カール=ハリー・ストールハネ完全ガイド|ロールストランドの釉薬の詩人——宋代の美を北欧に移したセラミスト
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この記事でわかること
- カール=ハリー・ストールハネ(1920-1990)——宋代中国陶磁器の美を北欧に移植したロールストランドのアートディレクター
- 18歳でグンナー・ニールンドの門を叩き、パリで彫刻家ザッキンに師事。28歳でミラノ・トリエンナーレ金メダル
- 兎の毛釉・マットモノクローム——自らはろくろを回さず、釉薬と装飾に全てを賭けた制作スタイル
- MoMA、V&A、ストックホルム国立美術館に収蔵。1973年に独立工房デザインフーセットを設立
目次
ストールハネとは
北欧のオークション会場で、深い黒褐色の釉薬をまとったストーンウェアの花瓶が出品されると、目利きのコレクターたちが姿勢を正します。カール=ハリー・ストールハネ(Carl-Harry Stalhane, 1920-1990)——ロールストランドのアートディレクターとして、宋代中国陶磁器の美を北欧に移植した陶芸家の作品です。
ストールハネの作品は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)、ストックホルムの国立美術館(Nationalmuseum)に収蔵されています。グンナー・ニールンドの後任としてロールストランドのアートディレクターを務め、28歳でミラノ・トリエンナーレ金メダルを獲得した実力は、同時代の北欧セラミストの中でも傑出したものでした。
その作品の核心は釉薬にあります。宋代の建窯に由来する兎の毛釉(hare's fur glaze)、静かに沈む黒、深い茶、渋い緑のモノクローム。派手な装飾を一切排し、釉薬そのものの表情だけで勝負する——ストールハネの仕事は、北欧陶芸における「引き算の美学」の到達点でした。
マリエスタッドの少年時代
1920年12月15日、ストールハネはスウェーデン西部の町マリエスタッド(Mariestad)に生まれました。マリエスタッドはスウェーデン最大の湖であるヴェーネルン湖の東岸に位置する小さな町です。16世紀末に建てられた大聖堂が街のシンボルとして今も残り、穏やかな湖畔の風景がこの町を特徴づけています。
ヴェーネルン湖畔で過ごした少年時代について、詳細な記録は残されていません。しかし、のちにストールハネがロールストランドの拠点リードヒェーピング——マリエスタッドと同じヴェーネルン湖畔に位置する町——で生涯を終えたことを考えると、この湖がストールハネの人生を静かに貫く伏線となっていたことがわかります。
ロールストランドへの入社(1939年)
1939年、18歳のストールハネはロールストランドのリードヒェーピング工場に入社しました。配属先は、当時アートディレクターを務めていたグンナー・ニールンドのもとでした。
ストールハネは美術学校やアカデミーを経由せず、工房での徒弟訓練から陶芸の道に入りました。ニールンドは当時すでに、サクソ(SAXBO)の共同設立者として国際的な評価を確立し、ロールストランドにマット釉薬のストーンウェアを持ち込んだ人物でした。兎毛釉、辰砂釉、結晶釉——ニールンドが開拓した東洋由来の釉薬技法は、若きストールハネの感性に深く刻まれました。
師ニールンドから受け継いだのは、技法だけではありません。宋代中国陶磁器に対する深い敬意——装飾ではなく釉薬そのものの表情で作品を語らせるという哲学が、ストールハネの創作の根幹を形づくることになります。
グリューネヴァルドとパリ(1944-1948年)
1943年、スウェーデンを代表する画家イサーク・グリューネヴァルド(Isaac Grunewald)がロールストランドを訪れました。この出会いが、ストールハネのキャリアに新しい次元を開きます。グリューネヴァルドはストールハネの才能を認め、ストックホルムにある自身の絵画学校への入学を勧めました。
1944年から、ストールハネはグリューネヴァルド絵画学校で絵画と彫刻を学びます。陶芸の徒弟から出発した青年が、ここで初めて純粋美術の体系的な教育を受けたのです。グリューネヴァルドはアンリ・マティスに師事した経験を持つフォーヴィスムの画家であり、色彩と造形に対する大胆なアプローチは、のちのストールハネの釉薬表現にも影響を与えました。
