江戸時代の備前焼の輪花皿。黄褐色から灰へ移る窯変

日本の伝統陶器と北欧ヴィンテージ食器は、何が違うのか|「一点もの」と「再現できるデザイン」の価値

北欧食器タックショミュッケ編集部

信楽の壺と、グスタフスベリ(Gustavsberg)のベルサ(Berså)の皿を並べてみます。片方は室町時代、片方は1960年代のものです。どちらも土を焼いてつくられた器でありながら、目指しているものが違うことが、並べるとはっきりします。

違いは、それぞれが何を源泉にしてきたかにあります。日本の伝統的なやきものは、土と炎が生む差を中心に据えました。同じ条件を整えても同じものにはならず、その一回性がそのまま値打ちになります。北欧の食器は、逆から組み立てました。同じ器形と同じ図案を、同じ品質で何度でもつくれるように設計し、それを社会全体の共有物にすることが目指されます。工業生産は、その再現を実現するための手段です。

違いは、生産が終わったあとの残り方に現れます。北欧ヴィンテージ食器は、工場が閉じ、素材が変わったあとも、二次流通で取引が続いています。生産終了から数十年を経て、なお継続的に売買されている品目もあります。同じ「古い器」でありながら残り方が違うのはなぜなのかを、デザイン史と経済学と会計基準を横断して解きます。

結論を先に書きます。価格が残っているのは、再現できるものとして設計された図案が社会の広い範囲へ行き渡り、生産が終わったあとも共通の呼び名として残ったからです。なおこの記事は、中古市場で価格がどう決まるかを説明したもので、将来の価格について述べたものではありません。

この記事でわかること

  • 日本と北欧を分けているのは、何を売り物として市場へ届けたかであること
  • 六古窯という枠組みの成り立ちと、日本の産地にもロクロ・型・施釉・量産の歴史があること
  • 北欧の工場が芸術家を内側に置いた制度と、その理念が実際に届いた範囲
  • ブランドや意匠への投資が、会計上どう扱われるのか
  • 突き合わせられる相手がいるという考え方から見た、価格が形成される条件
  • 生産を終えた食器に価格がつき、売買が成立する条件
  • 規格化された量産品が、代替のきかないものとして扱われるようになる仕組み

目次

  1. 軸を、「価値のつくり方」に置く
  2. 日本の伝統陶器は、素材と焼成を売り物にした
    1. 六古窯という枠組みを、まず確認する
    2. 成形も釉も、産地ごとに違う
    3. 日本にも、量産の歴史がある
    4. 揺らぎを消さないという選択
  3. 北欧の食器は、再現できる意匠を広めることに賭けた
    1. 芸術家を工場の内側に置く
    2. 掲げた理念と、届いた範囲
    3. カイ・フランクがキルタで解いたもの
    4. ベルサという一例
    5. 評価を支えているのは、意匠とシリーズと名前
  4. 「土の個体差」と「再現できる意匠」を並べてみる
  5. 会計から見る、北欧ヴィンテージ食器の価値
    1. 自分で育てたブランドは、帳簿に載らない
    2. 比べられる相手がいる資産に、市場価格が生まれる
    3. 会計の「識別可能性」と、中古品を「特定できる」ことは違う
  6. 生産を終えた北欧食器に、なぜ今も価格がつくのか
    1. 名前で探せることが、探す手間を下げている
    2. 「これが何か」と「どんな状態か」は、別の不確かさ
    3. これから新しくつくられることはない
    4. 一枚が、すでに持っている器との関係のなかで意味を持つ
    5. 同じだと分かる程度に揃い、選ぶ意味が生まれる程度に違う
  7. なぜ売買しやすいのか──中古市場が成立する四つの条件
  8. なぜ量産品は代替できない存在になったのか
    1. いったん値打ちを失ったものが、別の値打ちを得る
    2. 工業製品がヴィンテージになる五つの条件
    3. 最初から、美術家が工場で設計していた
  9. 日本の伝統陶器は、海外に評価されなければ生き残れないのか
  10. 北欧ヴィンテージ食器から、日本の産地が学べること
  11. 一回性を最初から価値にした仕組みと、あとから一回性を得た仕組み

軸を、「価値のつくり方」に置く

日本の伝統陶器と北欧食器を、一点ものと工業製品という対で語ると、どちらの実態からもずれます。日本の産地は千年近く量産を担ってきましたし、北欧の工場は美術家を雇って自由制作の部門まで抱えていました。手の数を数えても、この二つの違いは出てきません。

この記事では、それぞれの仕組みが何を源泉として器をつくってきたか、という軸を一本に決めます。日本の側に並ぶのは、土、炎、窯変、素材、焼成です。条件を完全にそろえられない以上、結果も同じにはなりません。その繰り返せなさを欠点ではなく強みとして引き受けたところに、この系譜の特徴があります。北欧の側に並ぶのは、再現可能なデザイン、シリーズ、ブランド、生活文化です。同じものを何度でもつくれることが前提に置かれ、工業生産はそれを成り立たせる手段でした。

生産終了後の残り方も、この軸で説明がつきます。日本の器に残るのは、二度と再現できない一回きりの結果です。北欧の器に残るのは、社会に共有された設計と名前です。

日本の伝統陶器は、素材と焼成を売り物にした

六古窯は、産地ごとに成形の方法も、釉薬の扱いも、つくってきた製品も違います。まとめて手びねりの一点ものと呼ぶと、産地の実態から離れます。

六古窯という枠組みを、まず確認する

「日本六古窯」は、1948年頃に古陶磁研究家の小山冨士夫(Fujio Koyama)が名づけた呼び名です。小山は前年の1947年に「越前」の語を用い、それまで語られてきた瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前の五窯に匹敵する産地として評価しています。六つを一つのまとまりとして呼ぶ言い方は、その頃から使われはじめました。2017年(平成29年)4月28日には、六市町が連携したストーリーとして、日本遺産「きっと恋する六古窯―日本生まれ日本育ちのやきもの産地―」が認定されています。

