リサ・ラーソン トラフィックの車のフィギュア|白い車体に黒い線の車輪と縞、シルクハットの紳士と黒髪の女性が乗る

ダーゲンH(Dagen H)——1967年、スウェーデンが右側通行に変わった日|路面電車の終わりと沖縄の730、リサ・ラーソン「トラフィック」の時代

北欧食器タックショミュッケ編集部
リサ・ラーソン トラフィックの車のフィギュア|白い車体に黒い線で描かれた車輪と縞、シルクハットの紳士と黒髪の女性が乗る
リサ・ラーソンのトラフィック、車のフィギュア。シルクハットの紳士と黒髪の女性を乗せた白い車体

当店にある、リサ・ラーソン(Lisa Larson)の小さな車の像です。シルクハットの紳士と黒髪の女性を乗せたこの車は、グスタフスベリ(Gustavsberg)が1971年から1973年まで作ったシリーズのひとつです。シリーズの名前は「トラフィック(Traffic)」、日本語でいえば「交通」です。

このシリーズがデザインされた1970年の3年前、スウェーデンの交通は一夜で向きを変えていました。1967年9月3日、国じゅうの車が左側通行から右側通行に移った「ダーゲンH(Dagen H)」です。同じ日に、ストックホルムの中心部からは路面電車が消えました。

この記事では、トラフィックが生まれるまでのスウェーデンの交通の移り変わりを、当時の写真でたどります。日本にも、一夜で通行の向きを変えた日がありました。1978年の沖縄の「730(ナナサンマル)」です。最後に、当店の車を手がかりにトラフィックのシリーズを紹介します。

この記事でわかること

  • 左側通行だったスウェーデンが、国民投票の反対を越えて右側通行に切り替えた理由
  • 1967年9月3日、ダーゲンHの準備と当日の流れ
  • 切り替えの日にストックホルムの路面電車が廃止され、バスが扉を付け替えたこと
  • 1978年の沖縄「730」と、ダーゲンHとの共通点
  • リサ・ラーソンのトラフィック(1971〜73年)と、底の丸い裏印
目次
  1. 左側通行の国だったスウェーデン
    1. 1734年から続いた左側通行
    2. 1955年の国民投票——82.9%が「反対」
    3. 1963年、議会が切り替えを決める
  2. 1967年9月3日、ダーゲンH
    1. 黄色い「H」と、覆われた信号
    2. ヘッドライトも右側通行用に
    3. 午前4時50分、一斉に止まる
    4. 事故は減った——ただし一時的に
  3. 路面電車が消えた街
    1. ストックホルムの路面電車
    2. 切り替えの日に廃止された電車
    3. バスは扉を付け替えた
    4. 先に姿を消したトロリーバス
  4. 車の時代のストックホルム
    1. つくり替えられた都心
    2. 通りを走ったスウェーデンの車
  5. 日本にもあった切り替えの日——沖縄の730
    1. 右から左へ、8時間の作業
    2. 覆いをかけて待つ——ダーゲンHと共通の段取り
    3. 石垣島の730記念碑
  6. リサ・ラーソンの「トラフィック」——1971〜73年の乗り物の像
    1. 当店の車を見る
    2. 底の丸い印
  7. まとめ

左側通行の国だったスウェーデン

1734年から続いた左側通行

スウェーデンで最初に右側通行を定めた令は1718年に出されましたが、長くは続かず、1734年に左側通行を定める令に置き換えられました。それから1967年までの233年間、スウェーデンの道は左側通行でした。

20世紀に車が増えると、不便が目立ってきます。陸続きのノルウェーとフィンランドを含め、周りの国はみな右側通行でした。しかもスウェーデンを走る車の9割以上が左ハンドルでした。国産のボルボやサーブも、輸出先の右側通行と、いずれ来る切り替えに合わせて左ハンドルで作られていました。左側通行の道を左ハンドルの車で走ると、運転席が道の端の側になり、狭い2車線の道で追い越すときに正面衝突の事故が多く起きていました。

