ベルント・フリーベリ完全ガイド|グスタフスベリの釉薬を極めたろくろの名手——兎毛・青磁・辰砂のストーンウェア
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この記事の要点
- ベルント・フリーベリ(Berndt Friberg, 1899–1981)は、スウェーデン南西部スコーネ地方の港町ヘガネース(Höganäs)の陶工の家系に生まれた、ろくろ(ろくろ)の名手であり、施釉ストーンウェアの巨匠です。
- 1934年にグスタフスベリ(Gustavsberg)磁器工場へ入り、芸術監督ヴィルヘルム・コーゲ(Wilhelm Kåge)のろくろ師として器を挽き、1937年からはスティグ・リンドベリ(Stig Lindberg)の作品も成形しました。
- 1944年に自身の名で独立制作を始め、デザイン・ろくろ成形・施釉のすべてを一人で担う一点物のスタジオ作品を、死の直前まで作り続けました。
- 兎毛(harpäls)のマット釉、青磁(celadon)、辰砂(オックスブラッド)といった釉薬を究め、ミラノ・トリエンナーレで金賞を複数回受賞しています。
- その古典的なフォルムには宋代の中国陶磁への深い傾倒が指摘され、静謐な単色釉は日本の鑑賞の感性とも響き合うものです。
ベルント・フリーベリ完全ガイド——グスタフスベリの釉薬を極めたろくろの名手
ベルント・フリーベリ(Berndt Friberg, 1899–1981)は、スウェーデンを代表する施釉ストーンウェアの陶芸家です。けれども彼の出発点は、デザイナーでも芸術家でもありませんでした。スウェーデン南西の海辺の陶郷で腕を磨いた、ひとりのろくろ師——つまり、土を挽いて器のかたちを生み出す職人だったのです。その熟達した手が、やがて釉薬の探求と結びつき、北欧モダンの陶芸に静かで深い一頁を加えることになります。
35歳になった1934年、フリーベリはストックホルム近郊の工場町グスタフスベリ(Gustavsberg)に招かれました。最初の役割は、芸術監督ヴィルヘルム・コーゲ(Wilhelm Kåge)の構想した器をろくろで挽くこと。コーゲ自身はろくろを挽けず、その造形をかたちにしたのがフリーベリの手でした。1937年からは、後に巨匠となるスティグ・リンドベリ(Stig Lindberg)の作品も挽いています。長く他者の構想に奉仕したこのろくろ師が、自身の名で独立した制作を始めたのは1944年のこと。そこから、兎毛(harpäls)・青磁(celadon)・辰砂(オックスブラッド)という釉薬の世界が花開いていきました。
本記事では、フリーベリの生涯を、彼が暮らした二つの水辺の町——スコーネの港町ヘガネース(Höganäs)と、ストックホルム群島のグスタフスベリ——を旅するように辿ります。同じグスタフスベリで活躍したヴィルヘルム・コーゲやスティグ・リンドベリ、そして窯そのものの歴史を扱ったグスタフスベリ完全ガイドとあわせてお読みいただくと、彼が立っていた場所がいっそう鮮明に見えてくるはずです。
目次
ヘガネースの陶工の家系に生まれて——スコーネの港町
ベルント・フリーベリが生まれたのは、1899年1月1日。新しい世紀がまさに始まろうとする元日に、スウェーデン最南の地方スコーネ(Skåne)の北西、クッレン半島(Kullahalvön)の先端に近い港町ヘガネース(Höganäs)で産声をあげました。本名はニルス・ベルント・エドムンド・フリーベリ(Nils Berndt Edmund Friberg)といいます。
地図を眺めると、ヘガネースの位置がよくわかります。西はデンマークとのあいだのエーレスンド海峡(Öresund)に面し、北はカッテガット海(Kattegatt)へと開けています。半島の突端には花崗岩の岩塊クッラベリ(Kullaberg)がそびえ、その最高地点ハークル(Håkull)は標高188メートル。断崖と海が出会う荒々しくも美しい景観を作り、今では自然保護区として知られています。塩気を含んだ海峡の風が、いつも町を吹き抜けていく——フリーベリが幼い日々を過ごしたのは、そうした水辺の町でした。