室町時代の信楽焼の壺。赤褐色の土肌に自然釉と焦げが混じる。箱根美術館所蔵
室町時代の信楽焼の壺。赤褐色の地肌に、灰と土が反応してガラス化した自然釉と焦げ。箱根美術館所蔵(画像:Daderot/CC0)

ただし、これは学術的に確定した分類ではありません。中世の日本には八十か所以上のやきもの産地があり、渥美(愛知)や珠洲(石川)のように、製品が遠くまで流通しながら中世のうちに操業を終えた大産地もあります。美濃が六古窯に入らない理由も規模ではなく、中世の美濃で施釉陶器の生産が継続的に行われなかったためです。愛知県陶磁美術館は、六古窯以外の中世窯もあわせて展示し、この区分そのものを再考する視点を示しています。

「中世から現在まで生産が続く」という言い方にも幅があります。越前焼は平安時代末期に始まり、一時の断絶を経ながら現在まで続いてきました。千年という数字は、キャッチコピーとして読むのが正確です。

成形も釉も、産地ごとに違う

常滑には、大型の壺や甕をつくるための「ヨリコづくり」という成形技法があります。直径10センチほどの粘土の棒を肩に担ぎ、人がロクロに代わって輪積みをしながら立ち上げていきます。第二次世界大戦末期には、ロケット戦闘機の燃料を製造するために、容量2,000リットルの大甕もつくられました。越前にも大甕の同種の技法がありますが、日本遺産の構成文化財としての名称は「陶芸越前大がめ捻じたて成形技法」で、常滑のヨリコづくりとは別の名で呼ばれます。

平安時代12世紀の常滑焼の壺。肩から胴へ緑灰色の自然釉が流れ、下部は土肌のまま。東京国立博物館所蔵
平安時代12世紀の常滑焼の壺。口が開き、肩から胴へ緑灰色の自然釉が流れ、下部は土肌のまま。三重県伊勢市二見町溝口出土、東京国立博物館所蔵(画像:Daderot/CC0)

丹波では、江戸時代のはじめに窯と道具が入れ替わります。桃山末期までの400年間は穴窯を使い、慶長16年(1611年)頃に朝鮮式半地上の登窯が入りました。成形の蹴ロクロも同じ時期で、これは立杭独特の左回転です。連房式の窯は一度に多くの器を焼け、蹴ロクロは同じ寸法の器を繰り返し挽けます。二つがそろい、大量生産の条件が整いました。

鎌倉時代の瀬戸焼の壺。全面に灰緑の釉がかかり、肩から胴に草花の線刻文。箱根美術館所蔵
鎌倉時代の瀬戸焼の壺。全面を灰緑の釉が覆い、肩から胴に草花の線刻文。六古窯のなかで施釉が早く発達した瀬戸を示す一例。箱根美術館所蔵(画像:Daderot/CC0)

釉薬の扱いは、瀬戸だけがはっきり違います。瀬戸では釉薬をかけた四耳壺、瓶子や天目、平碗などがつくられ、その他の五窯では釉薬をかけずに焼き締めた壺、甕、擂鉢が中心でした。瀬戸は、中世から施釉陶器の産地です。

日本にも、量産の歴史がある

日本の伝統陶器を一点ものの系譜としてだけ描くと、産地の実像から大きく外れます。六古窯が中世から続いてきたのは、生活に必要な器を、必要な数だけ供給し続けたからです。壺、甕、すり鉢、徳利、土管は、いずれも日常のなかで大量に消費される品目でした。ロクロも、型も、施釉も、産地はそのために使ってきました。

瀬戸では、江戸時代後期に磁器の生産も本格化します。熱田奉行・津金文左衛門(Bunzaemon Tsugane)から製法を教わった加藤吉左衛門(Kichizaemon Kato)・民吉(Tamikichi)父子が、試し焼きを重ねました。民吉は九州で修業し、文化4年(1807年)に帰国して瀬戸の磁器生産技術の発展に寄与します。「磁祖」は没後の顕彰名です。磁器は、同じ形と同じ白さを繰り返しつくるための素地でした。

常滑の登窯。傾斜地に築かれた煉瓦造の連房式の窯で、木造の覆屋の下に焚き口が並ぶ
常滑の登窯。傾斜地に築かれた煉瓦造の連房式の窯。木造の覆屋の下に並ぶ焚き口(画像:Gryffindor/CC BY-SA 4.0)

常滑は、土管という近代インフラの部材をつくりました。江戸時代後半から焼かれ、明治時代初期には鯉江方寿(Hoju Koie)が木型を使った量産の道を開きます。下水用、鉄道用、灌漑用、暗渠排水用と用途が変わっても、土管は常滑焼の代表的な製品であり続けました。近代には機械化が進み、煉瓦タイルや衛生陶器の生産も始まります。

日本の産地にとって、量産は当たり前の仕事でした。同じものを繰り返しつくる技術を持ちながら、それでも素材と焼成の差を消さなかったところに、この系譜の選択があります。

揺らぎを消さないという選択

信楽の自然釉は、薪を燃料とする窯のなかで生まれます。炎のなかで降りかかる灰と素地の成分が反応してガラス化し、ビードロ釉と呼ばれる質感になります。窯の温度や薪の種類によって、その表情は変わります。灰に埋まる部分が黒褐色になる「焦げ」も、土と炎が織りなす姿として扱われます。

