品

    サルメンハーラの代表的なフォルムは、二つに大別できます。一つは口径の大きな浅鉢。もう一つは、細く高く伸び上がる筒状の壺。両方ともろくろで成形しますが、しばしば複数のろくろ成形片を組み合わせて、一つの大きな陶芸作品に仕上げました。

    形は素朴で、装飾はほとんどありません。「装飾しない」ことが、彼女にとっての装飾でした。

    釉薬を「偶然」に任せる

    釉薬の扱いも、彼女の仕事を特徴づける重要な要素です。複数の釉を重ねがけし、一部を拭い去って下層を覗かせる。鉄分の粒が点々と浮かび上がるよう調整する。作品の一部だけに釉を掛け、残りはあえて素地のまま焼く。時折、銅釉による鮮やかな青を効かせる——。狙って作ったきれいな模様ではなく、火と粘土と釉薬の対話から生まれる偶然の景色を、彼女は信じました。

    このアプローチは、後述する日本の陶芸思想——特に「自然釉」や「窯変」を尊ぶ感覚——と深く呼応します。

    ミラノ・トリエンナーレ4大会連続入賞

    ミラノ・トリエンナーレ会場
    ミラノ・トリエンナーレ会場(Triennale di Milano)。1947年以降、北欧の工芸とデザインが世界的に注目される最大の舞台となった(撮影:Fabiotaffu/CC BY-SA 4.0)。

    1947年に再開されたミラノ・トリエンナーレは、3年に一度開催される国際デザイン・装飾芸術展で、戦後の北欧デザインにとって最大の国際舞台でした。1950年代のミラノ・トリエンナーレは、戦後フィンランドの工芸とデザインが国際的に評価される重要な舞台となり、サルメンハーラは1951年・1954年・1957年・1960年の各回に作品を出品しました。

    1951年 銀賞、1954年 名誉賞

    1951年の第9回トリエンナーレで、サルメンハーラは個人として銀賞を受賞。フィンランド・パビリオン全体としても大成功を収め、タピオ・ヴィルカラ(ガラス)、カイ・フランク(陶磁器・プロダクトデザイン)らとともに、フィンランド陶磁器の存在を欧州に知らしめました。1954年の第10回では名誉賞(Honourable Mention)を受けます。

    1957年 グランプリ

    1957年の第11回トリエンナーレで、サルメンハーラは陶磁器部門でグランプリを受賞します。同時期にスティグ・リンドベリ(グスタフスベリ)もグランプリを得ており、北欧陶磁器がもっとも華やいだ時期でした。

    1960年 金賞

    1960年の第12回トリエンナーレでは金賞。4大会連続での入賞は、当時の北欧陶芸家としても突出した成績でした。

    1956年、アルフレッド大学へ——アメリカ留学

    アルフレッド大学スタインハイム棟
    ニューヨーク州アルフレッドにあるアルフレッド大学のスタインハイム棟。同大学のニューヨーク州立陶磁芸術大学(NYSCC)は、20世紀を通じてアメリカ陶芸の中心地として知られた(撮影:Benjamin D. Esham/CC BY-SA 4.0)。

    ミラノでの受賞ラッシュの合間、1956年にサルメンハーラはアメリカ国務省のASLA(米国財団奨学金)フェローシップに選ばれ、ニューヨーク州アルフレッドにあるアルフレッド大学(Alfred University)に留学します。同大学に併設されたニューヨーク州立陶磁芸術大学(New York State College of Ceramics)は、20世紀のアメリカ陶芸界における最高峰の研究機関でした。

    アルフレッド大学のアルムナイホール
    アルフレッド大学のアルムナイホール(Alumni Hall)。サルメンハーラはこのキャンパスで、戦後アメリカの表現主義的な陶芸潮流に触れた(撮影:WereItNotSoSimple/CC BY-SA 4.0)。

    ニューヨーク州アルフレッド大学では、戦後アメリカ陶芸の研究環境に触れ、ヨーロッパの伝統的な陶芸フォルムとは異なる、より実験的な粘土と釉薬の扱いを学びました。同時代のアメリカ陶芸では、ピーター・ヴォーコス(Peter Voulkos)らに代表される抽象表現主義的な動きも広がっており、こうした時代の空気は、サルメンハーラの素材主義とも響き合うものでした。