その中で、路線バスは右ハンドルで、乗り降りの扉も道の端の側にだけ付いていました。この扉の位置が、のちに大きな問題になります。

1955年の国民投票——82.9%が「反対」

右側通行に変える案は1920年代から何度も議会に出されましたが、まとまりませんでした。1955年10月16日には国民投票が行われ、82.9%が左側通行を続けることに票を投じました。投票率は低いものでした。

1955年の国民投票の広告|赤いトロリーバスの車体後部に、左側通行を守ろう、10月16日は反対に投票を、の文字
赤いトロリーバスの車体後部に残る、1955年の国民投票の広告。「左側通行を守ろう 10月16日は『反対』に投票を」(Nord68/CC BY-SA 4.0)

1963年、議会が切り替えを決める

それでも車は増え続けました。1963年5月10日、スウェーデン議会は、1967年9月3日の午前5時に右側通行へ切り替えることを決めました。国民投票の結果とは逆の決定です。準備のために、国の右側通行委員会(Statens högertrafikkommission)が置かれました。

議会が見込んだ費用は4億クローナで、うちバスの切り替えに2億クローナ、路面電車に6,000万クローナがあてられました。費用はのちに6億クローナに見直され、1967年から1970年まで、登録された車にかけた特別な税でまかなわれました。

1967年9月3日、ダーゲンH

黄色い「H」と、覆われた信号

切り替えの日は「ダーゲンH(Dagen H)」、Hの日と呼ばれます。Hは、右側通行を意味するスウェーデン語「Högertrafik」の頭文字です。道沿いには六角形に黄色いHを描いた標識が立てられ、運転する人に右側通行を思い出させました。

ダーゲンHの標識|六角形の地に黄色の縁取りとHの文字、赤い板壁に掛けられている
1967年の切り替えのときに使われた「H」の標識。六角形の地に黄色の縁取りとH。赤い板壁に掛けられている(Damast/CC BY-SA 3.0)

交差点には新しい向きの信号機が前もって立てられ、黒いビニールで覆われていました。道路には新しい白線が引かれ、黒いテープで隠されていました。それまでスウェーデンの道路の線は黄色で、切り替えを境に白に変わります。標識はおよそ35万枚が取り外されるか付け替えられ、そのうち約2万枚がストックホルムのものでした。

テレビ局は切り替えをテーマにした歌を募り、選ばれた「右側を守れ、スヴェンソン(Håll dig till höger, Svensson)」は、ラジオで繰り返し流れました。

1967年のエッシンゲレーデン|黄色いHの標識を掲げて並ぶ人びと、足もとに新しい道路標識、奥に赤と白のバス
1967年、ストックホルムの自動車道エッシンゲレーデン(Essingeleden)で、黄色い「H」の標識を掲げる人びと。足もとに新しい道路標識が並び、奥に赤と白のバス(撮影者不詳/パブリックドメイン)

ヘッドライトも右側通行用に

車のヘッドライトも替える必要がありました。すれ違うときの光は、対向車をまぶしくしないよう道の端の側へ寄せてあるため、左側通行用と右側通行用では向きが逆になります。前もって右側通行用に替えたライトには、切り替えの日まで、その光を抑えるラベルが貼られました。

右側通行用のヘッドライト|レンズに、1967年9月3日より前にはがしてはならない、と書かれたラベル
右側通行用のヘッドライト。レンズのラベルに「1967年9月3日より前にはがしてはならない」とある(Scheinwerfermann/CC BY-SA 3.0)

午前4時50分、一斉に止まる

1967年9月3日は日曜日でした。午前1時から6時まで、急を要しない車の通行は禁じられました。道にいた車は午前4時50分にいったん止まり、道の右側へ慎重に移って、もう一度止まります。ラジオが5時までを数え、5時ちょうどに右側通行で走り出しました。

ストックホルムとマルメでは、交差点をつくり替える工事のために、前日の土曜午前10時から日曜午後3時まで車の通行が止められました。一方通行の道ではバス停を反対側に作り直し、交差点の形も変えました。

ダーゲンHの朝のストックホルム、クングスガータン|通りを埋める人びとと、向きのそろわないタクシーや車
1967年9月3日の朝、ストックホルムのクングスガータン。通りを埋める人と、向きのそろわない車(Jan Collsiöö/パブリックドメイン)