スコーネは、スウェーデンのなかでもとりわけ南に開けた、なだらかな農地と海岸線の地方です。長くデンマークの領土であった歴史をもち、対岸のコペンハーゲンは海峡を挟んですぐそこに見えます。ヘガネースの港には、夏になると無数のヨットや木造の小舟が係留され、北欧の短い夏の光を映して水面が穏やかに揺れます。冬には灰色の雲が低く垂れこめ、海も空も鈍く沈みます。この、明るい夏の光と長く暗い冬とが交互に訪れる土地の記憶は、のちにフリーベリが探り当てる釉薬の、淡く沈んだ色調とどこかで通じているように感じられます。
ヘガネースは、16世紀の史料には小さな漁村として記録される古い土地です。町の運命を変えたのは18世紀末で、石炭の採掘が始まると鉱山町として急速に発展しました。そしてその採掘の過程で、良質な粘土層が地中から見つかります。この粘土こそが、ヘガネースを陶業の町へと導いた宝でした。母体となった企業ヘガネースボラーゲット(Höganäsbolaget)は、19世紀の初頭から窯で焼成を行ってきた、スウェーデン有数の炻器(せっき)の担い手です。
フリーベリは、こうした製陶の伝統が根を張る土地の、陶工の家系に育ちました。彼にとって土とろくろは、特別な学校で出会うものではなく、生まれ落ちた家の空気そのものだったのです。ヘガネースでろくろ師(スウェーデン語でdrejare=ドレヤーレ)の技術を身につけ、母方の叔父が師となって、塩釉ストーンウェアを挽くろくろチームに加わりました。彼はヘガネースボラーゲットに1918年まで在籍し、1919年からは近隣ラウス(Raus)の炻器工場(Stenkärlsfabrik)へと移っています。各地の工房で経験を積み、グスタフスベリに迎えられる頃には、すでに35歳の熟達したろくろ師になっていました。
塩釉ストーンウェアの町
ヘガネースの陶業を象徴するのが、塩釉ストーンウェア(saltglaserat stengods)です。これはおよそ600年の歴史をもつ古い技法で、窯のなかが約1280度に達したところで塩を投げ入れます。すると塩が一瞬で気化し、立ちのぼったナトリウムが器の表面に硬いガラス質の被膜を作るのです。酸に強く丈夫なことから、当時は保存用の器として広く用いられ、ヘガネースボラーゲットは1835年から1954年にかけて、この塩釉の製品を量産しました。
とりわけ有名なのが、黒い「ヘガネース壺(Höganäskrus)」です。ジャムや保存食を入れるための日用の器でしたが、堅牢で実用に徹したその姿は、スウェーデンの家庭に深く根づき、海を越えて各地に普及しました。写真の壺には「HÖGANÄS」の刻印と錨のマークが残っています。少年フリーベリがろくろを覚えたのは、まさにこうした塩釉の壺を、ひとつまたひとつと挽き続ける現場でした。
のちにフリーベリが究める高温焼成のストーンウェアと、何層も釉を重ねていく釉薬への鋭敏な感覚。その素地は、塩と火が土をガラスに変えるこの陶郷で、たしかに育まれていったといえます。彼の手は、まずこの町で器の本質を覚えたのです。
1934年、グスタフスベリへ——コーゲのろくろを挽く
1934年、フリーベリはスウェーデンの反対側へと旅立ちます。向かった先は、ストックホルム中心部から東へ約22キロ、ヴェルムドー(Värmdö)島の入江ファルスタ湾(Farstaviken)に面した工場町グスタフスベリ。スコーネの開けた海峡から、群島の奥まった静かな内海へ——彼の生涯は、この二つの水辺の町を結ぶ一本の線として描けます。
グスタフスベリのある一帯は、ストックホルム群島(スウェーデン語でskärgård=シェルゴード)の玄関口にあたります。氷河が削り運んだ花崗岩の島々が無数に浮かび、その岩肌には松やコケ、ベリーの低木が広がっています。海はエーレスンド海峡のような開けた外海ではなく、島と島のあいだに守られた、波の穏やかな内海です。赤く塗られた木造の小屋が水辺に点在し、夏には別荘地として人々が集う。ヘガネースの潮の香る風から、この静かな入江の松林へ——フリーベリが暮らした風景は、同じスウェーデンの海辺でありながら、まったく趣を異にしていました。