江戸時代の備前焼の輪花皿。黄褐色から灰の窯変のなかに、赤い円が5つ残る。東京国立博物館所蔵
江戸時代の備前焼の輪花皿。黄褐色から灰へ移る窯変のなかに、5つの赤い円。東京国立博物館所蔵(画像:Daderot/CC0)

備前焼は登り窯や窖窯で焼成され、炎が表面に描き出した変化は「窯変」と呼ばれます。絵付けも施釉もせず、約1,200度で約2週間かけて焼き締めるあいだに、胡麻・棧切り・緋襷・牡丹餅といった表情が生まれます。牡丹餅は、皿や鉢の上に小さな陶土を置いて焼き、その部分だけ火を当てず赤い焼けむらをつけたものです。窯のなかでの置かれ方が、そのまま表面に残ります。

丹波焼の貯蔵用の壺。上半に黄褐色の自然釉、下部は焦げた土肌。器面に線刻の文様。ホノルル美術館所蔵
丹波焼の貯蔵用の壺。上半を黄褐色の自然釉が覆い、下部は焦げた土肌。器面には線刻の文様。ホノルル美術館所蔵(画像:Hiart/CC0)

焼成にかける日数も産地ごとに違います。備前は約2週間、越前は1週間ほど、丹波は三日三晩を要します。焼成温度もおよそ1,200度から1,300度と幅があり、六古窯に共通の焼成条件があるわけではありません。

越前の土は鉄分が多く耐火性が強いため、赤黒く、あるいは赤褐色に焼き締まり、水漏れがしにくい器になります。壺・甕・すり鉢という生活の雑器と、経筒や骨壺のような宗教的な用途の器が、そこから生まれました。

鎌倉時代の越前焼の壺。灰緑の自然釉が肩を覆い、胴に十字の刻み印が2箇所ある。箱根美術館所蔵
鎌倉時代の越前焼の壺。灰緑の自然釉が肩を覆い、胴には十字の刻み印が2箇所。箱根美術館所蔵(画像:Daderot/CC0)

一つの器の値打ちを組み立てているのは、制作の条件と来歴です。どの土を使い、どう成形し、窯のどこに置かれ、火や灰がどう作用したかが、そのまま評価の根拠になります。日本の民藝運動が名もなき職人の手仕事に見出した美意識とも重なり、その系譜は北欧食器と「用の美」──柳宗悦と北欧ミッドセンチュリーの交差点で詳しく扱っています。

北欧の食器は、再現できる意匠を広めることに賭けた

北欧の工場は、一つの形を、一定の品質で何度でもつくり出す仕組みを発展させました。目指したのは、よく設計された日用品を、できるだけ広い層へ行き渡らせることです。

芸術家を工場の内側に置く

1890年代のグスタフスベリの港と磁器工場。水辺に工場群が並び、円錐形の窯の煙突が立ち、帆船が接岸している白黒写真
1890年代のグスタフスベリの港と磁器工場。水辺に建つ工場群、円錐形の窯の煙突、接岸した帆船(画像:Sjöhistoriska museet/CC BY-SA 4.0)

グスタフスベリは1825年に設立され、1827年に生産を始めました。この工場が19世紀から置いていたのが、芸術監督(konstnärlig ledare)という職です。最初に就いたのがマグヌス・イセウス(Magnus Isæus)、1897年のストックホルム博覧会に向けてはグンナル・ヴェンネルベリ(Gunnar Wennerberg)が続きます。1917年に後を継いだヴィルヘルム・コーゲ(Wilhelm Kåge)は、1942年に工場のなかへ「グスタフスベリ・スタジオ」を創設しました。産業の生産要求と個人の芸術的な展開の双方に場を与える、実験的な工房です。

この二層構造がグスタフスベリの特徴です。スティグ・リンドベリ(Stig Lindberg)は1949年に芸術監督へ就任します。1950年入社のカリン・ビョルクイスト(Karin Björquist)も、1981年から1986年まで同じ職にありました。量産のセットとスタジオの美術陶器が、同じ組織のなかで並行していました。コレクションは45,000点を超え、2000年に国家へ寄贈されて以後はスウェーデン国立美術館が管理しています。窯の歴史と各シリーズの全体像はグスタフスベリ完全ガイドに、同じスウェーデンのロールストランド(Rörstrand)についてはロールストランド入門にまとめています。

ヘルシンキのARABIA工場の建物。煉瓦造の大きな工場棟と煙突
ヘルシンキのARABIA工場の建物(画像:Markus Koljonen/CC BY-SA 3.0)

ARABIAも同じ構造を持っていました。1932年に芸術監督として迎えたクルト・エクホルム(Kurt Ekholm)が、芸術部門(taideosasto)を編成します。在籍したのは、トイニ・ムオナ(Toini Muona)、ミハエル・シルキン(Michael Schilkin)、ビルゲル・カイピアイネン(Birger Kaipiainen)、ルート・ブリュック(Rut Bryk)、キュッリッキ・サルメンハーラ(Kyllikki Salmenhaara)といった作家です。ただし芸術部門と、量産品の意匠を担う部門は分かれていました。混同すると、工場の仕組みが見えなくなります。

掲げた理念と、届いた範囲

1917年、ストックホルムのリリエヴァルクスで「住まいの展覧会(Hemutställningen)」が開かれます。コーゲはそこで、グスタフスベリのために「労働者の食器(arbetarservis)」を発表しました。リリエブロー(Liljeblå)と呼ばれるこのセットは、芸術家と産業が協働し、美しく実用的な家庭用品を労働者とその家族へ届けようとした初期の試みです。1919年にはグレゴール・パウルソン(Gregor Paulsson)が『より美しい日用品(Vackrare vardagsvara)』を刊行します。芸術家が工場と直接組んで質の高い日用品をつくるというこの主張は、スウェーデン工芸協会のスローガンになりました。

