マリ・シムルソンの肖像

マリ・シムルソン完全ガイド|エストニアからスウェーデンへ渡った陶磁器デザイナー

この記事の要点

  • マリ・シムルソン(Mari Simmulson, 1911–2000)は、ロシア・サンクトペテルブルクに生まれ、エストニアのタリンで育ったエストニア系のデザイナーです。
  • タリン国立工芸学校、ミュンヘン芸術アカデミーで陶芸と彫刻を学び、1944年に第二次大戦の難民としてスウェーデンに渡りました。
  • 1945年から1949年までグスタフスベリ(Gustavsberg)でヴィルヘルム・コーゲのもと、ストーンウェアの彫刻作品を制作しました。
  • 1949年から約23年間ウプサラ・エクビーで活動し、Salix(1953–1956)、Agave、Eritrea、Tokyoなど数多くの美術陶磁器シリーズを発表しました。
  • ヒョルディス・オルドフォルス、イングリッド・アッターベリと並び、ウプサラ・エクビーを代表する3人の女性デザイナーの一人とされます。

マリ・シムルソン——エストニアからスウェーデンへ渡った彫刻陶磁器の作家

マリ・シムルソンの肖像写真
マリ・シムルソン。スウェーデン芸術家事典(Allhems Svenskt konstnärslexikon)に掲載された肖像。パブリックドメイン。

マリ・シムルソン(Mari Simmulson, 1911–2000)は、ロシア・サンクトペテルブルクに生まれ、エストニアのタリンで育ち、戦後はスウェーデンで活動した陶磁器デザイナーとして知られています。グスタフスベリ(Gustavsberg)とウプサラ・エクビーという、20世紀スウェーデンを代表する二つの窯で働きました。

彼女の名を伝えるのは、ウプサラ・エクビー時代に制作された数多くの美術陶磁器シリーズです。チョコレートブラウン地に黄色の水玉が散る「Salix(サリックス)」、葉脈を深く彫り込んだ「Agave(アガベ)」、シャモット粘土の縦縞「Eritrea」、そしてバリ島の女性を象った大型の陶人形——地中海、アフリカ、東南アジアなどを想起させるシリーズ名や人物像には、1950年代以降のヨーロッパに広がった異文化への関心と、シムルソン自身の移動の経験が重なって見えます。本記事では、当店ブログの「ウプサラ・エクビーとは」「ヴィルヘルム・コーゲ完全ガイド」を補う形で、シムルソン個人の89年の歩みを追います。

目次

  1. マリ・シムルソンとは
  2. サンクトペテルブルクとタリンでの少女時代
  3. タリン、ヘルシンキ、ミュンヘンで学んだ陶芸と彫刻
  4. 1944年、難民としてスウェーデンへ
  5. グスタフスベリ・スタジオでの4年間
  6. ウプサラ・エクビーでの約23年
  7. 代表シリーズと陶人形
  8. 同時代の女性デザイナーたち
  9. 晩年と没後
  10. シムルソン作品の見分け方
  11. まとめ

サンクトペテルブルクとタリン——1911年からの少女時代

ロシア革命前夜のサンクトペテルブルクで生まれて

サンクトペテルブルクの冬宮
サンクトペテルブルクの冬宮(現エルミタージュ美術館)。1911年、シムルソンが生まれた当時のロシア帝国の首都を象徴する建築。Photo: Florstein(CC BY-SA 4.0)

マリ・シムルソンは、1911年11月23日、当時のロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで生まれました。両親はエストニア系で、ロシア革命の混乱を経て、1919年に家族でエストニアのタリンへ移住します。シムルソンが8歳のときのことです。

つまり彼女は、生地のロシア、育った国エストニア、そして後半生を過ごしたスウェーデンという、三つの国にまたがる人生を歩むことになります。これは戦争と革命に翻弄された20世紀の中東欧の知識人・芸術家にしばしば見られる軌跡でした。