グスタフスベリの磁器工場は1825年の創業で、スウェーデンを代表する名窯です。湾に面して工場の建屋が並び、かつては円錐形の磁器窯がいくつも煙をあげていました。写真は1890年代の港と工場の姿です。フリーベリが来た頃には、芸術監督ヴィルヘルム・コーゲ(Wilhelm Kåge)のもとで、この窯はテーブルウェアから美術陶器までを手がける、北欧デザインの最前線になっていました。窯の歴史そのものについてはグスタフスベリ完全ガイドに詳しく記しています。
フリーベリがこの工場で与えられた役割は、デザイナーではありませんでした。芸術監督コーゲ付きのろくろ師(drejare)として、コーゲが構想した器のかたちを、ろくろの上で実体にすることが彼の仕事だったのです。そして以後、1981年に世を去るまでの半世紀近くを、彼はこの群島の町で過ごすことになります。
コーゲのろくろ師として
ここで、フリーベリの仕事の意味を正しく理解しておきたいと思います。芸術監督のコーゲは、すぐれた構想力をもつデザイナーでしたが、自身ではろくろを挽くことができませんでした。器のフォルムを実際に土から立ち上げていたのは、フリーベリの手だったのです。デザインする者と、かたちにする者。その関係が、この工場の美術陶器を支えていました。
コーゲの代表的な炻器ラインに、アルジェンタ(Argenta)があります。深い緑色の釉に、銀彩で植物の文様を象嵌した気品ある器で、グスタフスベリの名を世界に知らしめた作品の一つです。写真はそのトレイですが、花器や壺など、ろくろで挽かれた立体の器も数多く作られました。フリーベリは、こうしたアルジェンタの器をろくろで成形しています。なかには高さも重さも相当な大型の壺もあり、従来であれば三つの部分に分けて成形していたような大壺を、一体で挽き上げてしまうほどの技量をもっていました。
フリーベリが加わって以降、コーゲの美術陶器の質が目に見えて高まったと評されるのは、こうした卓越したろくろ技術があってのことです。彼は表に立つ作家ではありませんでしたが、その手はすでに、北欧を代表する陶器のかたちを支える基盤になっていたのです。
スティグ・リンドベリとGスタジオ——1937〜1942
1937年、グスタフスベリに一人の若いデザイナーが入社します。のちにベルサ(Berså)をはじめとする数々の名作を生み、北欧デザインを象徴する存在となるスティグ・リンドベリ(Stig Lindberg)です。当時はまだコーゲのもとで学ぶ新人でしたが、フリーベリはこの若い才能の器も、ろくろで挽くようになりました。リンドベリの自由な発想を、ベテランのろくろ師の手が支える——世代を超えた協働が、ここから始まります。リンドベリ自身の歩みはスティグ・リンドベリ完全ガイドでくわしく辿っています。
リンドベリはその後、1949年にコーゲの後継として芸術監督に就任し、1957年まで務めます。いったん退いたのち、1972年から1980年にも再び芸術監督の任にありました。フリーベリは、コーゲからリンドベリへと受け継がれていくグスタフスベリの黄金時代を、その器を挽き続けることで、内側からずっと支えていたことになります。写真は現在も錨のロゴを掲げる、ノコギリ屋根の磁器工場です。
この時期のグスタフスベリで重要なのが、Gスタジオ(Gustavsbergs Studio、G-studion)の存在です。これは、職人やデザイナーが工業生産の制約を離れ、自由に実験的な制作を行うための創作工房——いわば「美的な実験室」として構想されました。Gスタジオが設立されたのは1942年のことで、コーゲが主導し、同年5月の展覧会「Fajanser målade i vår(春に描かれたファイアンス)」でデビューしています。スタジオ作品には「手」と「G」を組み合わせたStudiohandenのマークが付されました。