その後、ストールハネはパリに渡り、アカデミー・コラロッシ(Academie Colarossi)でロシア出身の彫刻家オシップ・ザッキン(Ossip Zadkine)に師事しました。キュビスムの影響を受けたザッキンのもとで、ストールハネは立体造形の新しい可能性に触れます。陶芸の手仕事、グリューネヴァルドの色彩感覚、ザッキンの彫刻的思考——この3つの要素が、やがてストールハネ独自の釉薬芸術として結実していきます。
帰国後すぐの1948年、ストールハネは第8回ミラノ・トリエンナーレで金メダルを獲得しました。28歳での受賞でした。パリでの修行がもたらした視野の広がりと、ロールストランドでの徒弟訓練で培った技術的基盤——その両方が凝縮された成果です。
釉薬の探求——宋代の美を北欧に
ストールハネの芸術の核心は、釉薬にあります。師ニールンドから受け継いだ宋代中国陶磁器への傾倒を、ストールハネはさらに深く、さらに純粋に追求しました。
兎の毛釉とモノクロームの世界
宋代の建窯(福建省)で生まれた天目茶碗には、「兎毫盞」(兎の毛筋のある盃)と呼ばれるものがありました。黒い釉薬の表面に、茶色や銀色の細い筋が流れるように現れる——自然の偶発性が生む、二度と同じものが現れない表情です。ストールハネはこの兎の毛釉(hare's fur glaze)を自身の中心的な技法として深く探求しました。
ストールハネの作品を特徴づけるのは、色調の極端な抑制です。黒、暗褐色、深い緑、時に鉄錆色。いずれもマットな仕上がりで、光を吸い込むような静かな表面を持っています。装飾的な絵付けや明るい色彩を排し、釉薬そのものの物質的な存在感だけで作品を成立させる——それがストールハネの方法でした。
フリーベリとの対比——ろくろを回さない陶芸家
ストールハネの制作には、重要な特徴がありました。ストールハネ自身はろくろを回しませんでした。デザイン画を描き、それを熟練の陶工が成形し、ストールハネが装飾と釉薬を施すという分業体制で制作が行われていました。
同時代にグスタフスベリで活動したベルント・フリーベリ(Berndt Friberg)は、すべての工程を自分の手で行う陶芸家でした。ろくろを回し、成形し、釉薬をかけ、窯に入れる——フリーベリにとって、器の形は自分の手から直接生まれるものでした。同じ宋代陶磁器に傾倒しながら、フリーベリは「手から形へ」、ストールハネは「眼から表面へ」というまったく異なる道を歩んだのです。
ストールハネにとって、ろくろを回さないことは制約ではなく選択でした。自身の全精力を釉薬の探求に集中させることで、北欧のどの陶芸家とも異なる領域を切り拓いたのです。
アートディレクター就任(1958年)
1958年、ストールハネはニールンドの後任として、ロールストランドのアートディレクターに正式に任命されました。ニールンドのもとで約20年間にわたり経験を積んだストールハネにとって、この就任は自然な継承でした。
アートディレクターとしてのストールハネは、スタジオ作品と量産品の両方を手がけました。その代表的な成功がブランカ(Blanca)です。白磁のテーブルウェアシリーズであるブランカは、簡潔なフォルムと清潔感のある白で人気を集め、国際賞を受賞しました。釉薬の探求者として知られるストールハネが、白磁の量産品でも高い評価を得たことは、デザイナーとしての幅の広さを示しています。
同時期にマリアンヌ・ウェストマンやシルビア・レウショヴィウスといった才能あるデザイナーたちがロールストランドで活躍しており、ストールハネはアートディレクターとして彼女たちの創作を支える立場にもありました。
ギャラリー・ブランシュの転換点(1960年)
1960年、ストックホルムのギャラリー・ブランシュ(Galleri Blanch)で開催された個展が、ストールハネのキャリアにおける転換点となりました。
この展覧会でストールハネは、それまでのロールストランド的な精緻さから離れ、地元の粘土を使った粗削りな大型作品を発表しました。「完璧主義への反逆」とも評されたこの転換は、1960年代のヨーロッパ陶芸界に広がりつつあった新しい潮流——陶芸を工芸から純粋美術へと解放しようとする動き——と共振するものでした。
均一な品質を求める工場の論理と、偶発性や荒々しさを追求する芸術家の衝動。ストールハネの内部でこの2つの力が拮抗し始めたことが、のちのロールストランド離脱への伏線となっていきます。
デザインフーセット——独立工房の設立(1973年)
1973年、ストールハネはロールストランドを離れました。34年間在籍した工場を去る決断の背景には、「会社がアーティストを大切にしなくなった」という思いがありました。1970年代に入り、スウェーデンの陶磁器産業は合理化の波に直面しており、スタジオ作品のための自由な制作環境は縮小されつつありました。