ここまでが理念です。届いた範囲は、別に見ておく必要があります。リリエブローは、工場でいちばん安いセットの約2倍の価格になりました。その簡素さは「貧しさの表れ」と受け取られ、実際に買ったのは教養ある中産層でした。生産は1936年まで、補充品の供給は1939年までです。

器そのものは、それ以前から工場が量産していました。グスタフスベリは1825年の設立、ARABIAは1870年代から家庭用のファイアンスや衛生陶器を手がけ、1930年代の大拡張で従業員は1,500人を超えます。20世紀に新しかったのは、「デザインされた」日用品という考え方と、それを支える企業内デザイナー制度のほうです。

カイ・フランクがキルタで解いたもの

白衣を着たカイ・フランクがろくろに向かい、小さな器の口縁に道具を当てている白黒写真
白衣姿でろくろに向かい、小さな器の口縁に道具を当てるカイ・フランク(画像:パブリックドメイン)

カイ・フランク(Kaj Franck、1911–1989)は、1932年にヘルシンキ中央工芸学校をインテリア建築家として卒業しました。1945年にARABIAへ入って製品設計の発展にあたり、1948年には芸術監督に就いています。1951年からはヌータヤルヴィ(Nuutajärvi)でも同じ職を務め、1960年代には工芸美術大学で教鞭を執りました。ヘルシンキの建築・デザイン博物館は、フランク関連の資料を7,000点以上所蔵しています。

キルタのシリーズを並べた写真。黄色を中心に黒と緑の器が並び、ボウル、円筒形の容器、ポット、蓋物、平皿、角皿が揃う
キルタのシリーズ。黄色を中心に並ぶ黒と緑の器。ボウル、円筒形の容器、ポット、蓋物、平皿、角皿と揃う器種(画像:Otto-Ville Mikkelä/パブリックドメイン)

フランクがキルタ(Kilta)で解いたのは、多品種で装飾的なディナーセットという前提そのものでした。目指したのは、幾何学の基本形にもとづく、組み合わせ可能で多用途な器の集合です。装飾模様を持たず、色そのものが装飾を兼ねました。設計は1949年に始まり、それ以前に起こされた型と新規の型を組み合わせて成立し、1953年に発表されます。

キルタは1974年に生産を終えます。同じ年、ヘルシンキの工場ではファイアンスの生産も終了しました。その後フランクは、元の形状が新しい素地に適さなかったため、ストーンウェアに合わせて形状を起こし直します。蓋のつまみを刷新し、ハンドルの接合を単純にし、寸法も変更しました。この作業に1970年代後半の約3年をかけ、1981年にティーマ(Teema)として発売されます。改名ではなく、やり直しです。この経緯はイッタラ ティーマ完全ガイドで年表とともに整理しています。

工場の設備についても、1970年代の刷新は既存設備の入れ替えと増設にあたります。トンネル窯の建屋は1929年に完成しており、1979年には自動成形ラインと2基のトンネル窯が加わりました。

ベルサという一例

ベルサは、この仕組みがそのまま形になった一例です。スティグ・リンドベリが1961年に発表した緑の葉の連続文で、プレートにもボウルにもカップにもポットにも、同じ葉が展開されました。器種を越えて同じ図案を回すという発想が、シリーズという単位を成り立たせています。買い足しても並べても葉のつながりが崩れないのは、そのためです。生産は1974年に終わりました。それでも底面の刻印は、当時のまま残っています。

ベルサの皿の底面。緑の葉のリースの中に、グスタフスベリの社名、品質表示、型番、シリーズ名、素材名、デザイナー名、製造国が並ぶ
ベルサの底面。緑の葉のリースの中に、工場名(グスタフスベリ)、品質表示の記号、型番、シリーズ名(ベルサ)、素材名(フリントゴッズ)、デザイナー名(スティグ・リンドベリ)、製造国(スウェーデン)という7つの情報

だから半世紀後のいま、「ベルサ」と一語書けば、買い手には何を指しているかが伝わります。生産が止まったあとも、名前と刻印だけが働き続けています。

ただし、届く一枚は同じではありません。同じ18センチのプレートでも、底面の刻印は年代によって書き方が変わります。緑の濃さにも差があり、青みの寄った個体もあれば、黄に振れた個体もあります。重ねて使われた器には輪の跡が残り、洗われ続けた縁は葉の先が薄くなっています。名前で探せるのに、一枚ずつ違う。この記事が扱ってきた二つの層は、一枚のプレートの上で重なっています。

評価を支えているのは、意匠とシリーズと名前

北欧ヴィンテージ食器は工場で大量に生産されましたが、いま評価されているのは設計思想のほうです。20世紀に量産された食器のうち、二次流通に残ったのはごく一部でした。

残ったのは、繰り返しつくれる意匠と、シリーズと、ブランドが積み重なったところです。器形も図案も専門の設計者が決め、それが名前を持った集合として売られ、工場名と刻印が出自を裏づけました。いずれも器そのものの外側にある情報です。工業生産は、それを社会へ届けるための手段でした。何度でもつくれたからこそ、図案は一部の愛好家ではなく家庭の戸棚に入り、数十年にわたって使われ、共通の記憶になりました。「ベルサ」「パラティッシ(Paratiisi)」「モナミ(Mon Amie)」という言葉が説明なしに通じるのは、そのためです。その通じ方が、二次流通の土台になっています。