事故は減った——ただし一時的に

切り替えの日に届け出のあった事故は157件で、そのうちけが人が出たのは32件でした。翌日の月曜日の事故は125件で、それまでの月曜日の130〜198件を下回り、死亡事故はありませんでした。自動車保険の請求も40%減りました。

ただし、この効果は続きませんでした。保険の請求は6週間ほどで元に戻り、1969年には事故の件数も切り替え前の水準に戻っています。翌1968年5月26日には、北欧のアイスランドも右側通行に切り替えました。

路面電車が消えた街

ストックホルムの路面電車

ストックホルムでは1877年7月10日、スウェーデンで最初の馬車鉄道が走り始めました。1901年には電気で走る路面電車が登場し、路線は市の中心から郊外へと広がっていきます。

1950年10月1日には、地下鉄の最初の路線がスルッセン(Slussen)から南へ開業しました。1957年、市議会は中心部の路面電車を、時間をかけて地下鉄に置き換えていく方針を決めます。第二次世界大戦の終わりから1967年までのあいだに、路線の多くは増え続ける車と地下鉄の建設に場所をゆずって姿を消しました。

1950年、地下鉄が開業した日のスルッセン駅|地上のホームに並ぶ地下鉄の車両と集まった人びと、右手の道に路面電車、奥に旧市街の教会の尖塔
1950年10月1日、地下鉄が開業した日のスルッセン駅。地上のホームに地下鉄の車両が並び、右手の道を路面電車が走る。奥に旧市街ガムラスタンの教会の尖塔(撮影者不詳/パブリックドメイン)
ストックホルムのストゥーレプランに停まる水色の路面電車|かごを持つ女性と赤いキオスク
1962年、ストゥーレプランの停留所に停まる水色の路面電車。かごを持つ女性と赤いキオスク(Håkan Trapp、Spårvägsmuseet/パブリックドメイン)

切り替えの日に廃止された電車

右側通行への切り替えが決まると、残っていた中心部の路面電車は、ダーゲンHの日をもってすべて廃止され、バスに置き換えられました。ストックホルムの予算は新しいバスを買う分しかまかなえなかったためです。

残ったのは郊外の3路線、ノッケビー線(Nockebybanan)と、南北のリディンゲ線(Lidingöbanan)だけでした。これらの路線を走っていた電車は両側に扉があり、わずかな手直しで右側通行に対応できました。

役目を終えた電車は、1967年から1968年にかけて解体されました。内装が取り外され、窓は夏の別荘の持ち主に、座席はボートに乗る人たちに売られ、価値のあるものを取り去った残りは燃やされました。

1967年、解体場に集められたストックホルムの路面電車|窓や外板が外れて骨組みだけになった車体、425番の車両の脇に立つ作業員
1967年、解体場に集められたストックホルムの路面電車。窓や外板が外れて骨組みだけになった車体のあいだに、長い棒を手にした作業員が立つ(Pressens bild/パブリックドメイン)

バスは扉を付け替えた

バスも同じ問題を抱えていました。左側通行の時代のバスは右ハンドルで、扉は道の端の側にしかありません。右側通行になれば、扉は車道の側を向いてしまいます。

当時、国内のバスはおよそ7,500台ありました。1966年の春までに約3,500台が右側通行に備えた形になっており、約2,000台が右側通行用として新たに発注され、残りの約2,000台も切り替えの日までに改造されるか買い替えられました。前輪より前に扉のあるバスは改造の費用がかさむため、数百台がパキスタンなどへ送られました。

先に姿を消したトロリーバス

架線から電気をとって走るトロリーバスは、それより先に姿を消していました。ストックホルムのトロリーバスは1941年1月20日に41番の路線で走り始め、1964年8月31日に運行を終えています。最初の路線も、最後まで残った路線も41番でした。

ストックホルムのクングスブロンを走る赤とクリーム色のトロリーバス41番と、当時の乗用車
1964年、クングスブロンを走る41番のトロリーバス。奥の道に当時の乗用車が並ぶ(Håkan Trapp、Spårvägsmuseet/パブリックドメイン)

