グスタフスベリの閉鎖と復活|従業員が守り抜いた200年の窯の火
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この記事の要点
- グスタフスベリは1993年に大規模生産を停止したが、窯の火は完全には消えなかった
- 1996年に従業員9名が経営権を買い戻し、HPF i Gustavsberg ABとして食器生産を再開
- 2005年にベルサ復刻版を発売。ボーンチャイナという新たな素材で
- 2020年に一度破産するも、同年中に事業承継。現在も稼働中
- 2025年3月31日、ヴィクトリア皇太子出席のもと創立200周年を祝う
目次
黄金時代の終わり——石油危機からの下り坂
1960年代のグスタフスベリは、まさに黄金時代のただなかにありました。スティグ・リンドベリのベルサ(1961年発表)が爆発的な人気を博し、リサ・ラーソンの動物たちがスウェーデン中の家庭に迎えられていた頃です。工場はフル稼働し、従業員は1,000人を超えていました。
しかし、その繁栄は長くは続きませんでした。
1973年、第一次石油危機がスウェーデン経済を直撃します。エネルギーコストの急騰は、大量の燃料を消費する窯業にとって致命的でした。グスタフスベリもその例外ではなく、製造原価は急上昇し、利益率は急速に悪化していきます。
追い打ちをかけたのが、スウェーデンの大規模住宅供給政策「ミリオンプログラム(miljonprogrammet)」の終了でした。1965年から1974年にかけて100万戸の住宅を建設するこの国家事業は、グスタフスベリの衛生陶器部門に莫大な需要をもたらしていました。トイレ、洗面台、浴槽——新築住宅に必ず必要となるこれらの製品は、食器部門の収益を支える屋台骨だったのです。1974年にプログラムが終了すると、衛生陶器の注文は激減しました。
さらに、スウェーデンの人件費上昇と、東欧・アジアからの安価な輸入品の流入が重なります。かつて北欧の食卓を席巻した「メイド・イン・スウェーデン」の食器は、価格競争力を急速に失っていきました。
分割と売却——北欧三大窯の統合
1987年、KFの決断
グスタフスベリの親会社は、スウェーデンの消費者協同組合連合会KF(Kooperativa Förbundet)でした。1937年からグスタフスベリを傘下に収め、ヴィルヘルム・コーゲやリンドベリの起用など、黄金時代を支えてきた組織です。
しかし1987年、KFは苦渋の決断を下します。グスタフスベリを3つの事業体に分割し、食器・アート部門をフィンランドのヴァルチラ(Wärtsilä)に売却したのです。
ヴァルチラはフィンランドの巨大コングロマリットで、当時すでにアラビアを傘下に持っていました。この売却により、グスタフスベリ、ロールストランド、アラビアという北欧三大窯が、一つのグループのもとに集結することになりました。200年以上にわたって競い合ってきたライバルたちが、同じ傘の下に入る——それは北欧陶磁器史の大きな転換点でした。
ヴァルチラ破綻からハックマンへ
しかし、統合は安定をもたらしませんでした。1989年、ヴァルチラ自体が経営破綻に追い込まれます。造船事業の巨額損失が原因でした。
1990年、ヴァルチラの食器事業はフィンランドのハックマン(Hackman)に買収されます。ハックマンはフィスカースの子会社で、北欧のテーブルウェア事業を統括する立場にありました。しかし、ハックマンの経営方針は明確でした——生産拠点をフィンランドに集約し、コストを削減する。
1993年から1994年にかけて、グスタフスベリの食器生産はフィンランドに移転されました。スウェーデン・ヴァルムドー島(Värmdö)の工場で200年近く続いてきた磁器製造が、事実上の停止に追い込まれたのです。
皮肉なことに、グスタフスベリの生産を引き取ったフィンランドの工場群も、その後同じ運命を辿りました。ロールストランドのリードヒェーピング工場は2005年に閉鎖され、生産はスリランカとハンガリーに移転。アラビアのヘルシンキ工場は2016年に閉鎖され、生産はタイとルーマニアに移りました。北欧の伝統的な窯元は、次々と海外生産へ切り替えていったのです。
その中で、グスタフスベリだけが違いました。創業の地ヴァルムドー島で、今もスウェーデン人の手によって、一点一点磁器を焼いている。北欧の伝統的な食器窯元で、創業地での現地生産を貫いているのは、現在グスタフスベリだけです。これこそが、1996年に9人の従業員が守り抜いた最大の価値なのです。