タリン旧市街で育った青春時代

タリン旧市街の上町、トームペア
タリン旧市街の上町、トームペアの丘。中世の城壁と教会の塔が並ぶエストニアの首都。シムルソンが10代を過ごした風景。Photo: Ivar Leidus(CC BY-SA 3.0 ee)

タリンはバルト海に面した中世以来の港町で、ハンザ同盟の交易都市として栄えました。城壁に囲まれた旧市街と、丘の上のトームペア地区には、ゴシック様式の教会、商人の家々、市庁舎が今も残ります。シムルソンは1919年から、この石畳の街で少女時代を過ごします。

1918年にロシア帝国から独立したばかりのエストニアは、若い民主主義国家として文化と教育の整備を進めていました。シムルソンが学齢期を迎えた1920年代は、エストニア語による近代教育が本格化した時期にあたります。

タリン、ヘルシンキ、ミュンヘン——三つの都市で学んだ陶芸と彫刻

タリン国立工芸学校(1931–1935)

1930年にタリンで中等教育を修了したシムルソンは、翌1931年からタリン国立工芸学校(State School of Arts and Crafts)に進み、陶芸を中心に4年間学びます。当時の工芸教育では、陶芸だけでなく、彫刻や絵画など複数の領域を横断して学ぶことが重視されていました。彼女の後年の作品に見られる、陶磁器でありながら彫刻的な造形感覚は、この時期に培われた基礎によります。

奨学金でアラビアへ短期研修(1937)

1937年、シムルソンは奨学金を得てフィンランドへ渡り、ヘルシンキのARABIA(アラビア)芸術部門で研修を受けます。ARABIAは独自の「アート部門(Taideosasto)」を持ち、トイニ・ムオナ、フリードル・ホルツァー=キェルベリ、ビルガー・カイピアイネンといった芸術家たちが自由な創作を行っていました。タリンの工芸学校で学んだ若いシムルソンは、北欧の陶磁器産業がアーティストにどう機会を与えていたかを、ここで初めて体験しています。

ミュンヘン芸術アカデミーで彫刻を学ぶ

ミュンヘン芸術アカデミーの校舎を上空から見た写真
ミュンヘン芸術アカデミー(Akademie der Bildenden Künste München)。1808年創立、ヨーロッパで最も古い美術アカデミーの一つ。シムルソンは1938–39年に彫刻家カール・キラーに師事した。Photo: Carsten Steger(CC BY-SA 4.0)

1938年から翌1939年にかけて、シムルソンはドイツのミュンヘン芸術アカデミー(Akademie der Bildenden Künste München)で、彫刻家カール・キラー(Karl Killer)に師事します。1941年から1942年にはタリン上級芸術学校で学び、1942年から1943年には再びミュンヘンで彫刻を学んでいます。

陶芸家として知られるシムルソンの作品が、プレート型作品や花器でありながら立体造形として強い存在感を持つのは、こうした正規の彫刻教育を受けたためです。彼女の陶人形が粘土の塊から削り出されたような重量感を持つのは、決して偶然ではありません。

1944年、戦火の中の難民としてスウェーデンへ

1944年のソビエト空軍によるタリン爆撃後の旧市街
1944年3月、ソビエト空軍の爆撃によって破壊されたタリン旧市街。中世の街並みは廃墟となり、多くの住民が国外へ脱出した。パブリックドメイン。

1944年3月、ソビエト空軍はタリン市街を大規模に爆撃しました。中世以来の街並みが廃墟と化し、続くソビエト軍の再占領を前に、エストニア人の多くがバルト海を渡って西へ逃れます。スウェーデンへ向かった難民は数万人にのぼり、シムルソンもその一人でした。

33歳でスウェーデンに到着した彼女は、エストニア出身の同郷者たちの支援を受けながら、1945年の年明けからグスタフスベリでの仕事を始めることになります。ロシア革命後の移住と、第二次大戦末期のスウェーデンへの避難という経験は、彼女の作品に見られる「土地を移る感覚」や「異郷への関心」を考えるうえで、重要な背景の一つといえます。

グスタフスベリ・スタジオでの4年間(1945–1949)

