サーラ・ホペアとは|ヌータヤルヴィの積み重ねタンブラーと銀のデザイナー
Share
この記事の要点
- サーラ・ホペア(Saara Hopea, 1925–1984)は、フィンランド・ポルヴォーの金細工師の家に生まれ、ガラス、銀ジュエリー、エナメル、テキスタイルを横断したデザイナーである
- 1943–1946年にヘルシンキの中央芸術工業学校でインテリアデザインを学び、Majander Oy、Taito Oyを経て、1952年からヌータヤルヴィ・ガラス工房でカイ・フランクのもと仕事をした
- 代表作の積み重ねタンブラーは1950年代前半にデザインされ、1968年まで生産されたロングセラーである。ホペアは1954年と1957年のミラノ・トリエンナーレで銀メダルを受賞した
- 1960年にアメリカ人金属工芸家オッピ・ウントラクトと結婚し、ニューヨーク、インド、ネパールを経て1967年にポルヴォーへ戻った
- 晩年は家業のOssian Hopea Oyを拠点に、銀ジュエリー、エナメル、テキスタイルを制作。1981年にポルヴォー市文化賞、1982年にフィンランド国家工芸賞を受賞した
- 2020–2022年には日本各地で「ザ・フィンランドデザイン展――自然が宿るライフスタイル」が巡回し、出品作家の一人としてSaara Hopeaの名も確認できる
サーラ・ホペア——ガラス、銀、エナメルを横断した「ポルヴォーの金細工師の娘」
サーラ・ホペア(Saara Hopea, 1925–1984)は、フィンランドのデザイナーです。金細工を家業とするポルヴォーの工芸家の家系に生まれ、自身はガラス、銀ジュエリー、エナメル、テキスタイルへと領域を広げ、生涯の各時期で異なる素材と向き合いました。
もっとも知られているのは、1952年から1959年までヌータヤルヴィ(Notsjö)ガラス工房でカイ・フランクのもとに残した仕事です。色違いで展開された積み重ね可能なタンブラーは1968年まで生産が続いたロングセラーで、積み重ね可能なガラスシリーズは1954年のミラノ・トリエンナーレで銀メダルを受賞しました。ホペアは1957年にも別のガラス作品で銀メダルを受賞しており、ヌータヤルヴィ時代の仕事は国際的にも高く評価されました。
しかし彼女のキャリアは、ガラスにとどまりませんでした。1950年代末には家業の宝飾店「Ossian Hopea Oy」の仕事に深く関わるようになり、1960年代以降、銀ジュエリーの制作を本格化させていきます。1960年にアメリカ人の金属工芸家オッピ・ウントラクトと結婚した後は、ニューヨーク、インド、ネパールを巡る数年を経て、1967年にふたたびポルヴォーへ。本記事では、当店ブログの「ヌータヤルヴィ・ガラス工房の歴史」と「カイ・フランク完全ガイド」を補う形で、ホペアの歩みを追います。
目次
ポルヴォーの金細工師の家——59年の出発点
サーラ・ホペアが生まれたのは、1925年8月26日、フィンランド南部のポルヴォー(Porvoo)です。本名はサーラ・ホペア。後にOppi Untrachtと結婚してSaara Hopea-Untrachtと名乗りました。ヘルシンキから東へ約50kmに位置するこの町は、1346年に都市権を得たフィンランドで2番目に古い都市で、川沿いに広がる木造の旧市街と石畳の坂道、岸辺に並ぶ赤い倉庫群で知られています。
石畳と赤い倉庫の旧市街
赤い倉庫群は、18世紀にスウェーデン王グスタフ3世の到着に合わせて川岸の建物を一律の赤い顔料で塗装したことに由来します。この赤——スウェーデン中部の銅鉱山ファールンで採れた鉄系の顔料による「ファールンレッド」——は、北欧の木造建築を象徴する色として今もポルヴォーの川沿いを彩っています。
町の頂上には、1418年に建てられたポルヴォー大聖堂(Porvoon tuomiokirkko)が立っています。1809年、ロシア皇帝アレクサンドル1世がこの大聖堂で「ポルヴォー議会」を招集し、フィンランド大公国の成立を宣言した、フィンランド史の重要な舞台でもあります。
三代続く工芸の家系
父オッシアン・ホペア(Ossian Hopea)は、ポルヴォーで金細工店「ヴェステルルンド(Westerlund)」のマネージャーを務め、後に独立して自身の会社「Ossian Hopea Oy」を設立した金細工師でした。祖父サミュエル・ミカ・ヴェステルルンド(Samuel Mika Westerlund)も金細工師。「ホペア(Hopea)」というフィンランド語の姓は、そのまま「銀」を意味します。三代続く銀の家系の名であり、運命的な響きさえ感じさせる名でした。