ここで一つ、年代をていねいに区別しておきます。Gスタジオという工房そのものの設立は1942年。一方、フリーベリが自身の名で独立した制作を始めるのは1944年で、これは別の出来事です。1942年の工房設立と、1944年のフリーベリの独立を混同しないことが、彼の経歴を正しく読むうえで大切な鍵になります。長く他者の器を挽いてきたろくろ師が、ついに自分自身の器に向き合う——その転機が、すぐそこまで近づいていました。
1944年、自身の名で——フリーベリのストーンウェア
1944年、フリーベリはグスタフスベリのスタジオで、自身の名による独立した制作を本格的に始めます。45歳。ろくろ師としてはすでに頂点の技をもち、コーゲやリンドベリの器を挽き続けてきた職人が、ここでようやく、自分自身のかたちと釉薬の世界に踏み出したのです。長い助走を経たぶん、その作品は最初から驚くほど成熟していました。
独立作家としてのフリーベリの公の出発点には、いくつかの段階があります。最初に独立陶芸家として作品を世に出した「デビュー」は、それより早い1941年のこと。ストックホルムのビリエル・ヤールスガータン(Birger Jarlsgatan)にあったグスタフスベリの直営店での展示でした。そして、彼の名を決定的にしたのが、1954年にストックホルムの百貨店NK(Nordiska Kompaniet)で開かれた初の個展です。この個展は大きな成功を収め、ろくろ師フリーベリは、押しも押されもせぬ陶芸家として広く認められることになりました。
写真は、淡いグレーグリーンの釉をまとった細口の花器です。装飾を削ぎ落とし、フォルムと釉薬の表情だけで成り立つ、静かで凜とした佇まい。これがフリーベリの世界の核心です。彼の器は、現在の私たちにとっては、実用の器というより、棚の上で光を受け、釉薬の微妙な調子を眺めて愛でる、観賞のための存在だといえるでしょう。首の細い一輪挿しの花器は、ただそこに在るだけで空間に静けさをもたらします。
一点物としてのスタジオ作品
フリーベリの作品を理解するうえで欠かせないのが、彼がデザイン・ろくろ成形・施釉という三つの工程を、すべて一人でこなしていたという事実です。器のかたちを構想し、自らの手でろくろを挽いて立ち上げ、自ら調合した釉薬をかける。当時、この三つを一身に担う作家はきわめて稀でした。だからこそ、彼のスタジオ作品は本人による手挽き・施釉・署名の入った一点物(あるいは少量制作)であり、工場の量産品とは性格をまったく異にしています。
写真の釣鐘型の鉢を見てください。縦に細く流れる縞模様は、のちに詳しく触れる兎毛(harpäls)の釉によるものです。一つひとつ手で挽かれ、一つひとつ釉が施されているため、厳密に同じものは二つとありません。フリーベリは完璧主義の職人としても知られ、自分の満足のいかない作品は手元に残さなかったと伝えられています。残された器は、いわば彼の眼鏡にかなったものばかりなのです。
ただし、一つだけ例外があります。量産シリーズ「セレクタ(Selecta)」です。これはフリーベリがデザインのみを担い、工場で量産された系列で、彼自身の署名は入らず、紙のラベルが付けられました。つまり、手挽き・施釉・署名の一点物という原則の、ただ一つの例外がセレクタにあたります。フリーベリの作品に向き合うときは、まずこの「一点物のスタジオ作品」と「量産のセレクタ」という二つの性格を区別しておくと、見え方が定まってきます。
釉薬の探求——兎毛・青磁・辰砂
フリーベリの作品の真価は、釉薬にあります。ろくろで挽き上げた簡潔なフォルムは、いわば釉薬の表情を最も美しく見せるための器でした。彼は釉薬を手で吹き付け、その化学的な組成と、窯のなかで起こる反応とを熟知していました。色や質感を生み出すために、彼は数多くの釉薬を試し、自分だけの調子を探り当てていったのです。