「土の個体差」と「再現できる意匠」を並べてみる

ここまでの違いを、価値のつくり方という軸で並べてみます。

観点 六古窯に代表される日本の伝統陶器 北欧の工場製食器
価値の源泉 土、火、灰、成形、窯変、産地の来歴 繰り返しつくれる意匠、シリーズ、ブランド、生活文化
価値が宿る場所 個体そのもの 個体の外側にある、共有された情報
個体差 焼成の結果として積極的に受け入れる 一定の範囲に整えつつ、製造差も残る
市場での同定 土、作家、窯、焼き、箱書きなど バックスタンプ、シリーズ名、デザイナー、年代
価格の手がかり 似た事例が少なく、見積りの比重が大きい 同型同柄の成約例が積み上がり、読み取りやすい
買い方 一つの器そのものを選ぶ シリーズを揃える、足す、組み合わせる

ただしこれは、傾向の整理です。日本にも型や絵付けを用いた量産の陶磁器があり、北欧にも一点制作の作品や、釉薬と焼成による強い個体差を持つ作品があります。実際、この二つは交わることもあります。2026年には信楽でスティグ・リンドベリの展覧会が開かれました。その様子は信楽で開催中「スティグ・リンドベリ展」レポートにまとめています。

会計から見る、北欧ヴィンテージ食器の価値

ここからは会計基準を通して見ます。企業の活動を数字に置き換える規則に照らすと、器の値打ちがどこにあって、どこに記録されていないのかが、はっきりした輪郭を持ちます。

自分で育てたブランドは、帳簿に載らない

会計のルールでは、自社で育てたブランドの価値を資産として帳簿に載せることは認められていません。国際会計基準は、内部で創出したブランドや顧客リストを無形資産として認識してはならないと定めています(IAS第38号第63項)。ブランドを育てる支出は、事業そのものを育てる支出と切り離せません。広告費なのか人件費なのかを分けられず、どこまでが原価なのかを信頼できる形で測れないからです。

意匠を起こす費用も、同じように残りません。日本の会計基準では研究開発費は発生時に費用として処理され、その支出がこれに当たれば、その年の費用になります。型は有形固定資産として計上され、耐用年数にわたって償却されて消えます。

つまり、ブランドやデザインへの投資は企業の価値を生みますが、会計上は資産として計上されません。そして帳簿に表れなかったものが、五十年後の中古市場で最も強く働いています。当時いくらかけたかは、いま手元にある一枚の値段を決める材料になりません。実際の値付けと価格帯は北欧ヴィンテージ食器の価格ガイド|なぜ高いのかで整理しています。

比べられる相手がいる資産に、市場価格が生まれる

値が読めるかどうかは、突き合わせられる相手がいるかどうかで決まります。会計ではこれを比較可能性(comparability)と呼びます。北欧ヴィンテージ食器には、その条件が四つ揃っています。シリーズ名、デザイナー名、製造時期をある程度まで絞れるバックスタンプ、そして世界のどこでも通じる名称です。四つが揃うと、目の前の一枚は「これに似た何か」ではなく「同じ集合に属する一枚」として扱えます。同じ名前のもとに過去の成約が集まり、売り手も買い手も相場の当たりをつけられます。

ただし、成約が積み上がることと、会計でいう活発な市場が存在することは別です。中古食器の取引は散発的で、同一の資産の相場価格が継続的に得られるほどの数量と頻度はありません。

一点制作の作品では、事情が違います。参照できる取引事例が少なく、前に出るのは鑑定する人の判断です。そこで示される数字は、市場が形成した価格というより、専門家が導いた評価額に近いものになります。優劣ではなく、価格情報の性質の違いです。

ひとつ区切っておきます。突き合わせやすいことは、価格が形成されやすいということにすぎません。需要が薄くなれば、突き合わせやすいままで水準だけが下がります。ここで保証されるのは、値そのものではなく、値の読みやすさです。

会計の「識別可能性」と、中古品を「特定できる」ことは違う

この二つは、言葉が似ているだけで、指しているものが違います。会計でいう識別可能性は、ある無形の値打ちを、のれんから切り分けて単独の資産として認識できるかを判定する要件です。会社から切り離して譲れること、または法的権利から生じていることが、その入口になります(IAS第38号第12項)。

中古市場で問われるのは、別のことです。目の前の一枚がどの窯の、どのシリーズの、いつ頃つくられたものかを確定できるかどうかです。裏印の形、刻印、絵付師のマーク、形状から判断します。前節の突き合わせやすさを支えているのは、会計上の識別可能性ではなく、こちらの特定できることのほうです。

接点はあります。シリーズ名が商標として登録されていれば、会計上も識別可能な無形資産になりえます。ただしそれは権利を持つ会社の話です。かつて器の底に焼き付けられた名前が、権利者の手を離れたところで、いまも目印として働いています。刻印の読み方は北欧食器のバックスタンプ総合ガイドに体系的にまとめてあります。

生産を終えた北欧食器に、なぜ今も価格がつくのか

「古いから」だけでは説明がつきません。少なくとも五つに分けられます。

名前で探せることが、探す手間を下げている

買い手が売り手を見つけ、価格を確かめるまでには手間がかかります。経済学ではこれを探索費用と呼びます。北欧の食器には、製品名、デザイナー、製造工場、年代、バックスタンプという情報が器そのものに刻まれています。だから購入者は「青い花柄の皿」ではなく、「ロールストランドのモナミ」「ARABIAのパラティッシ」「グスタフスベリのベルサ」として探せます。