少女時代のサーラは、父の工房で金属を扱う手仕事を間近で見ながら育ちました。後年、ガラスから銀へと素材を移していく身軽さは、この家庭環境に根ざしています。
中央芸術工業学校で過ごした3年(1943–1946)
1943年、18歳のサーラはヘルシンキの中央芸術工業学校(Taideteollisuuskeskuskoulu、現在のアアルト大学芸術・デザイン・建築学部の前身)に入学します。専攻はインテリアデザイン。当時の校舎はヘルシンキ中央駅前のアテネウム——現在は国立美術館として知られる、テオドール・ヘイヤー設計の壮麗な石造建築——のなかにありました。
同校はフィンランドで最初の本格的な工芸・デザイン教育機関で、後にTaideteollinen korkeakoulu(芸術工業大学)と名称を変え、2010年にヘルシンキ工科大学・経済大学と統合してアアルト大学(Aalto University)となりました。同時代の卒業生には、ヘレナ・テュネル、ナニー・スティル、ティモ・サルパネヴァ、エステリ・トムラなど、後に北欧デザイン史を作る世代が並びます。
サーラは1946年、21歳で卒業しました。ちょうど第二次世界大戦が終わり、フィンランドが戦災と賠償からの再出発を始めた年でした。
家具と照明の修業——Majander Oy、Taito Oy(1946–1952)
卒業後、最初に勤めたのは家具メーカーのMajander Oy(1946–1948)でした。インテリアデザインを学んだ専攻を活かし、家具のデザインや住空間の設計に携わったとされます。
続いて1948年から1952年まで、Taito Oyに移ります。Taito Oyは、フィンランドを代表する真鍮ランプの制作で知られた照明メーカーで、共同経営者には後に「フィンランド照明の父」と呼ばれるパーヴォ・テュネル(Paavo Tynell)が名を連ねていました。サーラはここで金属工芸の基礎を学び、メタルスミスのアシスタントとして働きました。
3年間の家具と4年間の照明——25歳になるまでに、サーラはすでに2つの素材を経験していたことになります。次に出会うのが、3つめの素材となるガラスでした。
1951年、カイ・フランクとの出会い
1951年、26歳のサーラは、ヌータヤルヴィ・ガラス工房とアラビアの両方で芸術監督を兼任していたカイ・フランク(Kaj Franck, 1911–1989)と出会います。当時すでにアラビアでKilta(後のTeema)を発表する直前で、北欧デザイン界で頭角を現していたフランクは、新しい才能を探していました。
サーラの工芸的な手仕事の素養と、家具・照明での経験が評価され、1952年、彼女はヌータヤルヴィのガラスデザイナーとして招かれます。家業の金細工とも、Taitoの照明とも、Majanderの家具とも違う、4つめの素材——透明な液体が固まるまでのわずかな時間に形を決めなければならない、ガラスの世界に踏み込んだ瞬間でした。
ヌータヤルヴィ・ガラス工房での7年(1952–1959)
ヌータヤルヴィ(Notsjö)は1793年創業の、フィンランド最古のガラス工房として知られます。1950年にヴァルツィラ社の傘下に入り、翌1951年にカイ・フランクが芸術監督に就任。フランクのもとで、サーラ・ホペア、オイバ・トイッカ、ヘイッキ・オルヴォラといったデザイナーたちが働く「黄金期」が、ちょうど始まろうとしている時期でした。
積み重ねるタンブラー
ヌータヤルヴィでサーラが最初に手がけたのは、色違いで展開された吹きガラスのタンブラーでした。当時の北欧では、戦後の家庭用品は「必要に応じて少しずつ買い足していく」という考え方が一般的になりつつあり、家庭の棚やキャビネットで省スペースに収まる積み重ね可能なガラス作品は、戦後の合理主義デザインの象徴でした。
サーラがデザインしたタンブラーは、円錐を逆さまにしたような細身のシルエットで、上下を重ねると安定して積めるように口縁の角度が計算されています。デザイン年については、1950年代前半の作として資料間で表記に揺れがあります。確かなのは、1968年まで生産が続いたロングセラーであり、戦後フィンランドのライフスタイルの変化を象徴する一品となったことです。