写真は、柔らかなライトグリーンの釉をまとった扁球形の花器です。ぽってりと丸い胴に細い首が立ち、釉はマットに沈んで、緑というよりも淡い霧のような色合いを見せています。単色の釉でありながら、けっして平板ではありません。表面をよく眺めると、釉の厚みのわずかな差や、流れの方向によって、光の受け方が刻々と変わるのがわかります。フリーベリの器は、こうした釉の微妙な変化を静かに眺めるためにあるといえます。
北欧の自然を思い起こしながら見ると、その釉調はいっそう深く感じられます。淡い緑は若葉や苔を、青みを帯びた釉は群島の海面を、流れる縞は岩肌や樹皮を——あくまで眺める者の連想にすぎませんが、そうした自然の記憶を呼び覚ます静けさが、彼の釉薬にはあります。
兎毛・青磁・辰砂
フリーベリの釉薬のなかでも、とりわけ名高いのが兎毛(harpäls/ハルペルス、英語でhare's fur)です。これは初期から彼が手がけ続けたマット釉で、薄い釉の層を何層も重ねて掛けることによって生まれます。何度も重ねた釉が、焼成のなかで細い縞状の流れを作り、それがちょうど兎の毛並みのように見えることから、この名で呼ばれるようになりました。ベージュ、黄、緑、茶、青灰と、色の幅も豊かです。大ぶりで美しいフォルムの花器にこの兎毛のマット釉がかかったものは、彼の作品のなかでも特に評価が高いものとして知られています。
もう一つの柱が青磁(celadon/seladon、セラドン)です。東アジアの青磁に倣った釉で、淡い青緑の静謐な色合いは、フリーベリを代表する釉薬の一つとなりました。さらに1960年代には、青磁の色合いと兎毛の縞の効果を併せ持つような花器も作られています。一見すると相反する二つの釉の性質を、一つの器のうえで両立させてしまうところに、彼の釉薬への深い理解がうかがえます。
そして、より華やかな表情を見せるのが辰砂(しんしゃ)、すなわちオックスブラッド(oxblood)です。銅を呈色剤とする銅赤の釉で、深い赤褐色の発色は、窯のなかの炎の状態に左右される、扱いの難しい釉として知られています。先ほどのボトル型花器の写真では、深い赤褐色の地に青い斑が散り、半球型の鉢の写真では、器の内側に銅赤が広がる一方で、外側はグレーグリーンに沈んでいます。一つの器のなかで赤と緑が静かに対話するような、複雑で奥行きのある表情です。
このほかにも、青系の光沢釉「アニアラ(Aniara)」など、フリーベリの釉薬の世界は多彩に広がっています。1957年から58年ごろには、釉のなかに文様、それもしばしば幾何学的な文様を扱い始めるなど、単色釉に留まらない表現の幅も見せました。彼にとって釉薬は、単なる仕上げの色ではなく、器そのものを生かすか殺すかを決める、表現の中心でした。簡潔なフォルムと、深い釉の表情。この二つが一つになったとき、フリーベリの器は完成するのです。
そして、その器のかたちもまた、驚くほど幅広いものでした。高さが数センチにも満たない、手のひらに乗る極小のミニチュア花器から、床に据える大型のフロアヴェースまで——フリーベリは、あらゆる寸法の器をろくろで挽いています。とりわけミニチュア花器は彼を象徴する作品群で、小さな器のなかに、大型の作品と変わらぬ釉薬の深みと造形の完成度が凝縮されています。鉢や壺、大きな甕(かめ)のような器もあり、いずれも左右対称の整ったかたちが、手挽きによって静かに立ち上げられています。大きさを問わず一貫しているのは、無駄を削いだ古典的な均整と、釉に語らせるという姿勢でした。
東アジア・中国陶磁への傾倒
フリーベリの古典的で均整のとれたフォルムを語るとき、しばしば引き合いに出されるのが、中国・宋代(960〜1279年)の陶磁です。彼の器形には、宋代の中国ストーンウェアへの深い傾倒が指摘されてきました。青磁という釉薬の選択もまた、東アジア陶磁への憧れと無縁ではありません。写真の球形の花器は、青灰色の地に銅赤が流れる作品で、その丸みのある単純で力強いかたちは、見る者に古い東洋の器を思い起こさせます。