モナミの旧いバックスタンプ。シリーズ名と青い花飾り2つ、筆記体のロールストランドの社名、三つの王冠、スウェーデンの表示
モナミの旧いバックスタンプ。シリーズ名と青い花飾りが2つ、筆記体のロールストランドの社名、その上に三つの王冠、スウェーデン製の表示
モナミの後年のバックスタンプ。シリーズ名と花飾り、デザイナー名のマリアンヌ・ウェストマン、王冠つきのR、サンセリフのロールストランドの社名
モナミの後年のバックスタンプ。シリーズ名と花飾りに加わる、デザイナー名のマリアンヌ・ウェストマン、王冠つきの頭文字、角ばった書体のロールストランドの社名。旧いものと同じく正規の刻印

同じシリーズでも、年代によって刻印は変わります。上の二枚はどちらもモナミの正規のバックスタンプで、後年のものにはデザイナー名が加わり、社名の書体も変わっています。どちらかが誤りということではなく、同じ名前のもとにある時期の違いです。

「これが何か」と「どんな状態か」は、別の不確かさ

中古品を買うときの不安は、これが何なのか分からない不安と、どんな状態なのか分からない不安に分かれます。この二つは、下げる手段が違います。

パラティッシのヴァルチラ期のバックスタンプ。王冠マークとARABIAの社名、ヴァルチラ傘下のフィンランド製の表示、シリーズ名、3言語の食洗機の表示
パラティッシのヴァルチラ期のバックスタンプ。王冠マークとARABIAの社名、ヴァルチラ傘下のフィンランド製の表示、シリーズ名、そして3言語で記された食洗機の表示
パラティッシのフィンランド製表記期のバックスタンプ。王冠マークとARABIAの社名、フィンランド製の表示、その下にシリーズ名
パラティッシのフィンランド製表記期のバックスタンプ。王冠マークとARABIAの社名、フィンランド製の表示、その下にシリーズ名

前者を下げるのは、バックスタンプです。パラティッシの場合、ヴァルチラの社名が入る時期と、フィンランド製の表記だけになる時期とで、底面の情報が違います。この違いを読み分けられるかどうかが、そのまま年代の判定につながります。個別の詳細はベルサ完全ガイドパラティッシ完全ガイドにまとめてあります。

後者を下げるのは、売り手の開示です。貫入の有無、擦れ、欠け、金彩の減りといった状態の情報は、器を手に取って確かめた者にしか分かりません。だから検品の記録と、状態の表示と、返品の条件が要ります。ジョージ・アカロフ(George Akerlof)は、中古車市場を例にこう示しました。売り手だけが品質を知る市場では、買い手は平均を前提にした値しかつけられません。その水準では割に合わない良質な売り手が、降りていきます。開示は売り手の負担ですが、それが取引を成り立たせています。

この二つは、減らし方の順序も違います。何であるかは、器に刻まれた情報を読めば売り手と買い手のあいだで一致しますが、どんな状態かは、売り手が見たものを言葉と写真に置き換えないと買い手へ届きません。前者は最初から器の側にあり、後者は人がつくる必要があります。中古の北欧食器で開示の巧拙が値に効くのは、この差のためです。

これから新しくつくられることはない

生産が終わっている以上、新しくつくられることはありません。二次流通に出てくるのは、すでにどこかで使われてきた個体だけです。ただし、決まっているのは総数がもう増えないことまでで、市場に出てくる数は動きます。総数は割れるたびに減り、値が高くなれば手放す人が出てきます。復刻されれば前提が変わり、ARABIAやイッタラには実際に復刻の例があります。北欧の家庭から器が手放される経路そのものにも背景があり、その仕組みは北欧ヴィンテージ食器が生まれる理由〜形見を手放す文化〜で扱っています。

需要のほうも固定されていません。集める人が減れば、価格は下がります。かつて高値がついたあとで下がった分野もあります。作り手が量を調整することは、もうできません。

一枚が、すでに持っている器との関係のなかで意味を持つ

同じカップのソーサーを補ったり、プレートを一枚足したり、異なる器形で同じ柄を揃えたりします。経済学でいう補完財の関係です。すでに何枚か持っている人にとって、足りない一枚の値打ちは単体で見たときより大きくなります。並べたときの見え方が変わるからです。この上乗せが大きくなるのは、欠けた一枚を埋める場合に限られます。ただし初めての人にも、カップとソーサーのように一緒に使う器のあいだでは、補完の関係が働きます。

ここで働いているのは、参加者が増えるほど売り手と買い手が出会いやすくなる、市場の厚みの効果です。集める人が多い品目で出品が増えるのも、手放す人と探している人が出会いやすくなるからです。

同じだと分かる程度に揃い、選ぶ意味が生まれる程度に違う

シリーズとして同じ図案を共有しながら、製造の時期、素地、色調、焼成、装飾の位置などに差があります。完全な一点ものなら買い足せず、完全に均一な現行品なら特定の年代や個体を探す理由が弱くなります。北欧ヴィンテージ食器は、同じものだと認識できる程度には揃っていて、選ぶ意味が生まれる程度には違います。この同居が、市場を成立させています。定義そのものについては、「北欧食器」と「北欧ヴィンテージ食器」の違いで整理しています。

なぜ売買しやすいのか──中古市場が成立する四つの条件

前章で見たのは、生産を終えた器に価格がつく理由でした。価格がつくことと、実際に売買が成立しやすいこととは、別の問題です。

第一に、同じシリーズを探す人が世界中にいます。買い手はスウェーデンにも、フィンランドにも、日本にもいて、その全員が同じ一つの名前で探しています。国内だけなら成り立たない需要でも、名前が国境を越えていれば、買い手の母数が積み上がります。

第二に、新規の生産がありません。現存する総数はもう増えず、割れるたびに減っていきます。市場に出てくる数のほうは固定ではなく、値が上がれば手放す人が増えます。作り手が量を調整できない代わりに、価格が「誰が持ち続け、誰が手放すか」の配分を進めます。取引が成立しやすいのは、この配分が値段によって進むからです。