    1961年、Pro Finlandia 受章

    ポートレートのキュリッキ・サルメンハーラ
    40代後半のキュリッキ・サルメンハーラのポートレート。ARABIA期の終盤、ミラノで4大会連続入賞を果たした頃に撮影された(撮影:ベルイェ・サンドベリ/CC BY 4.0)。
    フィンランド獅子勲章のPro Finlandiaメダル
    フィンランド獅子勲章のPro Finlandiaメダル。文化・芸術分野で顕著な功績を残したフィンランド人に大統領から授与される(フィンランド国立博物館所蔵/CC BY 4.0)。

    1961年、サルメンハーラはフィンランド共和国大統領からPro Finlandia勲章(フィンランド獅子勲章のメダル)を授けられます。文化・芸術分野で大きな貢献をしたフィンランド人に贈られる、フィンランドの文化勲章のなかでも最も格式の高い章の一つです。陶芸家としては、ARABIAアート部門の主任を長く務めたフリードル・ホルツァー=キェルベリに続く、初期の受章者の一人でした。

    これと同じ年、サルメンハーラはARABIAでの仕事を終え、フリーランスの陶芸家として独立します。約15年に及ぶARABIA期はここで一つの区切りを迎えました。

    教育者としての後半生(1963–1981)

    ヘルシンキのヘメーンティエ通り
    ヘルシンキのヘメーンティエ通り。アラビア工場を含む北部ヘルシンキの旧工業地区と都心をつなぐ大通りで、サルメンハーラはこの通り沿いの母校に通いつづけた(撮影:Tero Koistinen/CC BY-SA 4.0)。

    1963年、サルメンハーラは母校・中央美術工芸学校(当時の名称)の陶芸科に講師として迎えられます。本人は退社後しばらく独立工房での制作に集中していましたが、当時の友人で同僚だったカイ・フランク(同校で工業デザインを教えていた)と、マリメッコ創業者のアルミ・ラティアに説得され、教壇に立つことを決めたと伝えられます。

    1970年、工芸・工業芸術分野を代表する教授職に任命

    1970年、サルメンハーラは同校で工芸・工業芸術分野を代表する初期の教授職の一人として任命されます。「最終的に、肩書きには何の意味もない。そう大げさに受け取る理由は無い」と本人は受任の場で語ったと伝えられています。

    しかし、健康上の理由から教授職を続けられたのはわずか3年。1973年に教授職を退き、その後は健康と相談しながら同校の教員として若い陶芸家の指導を続けました。彼女が育てた次世代の中には、後にARABIAやヌータヤルヴィで活躍する陶芸家・ガラス作家が多数含まれます。

    1970年代の客員講師活動と素材実験への関心

    冬のオウランカ国立公園
    北部フィンランド、オウランカ国立公園の冬の風景。サルメンハーラが生まれた北部オストロボスニアの少し東に位置する(撮影:Petritap/CC BY-SA 4.0)。

    1960年代から1970年代にかけて、サルメンハーラは客員講師として複数の国を訪ねています。カナダのサスカチュワン大学とブリティッシュ・コロンビア大学(1964年と1969年)、アメリカのアルフレッド大学とアルビオン大学(1967年・1976年)、そして1970年代には台湾や日本を含む東アジアの陶芸文化にも関心を広げました。

    東アジアの陶芸文化のなかでも、低火度焼成で土の質感と火の偶然性を最大限に活かす楽焼(raku)のような技法は、彼女が長年探求してきた「素材と偶然を尊ぶ陶芸」と通じるものでした。サルメンハーラがこうした技法に注目したことは、後年の教育活動において、素材と焼成の実験を重視する姿勢につながったと考えられます。

    こうした東アジアの陶芸文化への関心は、彼女が教育者として重視した素材実験や焼成への探究心とも響き合うものだったと考えられます。サルメンハーラの教育は、特定の技法を教えることにとどまらず、粘土・釉薬・火の関係を自分の手で確かめる姿勢を若い陶芸家たちに促すものでした。