ただし、ここは慎重に語る必要があります。「宋代の器形に着想を得た」という点については、彼のフォルムが宋代陶磁を範としているという指摘が複数あり、かなり確かなものといえます。一方で、青磁や兎毛という釉薬そのものが、中国・日本の釉の伝統に直接由来するのだ、という言い方は、主に画廊やディーラーの解説に見られるもので、一次的な資料による裏づけは弱いものです。フォルムと釉とを分けて捉えるなら、フリーベリの器形には宋代陶磁への傾倒が見てとれ、その静謐な釉は東洋陶磁の伝統を意識したものと評される、という整理がより誠実でしょう。
もっとも、こうした東アジア陶磁への志向は、フリーベリ一人のものではありませんでした。師のコーゲ自身も中国陶磁から影響を受けており、明代の龍を主題とした作品を残しています。20世紀前半のグスタフスベリやロールストランドといった北欧の窯は、ヨーロッパ全体で高まっていた宋代の単色釉や東洋陶磁への憧れを、共有する文化圏のなかにありました。フリーベリは、その潮流の頂点に立つろくろ師・釉作家として、東洋古典の器形美を、北欧モダンの簡潔さと一つに結んだといえます。
ここに、その理想の源泉とされる器を一つ並べてみます。写真は中国・南宋時代(13世紀)の龍泉窯(りゅうせんよう)の青磁瓶で、現在は東京の松岡美術館に所蔵されています。龍泉窯は南宋を代表する青磁の名窯で、淡い青緑の釉は、まるで翡翠を思わせる深い静けさをたたえています。胴には牡丹唐草の文様が浮かび、形そのものはあくまで簡潔です。フリーベリの青磁の花器とこの瓶を見比べると、両者のあいだに流れる、静謐への共通したまなざしを感じ取ることができるでしょう。
宋代青磁という理想
宋代の青磁のなかでも、最も格の高いものの一つが官窯(かんよう)の青磁です。写真は南宋・官窯の青磁瓶で、東京国立博物館に所蔵されています。釉の全体に細かな貫入(かんにゅう/表面に走るひび状の文様)が網のように走り、色は青というよりも、黄味を帯びた米色(こめいろ)に近い、独特の落ち着きを見せています。装飾をいっさい施さず、釉の質感と貫入だけで成り立つこの器は、東アジアにおける単色釉の到達点の一つといえます。
こうした宋代青磁の理想——簡潔な器形、装飾を排した単色の釉、そして釉そのものの深い表情に美を見出す姿勢は、フリーベリが目指したものと、たしかに響き合うように見えます。彼が龍泉窯や官窯の青磁を直接の手本としたと断定できる一次資料があるわけではありません。けれども、装飾を削ぎ落として釉に語らせるという美学において、20世紀北欧のこのろくろ師と、千年近く前の中国の名工たちは、時代と土地を超えて同じ理想を分かち合っていた——そう読むことは、けっして無理のないことでしょう。
北欧のスタジオ陶芸が、東洋の古典に静かな範を求めた。その最も純度の高い結実が、フリーベリの青磁の器であったといえます。彼の作品を前にするとき、私たちは北欧の現代デザインと、東アジアの古い陶磁の伝統とが、一つの器のなかで出会う瞬間を目にしているのです。
年号で読むサイン——フリーベリ作品の見分け方
フリーベリの作品の大きな魅力の一つに、底に刻まれたサインから製作年がわかる、という点があります。これは、彼の器が手仕事の一点物であることの証であり、同時に、コレクターにとっては作品を年代で位置づける確かな手がかりにもなっています。サインの形式は時期によって変化していますが、ここでは特に重要な二つの時期を見ておきましょう。
まず、1948年から1974年までの時期です。この時期のフリーベリのスタジオ作品には、三つの要素が組み合わさって刻まれています。一つめは、刻線(刻みつけた線)による手書きの「Friberg」の署名。二つめは、グスタフスベリ・スタジオの「手(hand)」のマーク。これは手仕事のスタジオ作であることを示す印です。そして三つめが、製作年を表すアルファベット一文字です。