ヴィルヘルム・コーゲのもとで

ヴィルヘルム・コーゲの肖像(1955年)
ヴィルヘルム・コーゲ(1955年、ストックホルムのフィエルガータンにて)。グスタフスベリの芸術監督として、シムルソンを含む多くの陶芸家を育てた。Photo: Lennart af Petersens、パブリックドメイン。

1945年初頭、シムルソンはグスタフスベリ・スタジオに芸術家として迎え入れられます。当時のスタジオを率いていたのは、グスタフスベリの芸術監督として大きな役割を果たしたヴィルヘルム・コーゲ(Wilhelm Kåge, 1889–1960)でした。コーゲは1910年代後半から、グスタフスベリで日常の道具に美を与える仕事に取り組み、Argenta(アルジェンタ)など特徴的な芸術陶磁器を発表していました。

シムルソンはコーゲから大きな自由を与えられ、ストーンウェアによる彫刻作品を中心に制作します。なかでも彼女がコーゲ本人をモデルに作った肖像胸像は、現在もグスタフスベリ陶磁器博物館に所蔵されています。難民として到着したばかりの若い女性が、コーゲの胸像を制作したことは、シムルソンとグスタフスベリの関係を示す一例です。

ストックホルム店でのデビュー展(1948)

ヴィルヘルム・コーゲの磁器「リーリエブロー」
ヴィルヘルム・コーゲがデザインしたグスタフスベリの磁器「リーリエブロー(Liljeblå)」。シムルソンが働いた時代の同社の作風を伝える代表作。CC BY-SA。

1948年、シムルソンはグスタフスベリのストックホルム直営店で初の個展を開きました。展示の中心は、コーゲ時代のグスタフスベリ・スタジオが得意とした、釉薬を厚く施したストーンウェア彫刻と花器でした。難民として到着してわずか4年でのデビューは、ストックホルムの工芸界に彼女の名前を知らしめます。

翌1949年、シムルソンはグスタフスベリを離れ、ウプサラ郊外のウプサラ・エクビーに移籍します。グスタフスベリで芸術家としての足場を築き、ウプサラ・エクビーで「量産可能な芸術陶磁器」の領域に踏み出す——という構図は、同時代の他のスウェーデン人陶芸家にも共通する道筋でした。

ウプサラ・エクビーでの23年(1949–1970年代初頭)

レンガ工場から生まれた陶磁器グループ

ウプサラ・エクビーの工場(エクビー・ブルーク)
ウプサラ近郊のエクビー・ブルーク(Ekeby bruk)。19世紀末にレンガ工場として始まり、後にスウェーデン最大級の陶磁器グループへと発展した工業地域。CC0。

ウプサラ・エクビーは、1886年にウプサラ郊外のエクビー村でレンガと土管を焼いていた工場として創業しました。20世紀初頭から芸術陶磁器の生産を始め、20世紀半ばにはゲフレ磁器やカールスクローナ磁器、さらにロールストランドなどを傘下に収め、スウェーデン最大級の陶磁器グループへと成長します。詳しい歴史は「ウプサラ・エクビーとは」で扱っています。

シムルソンは1949年から1970年代初頭まで、約23年にわたってウプサラ・エクビーの主要なデザイナーの一人として活動します。退社年は資料によって1971年または1972年とされます。在籍中に彼女が手がけた美術陶磁器シリーズは数多く、同社の戦後の美術陶磁器の展開を支える重要な仕事となりました。

代表作 Salix(サリックス, 1953–1956)

シムルソンの代表作の一つが、1953年から1956年にかけて発表された「Salix(サリックス)」です。チョコレートブラウンの地色に、黄色とミルクホワイトの水玉が散る大胆なパターンが特徴で、深い艶のある釉薬と相まって、彼女の作風を端的に示しています。Salixは花器、プレート型作品、壁掛けプレートなど複数のフォルムで展開され、ウプサラ・エクビー時代のシムルソンをよく示すシリーズの一つとなりました。