ただし、ここで重要な事実があります。グスタフスベリの窯が全て止まったわけではありません。衛生陶器の生産は別会社として存続し、一部のアート部門も細々と活動を続けていました。しかし、かつてのような大規模な食器生産は、確かに終わりを迎えたのです。
9人の決意——従業員による買い戻し
1996年。工場の閉鎖から2年あまりが過ぎたとき、ひとつの転機が訪れます。
かつてグスタフスベリで働いていた従業員9名が、自らの手で窯の火を守る決断をしたのです。彼らはHPF i Gustavsberg AB(Handgjort Porslin Från Gustavsberg=グスタフスベリの手作り磁器)という会社を設立し、ハックマンから食器部門の経営権を買い戻しました。
9人のなかで中心的な役割を果たしたのが、シヴ・ユーリン(Siv Julin)でした。ユーリンは長年グスタフスベリで磁器の製造に携わってきた熟練の職人で、HPFの経営を率いていくことになります。
最初の仕事は、リンドベリのテーブルウェアの限定生産でした。ベルサ、プルーヌス、アダム——かつてスウェーデンの食卓を彩った名作シリーズを、手作業で少量ずつ復活させていく。大量生産の時代は終わっていましたが、ひとつひとつ丁寧に作られた磁器には、工場時代にはなかった温かみが宿っていました。
ボーンチャイナという選択と課題——鮮やかな伝統の色をどう受け継ぐか
HPFが直面した最大の課題は、素材の選択でした。
かつてのグスタフスベリは、フェルトスパット磁器(長石磁器)を使用していました。しかし、9人のチームで大規模な磁器生産ラインを維持するのは現実的ではありません。そこでHPFが選んだのが、ボーンチャイナ(bone china)でした。
ボーンチャイナは、18世紀のイングランドで開発された磁器の一種です。原料にリン酸カルシウム(骨灰)を含むことが特徴で、通常の硬質磁器よりも低い温度で焼成でき、透光性に優れた白い磁肌が得られます。HPFはこの原材料をイギリス・ストーク=オン=トレント(Stoke-on-Trent)から輸入し、グスタフスベリの地で成形・装飾・焼成を行いました。
これにより、HPFは北欧唯一のボーンチャイナ製造工場となりました。フェルトスパット磁器からボーンチャイナへの転換は、伝統からの逸脱と見なす向きもありましたが、HPFにとっては生き残るための合理的な選択でした。少人数で質の高い製品を生産するには、扱いやすく美しい仕上がりが得られるボーンチャイナが最適だったのです。
そして2005年、HPFは大きな一歩を踏み出します。ベルサ復刻版の発売です。
リンドベリが1961年にデザインしたベルサは、グスタフスベリの代名詞ともいえるシリーズでした。緑の葉のパターンをボーンチャイナという新たな素材に載せて復活させる——それはグスタフスベリの過去と未来をつなぐ象徴的なプロジェクトでした。復刻版のベルサは、オリジナルとは異なる手触りや透光性を持ちながらも、リンドベリの意匠を忠実に再現し、新たなファンを獲得していきます。
ヴィンテージと復刻版を並べて見ると、最も目につく違いは葉の緑の色味です。ヴィンテージの長石磁器では、緑が深く鮮やかに発色しています。一方、復刻版のボーンチャイナでは、同じ緑でもやや浅く、柔らかい印象になります。
この違いは、ボーンチャイナの素地特性に起因すると考えられます。骨灰を45%以上含むボーンチャイナの素地は、長石磁器に比べて純白度が高い。そのため釉薬の発色が変わり、同じ顔料を使っても色の深みが異なってくるのです。
ボーンチャイナを選んだことで、グスタフスベリは北欧唯一のボーンチャイナ工場という唯一無二の地位を手に入れました。しかし同時に、ヴィンテージが持つ鮮やかな色味の再現という新たな課題にも直面しています。素材の選択が変わったからこそ生まれる、伝統の色の復活——それは、200年の窯を守り抜いたこの工場が次の章で取り組む挑戦なのかもしれません。
だからこそ、1960年代の長石磁器で焼かれたヴィンテージのベルサには、復刻版では得られない色の深みがあります。当店では、その鮮やかな緑を宿したヴィンテージ・ベルサを現在も在庫しています。スウェーデンから直接買い付けた一点一点を丁寧に検品のうえお届けしています。
当店のベルサ・ヴィンテージコレクション
もう一つの危機、そして再出発
HPFは20年以上にわたって少量生産を続け、グスタフスベリの名を守り抜いてきました。しかし2020年6月、新型コロナウイルスの影響もあり、HPF i Gustavsberg ABは破産を申請します。
窯の火が再び消えるのか——。多くのファンが危惧しましたが、事態は素早く動きました。