車の時代のストックホルム

つくり替えられた都心

同じころ、ストックホルムの都心ノルマルム(Norrmalm)では、古い街区を取り壊す大規模な再開発が進んでいました。ヒョートリエット(Hötorget)には5棟の高層ビルが一列に並びました。

1970年のストックホルム都心ノルマルムの空撮|一列に並ぶヒョートリエットの5棟の高層ビルと再開発の工事現場
1970年のノルマルムの空撮。一列に並ぶヒョートリエットの5棟の高層ビルと、工事中の街区(Erik Claesson、スウェーデン国立遺産局/CC BY 2.5)

通りを走ったスウェーデンの車

路面電車に代わって通りの主役になった乗用車には、スウェーデンのメーカーの車も多く見られました。ボルボ(Volvo)のアマゾン(Amazon)は1956年から1970年まで、サーブ(Saab)の96は1960年から1980年まで作られたモデルです。どちらも左ハンドルの車です。

黒いボルボ・アマゾンの4ドアセダンを斜め後ろから写した写真|ゴットランド島で撮影
2021年、ゴットランド島で撮影された黒いボルボ・アマゾン。クロームのバンパーが光る(Bene Riobó/CC BY-SA 4.0)
白い1966年式サーブ96を横から写した写真|ゴットランド島の砂利道と松林
2018年、ゴットランド島の松林の前に停まる1966年式の白いサーブ96(Bene Riobó/CC BY-SA 4.0)

日本にもあった切り替えの日——沖縄の730

ダーゲンHから11年後、日本でも一夜で通行の向きを変えた日がありました。1978年7月30日、沖縄県の道路は右側通行から左側通行に切り替わりました。日付にちなんで「730(ナナサンマル)」と呼ばれます。

右から左へ、8時間の作業

戦前の沖縄は、本土と同じ左側通行でした。戦後、アメリカの統治の下で右側通行に変わり、1972年の日本復帰の後もしばらく右側通行が続きました。1978年7月29日の午後10時に県内の車の通行が止められ、8時間の作業ののち、30日の午前6時に車は左側を走り始めました。

覆いをかけて待つ——ダーゲンHと共通の段取り

準備の段取りは、ダーゲンHとよく似ています。沖縄では新しい向きの標識を前もって立てて覆いをかけておき、道路の標示にも覆いを貼って、切り替えの日に外しました。ストックホルムで信号を黒いビニールで覆い、白線を黒いテープで隠したのと同じ考え方です。左ハンドルの車のヘッドライトにテープを貼って光の向きを整えたのも、両方に共通しています。

違いは路面電車です。沖縄の路面電車は1933年に廃止されていたため、線路の切り替えはありませんでした。一方、バスは扉の位置を逆にする必要があり、左側に乗降口のあるバスが新たに買われました。7月30日から走り始めたこれらのバスは「730バス」と呼ばれました。

石垣島の730記念碑

切り替えを記念して、那覇の沖縄県庁の構内に730記念碑が、宮古島に730記念塔が建てられています。石垣島には「730交差点」と名づけられた交差点があり、そこにも記念碑が立っています。

石垣島の730記念碑|岩に青い730の文字と右から左へ移る矢印の標章、両脇にシーサー、台座に石垣島の文字
石垣島の730記念碑。岩に青い「730」の文字と、右から左へ移る矢印の標章。両脇にシーサーが座る(iloverjoa/CC BY 3.0)

リサ・ラーソンの「トラフィック」——1971〜73年の乗り物の像

トラフィックが作られたのは、ストックホルムの東、ヴェルムドー(Värmdö)にあるグスタフスベリの工場です。1973年5月の写真では、工場の町の駐車場を当時の車が埋めています。

1973年5月のグスタフスベリの駐車場|赤いボルボ・アマゾンなど当時の車が並び、奥に教会の尖塔
1973年5月のグスタフスベリ。駐車場に並ぶ当時の車と、奥の教会の尖塔(Szilas/CC BY 4.0)

リサ・ラーソンは1954年にグスタフスベリに入り、1980年まで在籍しました。その間に、小さな動物園(Lilla Zoo)やアフリカ(Afrika)など、動物や人物をまるみのある形でとらえたシリーズを数多く生み出しています。トラフィックは1970年にデザインされ、1971年から1973年まで作られた、乗り物を題材にしたシリーズです。素地は炻器(ストーンウェア)です。リサの歩み全体はリサ・ラーソン完全ガイドでたどれます。