同時期に発表された「Korall(コラール)」「Rubus(ルブス)」「Palma(パルマ)」「Natur(ナトゥール)」など、自然をモチーフとしたシリーズも、Salixと共通する色彩感覚と釉薬の質感を持っています。

地名シリーズ——Eritrea、Tokyo、Mexico

1960年代に入ると、シムルソンは異国の地名を冠したシリーズを次々に発表します。1960年の「Agave(アガベ)」は葉脈を深く彫り込んだ造形に、黄色とティールグリーンの釉薬を組み合わせた花器。同じく1960年の「Eritrea(エリトリア)」は、シャモット粘土を使い、キャラメル色と焦げ茶の縦縞を入れた、東アフリカの地名を借りた作品です。

1964年から65年頃にかけて発表された「Tokyo(東京)」は、黄色釉を中心としたシリーズで、モデル番号4073mなどが知られています。他にも、Mariana、Nigeria、Senegal、Trinidad、Peru、Mexico、India、Malta、Tahitiといった地名シリーズが残されています。これらの地名は、実際の旅行記録というよりも、当時のヨーロッパで広がっていた異文化への関心や、装飾陶磁器におけるイメージの源泉として見ることができます。


陶人形——バリ島の女性、Ina/Gina/Stina

シムルソンの彫刻家としての訓練が最も鮮やかに現れるのが、陶人形作品です。代表的なのが、約半メートルの大きさを持つ「Balinesiska(バリ島の女性)」で、100体限定で制作されました。座像の「Sittande balinesiska」や「Indonesiska」など、東南アジアをモチーフにした女性像も知られています。

1960年代には少女像三姉妹「Ina/Gina/Stina」シリーズを発表しています。手作り・手彩色で、現存数が少なく、コレクター人気の高い作品です。エスキモーの子どもを題材にした作品群や、緑斑釉の動物陶人形もこの時期に制作されました。

壁面装飾の仕事——銀行とパブリック・アート

戦後スウェーデンでは、銀行や公共建築の壁面に、芸術家による陶板装飾を施すことが盛んに行われました。シムルソンも1950年代に、Enköping、Västerås、Karlskronaの各都市にあったUpplandsbankenの店舗壁面装飾を手がけています。生粘土に硝酸コバルトを直接描き込み、焼成後に独特の青を発色させる技法は、彼女が開拓した手法の一つでした。

ウプサラ・エクビー アトス グラタン皿
当店在庫の、ウプサラ・エクビー「アトス(Atos)」グラタン皿FP14。シムルソンが手がけたシリーズの一つで、1970年代の作品。素地の赤土に下絵を描き、薄い錫釉で全面を覆う技法が用いられている。

同時代の女性デザイナーたち——オルドフォルス、アッターベリ、トムソン

ヒョルディス・オルドフォルスの肖像
ヒョルディス・オルドフォルス(Hjordis Oldfors)。シムルソンと同時代のウプサラ・エクビーで活躍したデザイナー。パブリックドメイン。

シムルソンは、ウプサラ・エクビーで活躍した複数の女性デザイナーの一人でした。先輩格にあたるアンナ=リサ・トムソン(Anna-Lisa Thomson, 1905–1952)は「Paprika(パプリカ)」シリーズで知られ、シムルソンが入社する直前まで同社の中心的存在でした。

アンナ=リサ・トムソンの「パプリカ」
ウプサラ・エクビー、アンナ=リサ・トムソン(Anna-Lisa Thomson)の代表作「パプリカ(Paprika)」。シムルソンの少し前の世代を担った同社のデザイナー。CC BY-SA 4.0。

同世代の同僚として、ヒョルディス・オルドフォルス(Hjordis Oldfors)、イングリッド・アッターベリ(Ingrid Atterberg)がおり、シムルソンを含む三人は「ウプサラ・エクビーを代表する女性デザイナーたち」として並び称されます。当時のスウェーデン陶磁器業界は、グスタフスベリのリサ・ラーソン、ロールストランドのマリアンヌ・ウェストマンやヘルタ・ベングトソンを含め、女性デザイナーが量産品の意匠を担う黄金期にあたっていました。