この年号を表す文字は、1948年のRから始まる規則になっています。アルファベットが一年ごとに進んでいき、たとえばdは1962年を表します。つまり「Friberg」の署名と手のマーク、そして年文字という三点が揃っていれば、それは1948年以降の典型的なフリーベリ作品であり、その文字を読み解くことで、作られた年まで特定できるのです。たとえば1962年作の花器には、「Friberg」の署名と手のマーク、そして「d」の文字が刻まれます。この年文字を読むことが、年代を見分ける主要な手がかりになります。
次に、1975年から1981年までの時期です。この晩年の時期になると、フリーベリはアルファベットの文字記号を用いるのをやめ、製作年の西暦の数字そのものを刻むようになりました。たとえば「1979」といった数字が、署名や手のマークとともに底に刻まれます。ここで一つ確認しておきたいのですが、フリーベリが1979年に引退したという説は誤りです。彼は1981年に世を去るまで制作を続けており、1979年銘の作品も残されています。底に晩年の西暦が刻まれた器は、その制作が最後まで途切れなかったことの、何よりの証なのです。
古い器の底をそっと返して、刻まれた文字や数字を読み解く——フリーベリの作品には、そうした静かな楽しみが備わっています。一点物だからこそ残された手の痕跡が、半世紀以上を経た今も、作られた年を私たちに語りかけてくるのです。
受賞と評価——ミラノ・トリエンナーレからファエンツァまで
フリーベリの作品は、生前から国際的に高く評価されました。その評価を象徴するのが、イタリアのミラノ・トリエンナーレでの受賞です。ミラノ・トリエンナーレは、三年ごとに開かれる装飾芸術とデザインの国際展で、20世紀のデザイン史を語るうえで欠かせない舞台でした。フリーベリは、この権威ある展覧会で金賞(gold medal)を複数回にわたって受賞しています。受賞の年は1948年、1951年、1954年とされ、初回を1947年とする資料もあります。
ここで一点、表記について確かめておきます。フリーベリがトリエンナーレで得たのは「金賞」であり、「グランプリ」ではありません。同じグスタフスベリのリンドベリはグランプリも受賞していますが、フリーベリの栄誉は金賞として正確に記すべきものです。この区別は、彼の業績を語るうえで小さからぬ意味をもっています。
トリエンナーレ以外にも、フリーベリは数々の栄誉に輝きました。1960年にはグレゴール・パウルソン賞(Gregor Paulsson Trophy)を受け、1965年にはイタリアのファエンツァで開かれた国際陶芸展で第1位を獲得しています。1964年にはスウェーデンのLO文化賞を、さらにプリンス・オイゲン・メダル(Prins Eugen-medaljen)も受けました。一職人としてキャリアを始めたろくろ師が、国際的に認められた陶芸家として、その生涯を飾ったのです。
彼の作品は、スウェーデンの主要な美術館に収蔵されています。ストックホルムの国立美術館(Nationalmuseum)、モデルナ美術館(Moderna Museet)、レーススカ美術館(Röhsska)などがその代表です。そして写真の建物が、フリーベリの作品も所蔵するグスタフスベリ磁器博物館です。赤レンガの旧磁器工場に隣接し、グスタフスベリ港の中心に建つこの博物館は、約200年の窯の歴史を伝える場所で、現在はスウェーデン国立美術館の一部として運営されています。彼が半世紀近くを過ごした港の町で、その器は今も静かに来館者を迎えているのです。
日本との関係——青磁の美意識が響き合う場所
フリーベリの静謐な器は、海を越えた日本でも受け入れられてきました。彼の作品が日本で紹介された確かな記録の一つが、1964年に日本で開催された「現代陶芸展(Contemporary Ceramics Exhibition)」への出品です。北欧のろくろ師の器が、東洋の陶磁の本場である日本で展示されたのは、彼の作風を思えば、ごく自然な出会いだったといえるかもしれません。