第三に、状態を突き合わせられます。同じ型から出た同じ図案なので、何であるかの確認は刻印で片づき、残るのは主に状態の判断になります。貫入の有無、擦れ、欠け、金彩の減りといった項目を見ていくことになります。何であるかを毎回一から確かめる必要がなく、状態の記述だけで判断が進みます。

第四に、価格を突き合わせられます。同じ名前のもとに過去の成約が集まるので、売り手も買い手も、値の当たりをつけたうえで交渉に入れます。公表された相場はありませんが、参照できる事例が積み上がっている点が、まったく手がかりのない取引との違いです。

なお、売買しやすいことは値が上がることを意味しません。摩擦が小さい市場では、需要が薄くなったときの下げも、同じように早く伝わります。

なぜ量産品は代替できない存在になったのか

規格化された量産品が、時間を経て、代替のきかないものとして扱われるようになります。この現象を正面から扱った議論が、いくつかあります。

いったん値打ちを失ったものが、別の値打ちを得る

イギリスの人類学者マイケル・トンプソン(Michael Thompson)は、1979年の『ラビッシュ・セオリー』で物を三つに整理しました。時間とともに値打ちが下がっていくもの、上がっていくもの、そしてその間で値打ちを失った状態です。大量生産品はまず前者として減価し、いったん無価値の状態に落ち、そこから後者へ移ることがあります。アンティーク家具も、旧いクルマも、古い住宅も、この経路をたどりました。

北欧の食器も同じ道を通っています。1970年代から80年代にかけて、これらの器は「一世代前の古い食器」でした。流行から外れ、戸棚の奥へ移り、処分の対象にもなりました。いまの市場が成り立っているのは、その時期を越えて残った個体があるからです。忘れられた期間があったことは、この評価のされ方に組み込まれています。

人類学者イゴール・コピトフ(Igor Kopytoff)は、1986年の論文「物の文化的伝記」で二つの過程を対にして捉えました。物が商品になっていく過程と、その逆に、代えのきかない一つのものになっていく過程です。前者ではその物は同じ種類の他のものと交換でき、後者では交換できなくなります。北欧の食器は、工場を出たあとに後者へ入りました。

ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)の議論とは、向きが逆になります。ベンヤミンは1930年代の『複製技術時代の芸術作品』で、複製できるものからは「いま、ここ」の一回性が失われると書きました。彼が想定していなかったのは、複製の側が止まる事態です。同じものが二度と作られなくなったとき、残った一つひとつは互いに交換できなくなります。工場を出た時点では、同じ型から出た何万枚のうちの一枚でした。いまは、一枚ずつが別のものになっています。

工業製品がヴィンテージになる五つの条件

工場から出た日用品が数十年後に取引される対象になるには、少なくとも次の五つが必要になります。

  • 優れたデザイン:流行から外れた時期を越えて、設計そのものが評価に耐えること
  • 生産終了:新しくつくられる可能性がなくなり、供給が過去の生産分に限られること
  • 特定可能性:シリーズ名、デザイナー名、刻印から、それが何であるかを確定できること
  • 国際市場:同じ名前で探す人が、国境を越えて存在すること
  • シリーズ文化:一枚を足し、組み合わせて使う習慣が、買い手の側にあること

設計が優れていても名前が残らなければ探せませんし、名前が残っていても買い手が一国に限られれば市場は薄いままです。20世紀に量産された食器のうち二次流通に残ったのは一部で、残ったものと残らなかったものを分ける要因として、この五つが挙げられます。

最初から、美術家が工場で設計していた

ここで、史実の側から補正を入れておきます。北欧のミッドセンチュリーに限っていえば、これらの器は最初から美術家が工場で設計したものでした。パウルソンが『より美しい日用品』で掲げたのも、芸術家が工場に入って機械生産品の質を上げるという思想です。ドイツ工作連盟をモデルにしたこの主張は、以前から芸術家と産業を橋渡ししてきたスウェーデン工芸協会の綱領になりました。コーゲが1917年にグスタフスベリへ入ったのも、エクホルムが1932年にARABIAで芸術部門を編成したのも、同じ流れのなかにあります。

あとから変わったのは、一回性のほうです。設計された時点では、同じものを何万枚も送り出すことが目的でした。いまは、その何万枚のうち残った分だけが存在し、一枚ずつ状態が違います。工芸性は最初からあり、一回性はあとから生まれました。

経済学の言葉に置き換えると、同じ品目は、新品の時点では互いに同質な財でした。どれを買っても同じであれば、価格が競争軸になります。生産が終わって個体ごとに状態の差が生じると、差別化された財に移り、個体の特定性が強まれば一点物に近づきます。同質財の市場から、買い手と売り手を突き合わせるマッチング型へ移ったということです。

日本の伝統陶器は、海外に評価されなければ生き残れないのか

起きているのは、需要構造の変化です。生活様式の変化によって、大甕、壺、すり鉢、火鉢といった、かつて大量に必要とされた製品の需要は縮小しました。従来の国内の用途だけでは成り立ちにくくなった産地がある、というのが実態です。だから産地は新しい用途と顧客と流通を探しています。海外市場も、観光も、建築も、現代美術との接続も、そのための選択肢です。これは販路の多様化であって、海外に認められることは条件の一つにとどまります。

越前焼の生産は室町時代を境に下火になり、江戸時代後期に瀬戸から連房式の登り窯の技術が伝わったあとも徐々に減っていきました。明治期には水道の普及と磁器の広がりによって、需要はさらに落ち込みます。衰退は室町以降の長期的な傾向で、明治期の需要減がそれを決定づけた、と両方を並べておくのが正確です。