アンナ=リサ・トムソンのバックスタンプ
アンナ=リサ・トムソンの「パプリカ」のバックスタンプ。「A.L.T.」のイニシャルと「Paprika」のシリーズ名が記されている。CC BY-SA 4.0。

ウプサラという街——晩年の活動と没後

ウプサラ城
ウプサラ城。16世紀にグスタフ・ヴァーサ王が築いた赤い城壁の城館で、街のシンボル。シムルソンが暮らしたウプサラを象徴する建築。CC BY-SA 4.0。

ウプサラはストックホルムの北約70kmに位置する、スウェーデン第4の都市です。1477年創立の北欧最古の大学ウプサラ大学を擁する学問の街で、中世のウプサラ大聖堂が市街を見下ろします。シムルソンはこの街に住み、エクビーの工場に通い、晩年もこの街で過ごしました。

ウプサラ大聖堂
ウプサラ大聖堂。1287年に建設が始まり、北欧最大級のゴシック建築として知られる。Photo: Arild Vågen(CC BY-SA 3.0)
ウプサラ市内を流れるフィリス川
ウプサラ市内を流れるフィリス川。シムルソンがウプサラ・エクビーの工場へ通った街の風景。Photo: ArildV(CC BY-SA 4.0)

ウプサラ・エクビーを1971年前後に離れた後、シムルソンは1970年代初頭にヘルシンボリのDeco社で短期間デザイナーを務めました。1952年にはストックホルムのNK(Nordiska Kompaniet)で個展を開き、好評を博しています。

ウプサラの目抜き通り、ドロットニンガータン
ウプサラの目抜き通り、ドロットニンガータン(女王の通り)。古い商店建築と現代のショップが共存する旧市街の中心部。Photo: 1700-talet(CC BY 3.0)

SKBL(スウェーデン女性人物事典)は、シムルソンの没日を2000年11月7日、没地をウプサラと記載しています。享年88でした。墓所はウプサラのGamla kyrkogården(旧墓地)の記念林です。

シムルソン作品の見分け方——サインとシリーズ

シムルソンの作品には、いくつかのサイン形式があります。フルネームの「Mari Simmulson」、小文字の「maris」、イニシャルの「ms」、そして吹き出しの中に「ms」または「maris」を入れたバックスタンプ。これらはいずれも、Upsala-Ekebyの社章と共に押されているのが通例です。

シリーズ名(Salix、Eritrea、Tokyo等)が底面に刻印または手書きで記されている場合もあります。シリーズ番号(モデル番号)は4桁の数字に小文字を添える形式で、たとえばTokyoの代表的なフォルムは「4073m」というモデル番号で知られています。

北欧食器のバックスタンプの読み方については、当店ブログの「北欧食器のバックスタンプ総合ガイド」を参照ください。

まとめ

この記事の振り返り

  • 1911年、ロシア・サンクトペテルブルク生まれ。1919年に家族とエストニアのタリンへ移住。
  • タリン国立工芸学校で陶芸を学び、ヘルシンキのアラビアで研修、ミュンヘン芸術アカデミーで彫刻を修めた。
  • 1944年、戦火を逃れてスウェーデンへ。1945年からグスタフスベリでヴィルヘルム・コーゲのもと、ストーンウェア彫刻を制作。
  • 1949年からウプサラ・エクビーで約23年間活動し、Salix、Agave、Eritrea、Tokyoなど数多くの美術陶磁器シリーズを発表。
  • バリ島の女性、Ina/Gina/Stinaなどの陶人形も多く残し、彫刻と陶磁器の境界を行き来した作家として知られる。
  • 2000年、ウプサラで没。享年88。スウェーデン陶磁器の戦後を代表する女性デザイナーの一人として記憶される。

深いブラウンとイエローの釉薬、彫刻的なフォルム、地名を冠したシリーズタイトルは、ウプサラを拠点に活動したシムルソンが、遠い土地のイメージや民俗的な造形感覚を陶磁器に取り込んだことを示しています。

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