    北部オストロボスニアの大地で生まれ、デンマークで釉薬を学び、アメリカで戦後陶芸の潮流に触れ、東アジアで土と火の伝統に関心を向ける——。彼女の仕事は、フィンランドの土の上に、世界各地の陶芸思想を重ねた地層のようなものとなりました。

    晩年と遺産——『Keramiikka』(1974)

    フィンランド・クーサモの冬景色
    フィンランド北東部クーサモの冬。サルメンハーラの故郷テュルナヴァは内陸の平地ですが、北部フィンランド全体に共通する、白に覆われた季節の感覚は彼女の作品の余白にも通じる(撮影:Ninara/CC BY 2.0)。

    1974年、サルメンハーラは陶芸の技法書『Keramiikka, ammattitekninen käsikirja』を刊行しました。この本は翌1975年にフィンランド国家工業芸術賞を受賞し、長くフィンランド陶芸教育の基礎文献として参照されました。

    1981年7月13日、サルメンハーラはヘルシンキで逝去します。66歳の誕生日の前日のことでした。アールト大学アーカイブには、彼女が同校の教員として残した書簡、陶磁器作品、教材用のスライドが現在も収蔵されています。

    同時代のARABIA陶芸家たち

    サルメンハーラの仕事を立体的に理解するためには、彼女が所属していたARABIAアート部門の同僚たちの仕事を併せて知ることが助けになります。当店ブログでは、それぞれのデザイナーについて独立した完全ガイドを用意しています。

    バックスタンプの見方

    ARABIA時代の作品には、底面にARABIAの刻印や手書きの記号、サルメンハーラのイニシャルとされる「KS」サインが見られる場合があります。ただし、個体によって刻印・サイン・番号の入り方は異なるため、底面だけでなく、土の質感、釉薬の表情、フォルム、来歴を総合して確認する必要があります。多くは黒釉や鉄絵で書かれ、シャモット粒が浮き出た素地と並んで見えます。

    独立後のフリーランス期(1961年以降)の作品には、ARABIAの刻印を伴わず、作家名またはサインのみが残る例があります。ただし、サインだけで年代や制作背景を断定するのは危険です。市場ではARABIA期の作品とフリーランス期の作品で評価が分かれることもあるため、底面のサインはあくまで判断材料の一つとして見てください。

    ARABIAのバックスタンプそのものの変遷については、当店のアラビアの刻印(バックスタンプ)年代別完全ガイドもあわせてご覧ください。

    日本でサルメンハーラの仕事に触れる

    サルメンハーラが1970年代に東アジアの陶芸文化に関心を広げたことは、彼女の教育活動に影響を与えたと考えられます。素材と焼成の実験を重視する彼女の姿勢は、その後のフィンランド現代陶芸の表現の幅を広げる土壌となりました。

    日本国内でサルメンハーラの作品をまとまって見る機会は多くありません。だからこそ、ARABIAアート部門の文脈、同時代のホルツァー=キェルベリ、トイニ・ムオナ、ビルガー・カイピアイネンらとの関係を押さえておくと、作品を見たときの理解が深まります。

    これは本記事の解釈ですが、「装飾しないこと」を装飾とし、焼成の偶然性を受け入れる彼女の姿勢は、日本の茶陶や民藝の素朴な陶器観とも響き合う部分があります。同じ感受性で、フィンランドの北の大地と日本の土を行き来できる稀有な陶芸家——それがキュリッキ・サルメンハーラでした。

    まとめ

    • サルメンハーラはフィンランド北部テュルナヴァ生まれ。中央美術工芸学校で学び、1946年にデンマークのサクスボー工房で釉薬を修めました
    • 1947年から1961年までARABIAアート部門に在籍し、シャモット入りの炻器と「偶然の釉」で独自のスタイルを確立しました
    • ミラノ・トリエンナーレで4大会連続入賞、1957年グランプリ、1960年金賞。1961年Pro Finlandia受章
    • 1970年、工芸・工業芸術分野を代表する初期の教授職の一人として任命されました。1970年代の客員講師活動を通じて、東アジアを含む各地の陶芸文化への関心を広げました
    • 1974年に技法書『Keramiikka, ammattitekninen käsikirja』を刊行し、翌1975年にフィンランド国家工業芸術賞を受賞。1981年に逝去し、アールト大学アーカイブに資料が現存しています

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