むしろ注意したいのは、外国からの評価だけを目標に置いたときに起きることです。海外の買い手に分かりやすい「日本らしさ」だけが選ばれ、産地が持っていた生活道具としての幅が失われる可能性があります。荒い土、窯変、侘び寂びといった説明に回収されすぎれば、時代の需要に合わせて製品も技法も変えてきた産地の歴史が見えなくなります。

六古窯が続いたのは、つくるものを変え続けたからです。信楽の中世の水がめ・すり鉢・壺は、室町から桃山にかけて茶道具へ移りました。第二次世界大戦末期には信楽焼の火鉢が全国シェアの80パーセントを占め、石油ストーブの普及で激減したあとは、植木鉢、外装タイル、花器へ転換しています。丹波も、明治の一升徳利から大正の中型徳利、昭和初期の植木鉢、戦時の硫酸瓶、戦後の汽車茶瓶・陶器ブロック・瓦へと移り、そののち民芸品へと向かいました。瀬戸では、飲食器や装飾具に加えて、衛生陶器、碍子、理化学用品、建築用陶器、ノベルティが生産されます。ノベルティは世界へ輸出されましたが、1980年代末以降の急激な円高と市場の変化で、生産量もメーカーも大きく減りました。

甕や壺から、茶陶へ、急須へ、土管へ、タイルや建築材へと、産地はつくるものを変えてきました。伝統とは同じ製品を守り続けることではなく、産地の技術を別の需要へ翻訳し続けることでもあります。海外市場は、その翻訳先の一つです。

北欧ヴィンテージ食器から、日本の産地が学べること

北欧食器の市場を支えているのは、絵柄の華やかさよりも、器と結びついた情報の蓄積です。誰が設計し、いつ、どの工場でつくられ、どの集合に属し、後年のものと何が違うのかが、記録として残っています。

リサ・ラーソン作品の底面。シャモット素地に型押しの手のマークと、リサの署名、グスタフスベリとスウェーデンの表示
リサ・ラーソン作品の工場期の刻印。ざらついたシャモット素地に、型押しの手のマーク、作家名、グスタフスベリとスウェーデンの表示

量産された器の底に、作家の名前が型押しで残っています。日本の伝統的なやきものにも、土、窯、陶工、焼成、用途という豊かな情報があります。しかしそれが商品名や記録写真、寸法、制作年として整理されていなければ、中古でも海外でも、検索しにくく、比べにくいままです。会計の章で見た比較可能性は、器の質ではなく、情報の残し方によって決まる部分が大きいということです。

北欧の工場は、名前を管理する仕組みを企業の内側に持っていました。商標を登録し、カタログを刷り、刻印を器に焼き付け、デザイナーの名前を記録しました。その支出は帳簿のうえでは費用として消えましたが、残ったのは、五十年後の二次流通で働く共通の言語でした。学べるのは、ものの背景をあとから特定できる情報として残し、次の所有者へ渡す仕組みのほうです。それは値を高く見せるためではなく、買い手が違いを理解し、選び、次の人へ説明できるようにするための基盤になります。

一回性を最初から価値にした仕組みと、あとから一回性を得た仕組み

六古窯に代表される日本の伝統陶器と、北欧ヴィンテージ食器は、一回性という同じ場所に、逆の方向からたどり着いています。

日本の伝統陶器は、再現できない一回性を、はじめから価値にしてきました。同じ土を掘り、同じ窯に入れ、同じ薪を焚いても、同じ器にはなりません。灰の降り方も、置かれた場所も、炎の当たり方も違います。その繰り返せなさを、そのまま引き受けます。

北欧ヴィンテージ食器は、逆から来ました。何万枚でも同じものをつくれるように設計され、その図案は目的どおりに社会へ広がり、家庭の戸棚に収まりました。そして工場が閉じ、素材が変わり、型が使われなくなったとき、繰り返すために生まれたものが、繰り返せない過去になりました。

ここで比べたのは国民性ではなく、価値を生む仕組みです。六古窯にもロクロがあり、型があり、施釉があり、登窯による量産がありました。繰り返す技術を持ったうえで、素材と焼成が生む差を消さないほうを選んでいます。繰り返せるのに繰り返しきらないという選択と、繰り返すために設計するという選択が、二つの系譜を分けています。

いま価格がついているのは、二つの層が重なっているからです。共有された図案と名前があるから市場が成り立ち、一枚ずつの状態と履歴が違うから選ぶ意味が生まれます。

日本は最初から一回性を持つ文化でした。北欧は、共有されるために生まれたデザインが、時間を経て一回性を持つようになりました。

要点の整理

  • 二つを分けているのは、何を価値の源泉に置いたかです。日本は土・炎・窯変・素材・焼成、北欧は繰り返しつくれる意匠・シリーズ・ブランド・生活文化に価値を置きました
  • 六古窯は1948年頃に名づけられた枠組みで、学術的に確定した分類ではありません。中世日本には八十か所以上の産地がありました
  • 日本の産地にも量産の歴史があります。瀬戸は中世から施釉陶器を焼き江戸後期には磁器も手がけ、常滑は木型による土管の量産へ進み、丹波には1611年頃に登窯と蹴ロクロが入りました
  • 会計のルールでは、自社で育てたブランドも意匠を起こす費用も資産として残りません。帳簿に表れなかったものが、二次流通で最も強く働いています
  • シリーズ名・デザイナー名・刻印による年代の識別・世界共通の名称という四つが揃うと、値が読めるようになります。ただし中古食器の取引は、会計でいう活発な市場にはあたりません
  • 日本の器は最初から一回性を持ち、北欧の器は生産が止まったあとに一回性を得ました。売買しやすさは、値が上がることを意味しません

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