シヴ・ユーリンの息子であるオスカル・ユーリン(Oscar Julin)が、Framtidens Porslin AB(フラムティーデンス・ポシュリン=未来の磁器)を設立し、HPFの事業を承継したのです。母から息子へ、グスタフスベリの窯の火は受け継がれました。
2025年には新たな資本が参入し、経営基盤はさらに強化されました。現在の工場には約21名のスタッフが勤務し、5基の窯を使って年間約6万個の磁器を生産しています。かつての1,000人規模の大工場とは比較になりませんが、一つひとつの製品に込められた手仕事の品質は、むしろ往時を凌ぐものがあると言えるかもしれません。
200年目の春——ヴィクトリア皇太子と磁器の王国
2025年3月31日。グスタフスベリは創立200周年を迎えました。
記念式典には、スウェーデンのヴィクトリア皇太子(Kronprinsessan Victoria)が出席。グスタフスベリの地を「ポシュリンスリーケット(Porslinsriket)」——「磁器の王国」と命名し、200年の歴史を祝いました。
1825年にヘルマン・オーマン(Herman Öhman)がストックホルム群島のヴァルムドー島に小さな窯を築いてから200年。石油危機、親会社の破綻、生産移転、破産——幾度もの危機を乗り越えて、グスタフスベリの窯は今も火を灯し続けています。
スウェーデンで2番目に古い磁器窯——。ロールストランド(1726年創業)に次ぐその歴史は、王室の庇護のもとではなく、職人たちの手によって守り抜かれたものでした。
リサ・ラーソンのケラミックスタジオン(通称Kスタジオ)
グスタフスベリの閉鎖と復活の物語には、もうひとつの大切な糸があります。リサ・ラーソンのケラミックスタジオン(Keramikstudion)です。
1980年にグスタフスベリを退社したリサ・ラーソンは、その後フリーランスとして活動していました。1992年、工場の大規模生産が停止に向かうまさにその時期に、リサは元同僚のフランコ・ニコロシ(Franco Nicolosi)、ビルギッタ・ソリン(Birgitta Sorin)とともに、グスタフスベリの工場敷地内にケラミックスタジオンを設立します。
3人は、グスタフスベリの地で手描きのストーンウェア(炻器)を生産し続けました。工場の大量生産ラインが止まっても、手仕事の窯は動き続けた——。ケラミックスタジオンの存在は、グスタフスベリという場所が単なる工場ではなく、陶芸家たちが創造を続ける「土地の記憶」であることを象徴しています。
Kスタジオの設立が1992年——工場閉鎖の前年であったことは偶然ではありません。ハックマンによる工場解体が進む中、ニコロシは工場の美術品部門で工房監督を務めており、工場の終焉が見えてきたとき、リサとソリンに連絡を取りました。3人はグスタフスベリの手仕事の伝統を守る受け皿を作ったのです。
ハックマンが食器の生産ラインを次々とフィンランドに移していく中、リサ関連の陶芸生産はKスタジオに移管されました。工場が消えても、Kスタジオはグスタフスベリの陶芸の火を守る「箱舟」として機能し続けたのです。
こうして、グスタフスベリの窯の火は二つの流れで守られました。食器の火はHPF i Gustavsberg AB(1996年〜)が、アートの火はKスタジオ(1992年〜)が。どちらも元従業員たちの手によって受け継がれたという事実は、この工場がいかに深く人々の誇りに根差していたかを物語っています。
リサ・ラーソンは2024年3月11日に92歳で永眠しましたが、ケラミックスタジオンは現在もグスタフスベリで活動を続けています。
まとめ
- 黄金時代の終わり: 1973年の石油危機、ミリオンプログラム終了、人件費上昇と安価な輸入品が重なり、経営が悪化
- 分割と売却: 1987年にKFが食器部門をヴァルチラに売却。北欧三大窯が一つのグループに
- 生産停止: ヴァルチラ破綻後、ハックマンが買収。1993-94年に生産をフィンランドへ移転
- 従業員による買い戻し: 1996年、元従業員9名がHPF i Gustavsberg ABを設立し、手作り磁器の生産を再開
- ボーンチャイナ: フェルトスパット磁器からボーンチャイナに転換。北欧唯一の製造工場に。2005年にベルサ復刻版を発売
- 再び破産と再出発: 2020年にHPFが破産するも、オスカル・ユーリンがFramtidens Porslin ABを設立して事業承継
- 200周年: 2025年3月31日、ヴィクトリア皇太子出席のもと創立200周年を祝う。グスタフスベリは「磁器の王国」と命名された
- ケラミックスタジオン: リサ・ラーソンが1992年に設立。工場閉鎖後もグスタフスベリの地で手描きストーンウェアを生産し続けた