ほほえむリサ・ラーソンの肖像|背後の白い壁に陶製の仮面のレリーフが並ぶ1969年のモノクロ写真
1969年のリサ・ラーソン。背後の壁に陶製の仮面のレリーフが並ぶ(撮影者不詳、Svenska Dagbladet/パブリックドメイン)

ストックホルムのスウェーデン国立美術館(Nationalmuseum)はこのシリーズの気球を収蔵し、展示しています。オスロのノルウェー国立美術館(Nasjonalmuseet)も、2019年に寄贈を受けてこのシリーズの作品を収蔵しました。

当店の車を見る

当店の車は、長さ15.5cm、幅8cm、高さ12.5cmです。細いスポークの車輪に、前に突き出した箱形のラジエーターと屋根のない座席がそなわっています。その形は1970年当時の乗用車ではなく、20世紀はじめの自動車を思わせます。前から見ると、縦の縞で表されたラジエーターグリルの両脇に、丸いライトが2つ並んでいます。

リサ・ラーソン トラフィックの車のフィギュア|正面から見た縦縞のラジエーターグリルと丸いライト
正面から見た車。縦縞のラジエーターグリルの両脇に丸いライト。奥にシルクハット

前の座席には、白いシルクハットをかぶった男性が座っています。後ろの座席には、花びらのように波打つ輪郭の黒髪に、水玉の服をまとった女性が乗っています。ラジエーターの上には、小さな白い動物が乗っています。白い地と黒い線だけで組み立てた、引き締まった姿です。

リサ・ラーソン トラフィックの車のフィギュア|後ろの座席の女性の顔の接写、左にシルクハットの一部
後ろの座席の女性の顔。目と眉、口元が黒い線で表される

この車はリサ・ラーソン トラフィックの車のフィギュアのページでご覧いただけます。

底の丸い印

車の底には、丸い印が刷られています。円の縁に沿って「GUSTAVSBERG」と「SWEDEN」、内側に「TRAFFIC」と「LISA L.」の文字が並びます。スウェーデン語で交通は「trafik」ですが、シリーズ名は英語の綴りで記されています。

リサ・ラーソン トラフィックの車の底面|GUSTAVSBERG・TRAFFIC・LISA L.・SWEDENの文字が円形に並ぶ裏印
車の底の裏印。円の中にGUSTAVSBERG・TRAFFIC・LISA L.・SWEDENの文字

グスタフスベリの裏印といえば錨のマークがよく知られていますが、この丸い印に錨は入っていません。そのかわり、シリーズ名とデザイナーの名前が印の中に入っています。グスタフスベリの裏印の移り変わりはグスタフスベリの年代の見分け方で詳しく紹介しています。

まとめ

1967年9月3日の朝、スウェーデンの車は一斉に道の右側へ移りました。国民投票の反対を越えた切り替えは、黒いビニールで覆った信号と、黒いテープで隠した白線で準備され、その日、ストックホルムの中心部から路面電車が消えました。11年後の沖縄も、覆いを外す同じ段取りで右から左へ移っています。

要点の整理

  • スウェーデンは1734年から左側通行。1955年の国民投票では82.9%が切り替えに反対
  • 1963年5月10日に議会が決定し、1967年9月3日午前5時に右側通行へ(ダーゲンH)
  • 午前4時50分に全車が止まり、右側へ移って5時に走り出した。信号は黒いビニール、白線は黒いテープで前もって隠された
  • ストックホルム中心部の路面電車はダーゲンHの日に廃止。バスは扉を付け替え、トロリーバスは1964年に終了
  • 1978年7月30日、沖縄は右側通行から左側通行へ(730)。覆いをかけて待つ段取りはダーゲンHと共通
  • リサ・ラーソンのトラフィックは1970年デザイン、1971〜73年にグスタフスベリで製造。底の丸い印に「TRAFFIC」と「LISA L.」

トラフィックの小さな車の底を返すと、英語で「交通」を意味するシリーズ名と、リサの名前が丸い印の中に並んでいます。

参考資料
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