そして時を経た2014年、フリーベリの大規模な個展が日本で開かれます。同年8月2日から30日にかけて、東京・六本木のタカ・イシイギャラリー モダンで、生涯の各時期にわたるおよそ170点の作品が展示されました。ろくろと釉づくりの卓越した技で知られ、生涯にわたって形と釉を研究し続けた陶芸家として、フリーベリは日本の鑑賞者にあらためて紹介されたのです。こうした大規模な個展が日本で成立すること自体が、フリーベリへの評価が日本にも確かに根づいていることをうかがわせます。
なぜ、フリーベリの器は日本でこれほど自然に受け入れられるのでしょうか。一つの手がかりが、日本の民藝(みんげい)運動との美意識上の響き合いにあります。柳宗悦(やなぎむねよし)が説いた「用の美」は、自然の素材と手仕事、簡素さ、そして無名の職人による日常の器に美を見出す思想でした。簡素なろくろ成形、無文で単色のマット釉、手仕事の痕跡を残した自然な釉調を重んじるフリーベリの作品と、民藝が掲げた価値観のあいだには、たしかに共通するまなざしが見出せます。
ただし、ここでも牽強付会は慎まなければなりません。フリーベリ自身が柳宗悦や民藝運動と直接交流した、あるいは民藝の思想を理念に掲げた、という記録は確認できません。むしろ、フリーベリは署名を入れる個人作家であり、無名性や廉価・量産を理想とした民藝とは、立場の面ではむしろ対照的です。両者に通じるのは、影響関係というより、結果として現れた美意識の親近性——簡素さへの好み、色彩への繊細な扱い、自然素材への愛着といった、北欧と東アジアが時代を超えて分かち合った感性なのです。
写真は、9月のストックホルム群島です。穏やかな海に小島が点々と浮かび、空はくすんだ色に静かに沈んでいます。フリーベリが半世紀近くを暮らしたグスタフスベリは、まさにこうした群島の入江にありました。淡い青磁の釉に、この海の色を重ねて見るのは、あくまで眺める者の自由な連想にすぎません。けれども、北の海辺で生まれた静けさが、東洋の青磁の理想と響き合い、そして遠い日本の鑑賞の感性ともつながっていく——そう想像するとき、フリーベリの器はいっそう奥行きを増して見えてきます。
まとめ
この記事のまとめ
- ベルント・フリーベリ(1899–1981)は、スコーネ地方の港町ヘガネースの陶工の家系に生まれ、塩釉ストーンウェアの陶郷でろくろ師としての技を磨きました。
- 1934年にグスタフスベリへ入り、芸術監督ヴィルヘルム・コーゲ付きのろくろ師として器を挽き、1937年からはスティグ・リンドベリの作品も成形しました。
- Gスタジオの設立は1942年、フリーベリ自身の名による独立制作の開始は1944年で、両者は別の出来事として区別されます。
- デザイン・ろくろ成形・施釉のすべてを一人で担い、兎毛・青磁・辰砂などの釉薬を究めました。スタジオ作品は手挽き・施釉・署名の一点物で、量産シリーズ「セレクタ」がその例外にあたります。
- 底のサインは1948〜1974年が年号を表すアルファベット一文字、1975〜1981年が西暦の数字。ミラノ・トリエンナーレで金賞を複数回受賞しています。
- 古典的な器形には宋代陶磁への傾倒が指摘され、その静謐な単色釉は日本の鑑賞の感性とも響き合います。死の直前まで制作を続けました。
塩気を含んだ海峡の風が吹くヘガネースから、松林に囲まれた群島の静かな入江グスタフスベリへ。ベルント・フリーベリの生涯は、スウェーデンの二つの水辺の町を結ぶ一本の線として描けます。彼は終生、表に立つデザイナーではなく、土を挽くひとりの職人であり続けました。けれども、その手が究めた釉薬の表情と、削ぎ落とされた簡潔なフォルムは、北欧モダンの陶芸に、誰のものとも異なる静けさを刻みました。
フリーベリの花器を棚に置き、淡い青磁の色や、兎の毛並みのように流れる縞をそっと眺めるとき——そこには、宋代中国の青磁の理想と、北の群島の海と空の色と、半世紀をろくろに向かい続けた職人の手の記憶とが、薄い釉の層のなかに静かに折り重なっています。装飾を語らず、ただ在ることで空間を澄ませる。そんなフリーベリの器は、北欧そのものを部屋に招き入れる、静かな一片だといえるでしょう。