ストールハネはケント・エリクソン(Kent Eriksson)とともに、リードヒェーピング郊外の旧浄水場を改装してデザインフーセット(Designhuset)を設立しました。ここで彼らは、地元の粘土と鉱物から調合した釉薬を使い、工場の制約から解放された制作を始めます。
デザインフーセット時代の作品は、ロールストランド時代のものとは明確に異なります。地元の粘土がもたらす素朴な胎土の色、より自由な形態、そして鉱物釉薬の実験的な表情。ストールハネは晩年まで、釉薬と土の対話を追求し続けました。
1990年、ストールハネは69歳でリードヒェーピングにて生涯を閉じました。マリエスタッドで生まれ、同じヴェーネルン湖畔のリードヒェーピングで半世紀以上を過ごし、この町で制作の手を止めることなく生涯を終えました。
日本との接点
1966年、ストールハネの展覧会が東京で開催されました。会場などの詳細は確認できていませんが、宋代陶磁器に深く影響を受けた北欧のセラミストの作品が、東洋陶磁の伝統を持つ日本で展示されたことは、東西の陶芸文化の交差点として記録に値する出来事です。
受賞歴と収蔵
ストールハネは国際的に高い評価を受けました。主な受賞歴は以下のとおりです。
- ミラノ・トリエンナーレ金メダル(1948年)——パリ留学からの帰国直後、28歳で受賞しました
- ミラノ・トリエンナーレ名誉ディプロマ(1951年)——続けての受賞により、国際的な陶芸界における地位を確立しました
- ブランカ(Blanca)国際賞——白磁テーブルウェアでの受賞です
ストールハネの作品は、世界各地の主要な美術館に収蔵されています。
主な収蔵先
- 国立美術館(Nationalmuseum)——ストックホルム。グリューネヴァルドとの共同制作品も所蔵されています
- レースカ美術館(Rohsska museet)——イェーテボリ。スウェーデンのデザイン・工芸の殿堂です
- ニューヨーク近代美術館(MoMA)——ニューヨーク
- ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)——ロンドン
- ノルディスカ博物館(Nordiska museet)——ストックホルム
見分け方——サインと刻印
ストールハネの作品を見分けるうえで、サイン(刻印・署名)は重要な手がかりとなります。制作時期と作品の種類によって、サインの形式が異なります。
ロールストランド時代の量産品
「CHS」のイニシャルが刻印されています。ロールストランドの王冠マーク、「R」の刻印とともに裏面に記されるのが一般的です。ブランカやヴィクトリアといった量産テーブルウェアに見られるサインです。
ロールストランド時代のユニーク・スタジオ作品
「CH Stalhane」の筆記体サインが施されています。一点物のスタジオ作品には手書きの署名が入り、ロールストランドの刻印も併記されます。筆記体の流れるようなサインは、量産品のイニシャル刻印と明確に区別できます。
デザインフーセット時代(1973年以降)
「C.H. Stalhane」と表記されます。ロールストランドのマークはなく、デザインフーセット独自のマークが付されます。この時期の作品は地元の粘土が使われているため、胎土の色や質感がロールストランド時代とは異なることが多く、サインと合わせて判別の手がかりとなります。
まとめ
カール=ハリー・ストールハネの70年の生涯は、東洋と北欧の美意識が交差する一点に捧げられました。18歳でロールストランドに入り、師ニールンドから宋代陶磁器への敬意を受け継ぎ、パリで彫刻と絵画を学び、帰国後はマットなモノクローム釉と兎の毛釉で独自の世界を築きました。
自らはろくろを回さず、釉薬と装飾に全精力を傾けたストールハネの方法は、同時代の北欧陶芸家の中でも特異なものでした。1960年のギャラリー・ブランシュでの転換を経て、より大胆で土着的な表現へと進化し、1973年にはロールストランドを離れてデザインフーセットを設立しました。
宋代の窯から900年の時を超えて伝えられた、火と土への畏敬の念。それを北欧の風土のなかで静かに、しかし確かに形にし続けたストールハネは、ロールストランドの歴史において欠かすことのできない存在です。
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