2度のミラノ・トリエンナーレ銀メダル
サーラ・ホペアは1954年と1957年のミラノ・トリエンナーレで銀メダルを受賞しており、ヌータヤルヴィ時代の仕事は国際的にも高く評価されました。ミラノ・トリエンナーレは当時、世界の工芸・デザインの最高峰の見本市で、北欧諸国はこの時期、参加の度に金・銀メダルを獲得し「スカンディナヴィアン・モダン」のブランドを世界に広めていきました。タピオ・ヴィルカラ、カイ・フランク、ティモ・サルパネヴァ——同時代に並ぶ受賞者は、そのまま北欧デザイン史の柱となる名前です。
アラビアでの陶磁器デザイン
1952年にヌータヤルヴィを傘下に収めたヴァルツィラ社は、すでにアラビア社(陶磁器)も保有していました。両社は事実上ひとつのデザイン部門のもとに置かれ、フランクの指揮のもと、デザイナーたちはガラスと陶磁器の双方を手がけました。1953年に撮影された冒頭のチームポートレートで、サーラがアラビアのデザイナーたちと並んでいるのは、そのためです。
サーラ自身も、ヌータヤルヴィの仕事と並行してアラビアで陶磁器のデザインを手がけました。Nyppyläボウルなどがこの時期の作品として知られていますが、彼女のアラビア時代の仕事は資料が断片的で、ガラスほどには注目されてきませんでした。
1960年、オッピ・ウントラクトとの結婚——ニューヨーク、インド、ネパールへ
1954年、サーラはアメリカからフィンランドを訪れていた金属工芸家・写真家のオッピ・ウントラクト(Oppi Untracht, 1922–2008)と出会います。オッピは後に金属工芸の古典的教本『Metal Techniques for Craftsmen』(1968)や『Jewelry Concepts and Technology』(1982)を著すことになる、当時から知られたメタルスミスでした。
2人は6年の交際を経て、1960年に結婚。サーラはヌータヤルヴィを離れ、ニューヨークに移住します。ニューヨーク時代(1960–1963)には、エナメルを焼き付けた銅の作品を数多く制作したとされています。透明なエナメル釉のなかに描く絵画的な仕事で、ガラスでも銀でもない第三の素材世界に足を踏み入れました。
1963年、ふたりはインドとネパールへ向かいます。1963年から1967年までの4年間、現地の工芸家たちのもとを訪ね、その仕事を写真と文章で記録する旅でした。オッピが後に著す金属工芸の教本『Metal Techniques for Craftsmen』には、この時期に取材したインドとネパールの伝統技法が収められています。
1967年、ポルヴォーへの帰還——家業の継承
Ossian Hopea Oyは、サーラにとってキャリア後半の重要な制作拠点となりました。1967年にインドから帰国したサーラは、夫オッピ・ウントラクトとともにポルヴォーに居を構え、家業の金細工の伝統を受け継ぎながら、銀ジュエリーや宝飾作品の制作に本格的に取り組んでいきます。父オッシアン・ホペアの死去年については資料間で表記に揺れがあるため、本記事では断定を避けます。
ポルヴォーの旧市街、石畳の坂道に面した工房で、サーラは自らも金細工を学び直し、銀のジュエリーをデザインし始めます。三代続いた家系の名「ホペア=銀」のもとに、ふたたびガラスから銀の素材へと舞台が移った瞬間でした。
銀、エナメル、テキスタイル——ポルヴォー帰還後の制作
1967年から亡くなる1984年まで、サーラの仕事は3つの領域に分かれます。ひとつめは銀のジュエリー。家業のOssian Hopea Oyを通して、ペンダント、リング、ブローチを継続的に発表しました。ふたつめはエナメル銅器。透明なエナメル釉を絵画的に重ねていく技法で、ニューヨーク時代から取り組んできた表現でした。みっつめがテキスタイル。1980年以降は健康上の理由でエナメルの炉を扱うことが難しくなり、染色とプリントの仕事に重心を移しました。
夫オッピは1968年に金属工芸の教本『Metal Techniques for Craftsmen』を、1982年に宝飾の総合教本『Jewelry Concepts and Technology』を出版します。これらの書物の写真や図版にはサーラのジュエリーが多数登場し、夫婦は工芸の理論と実践を二人三脚で残していきました。
晩年と評価——1981年ポルヴォー市文化賞、1982年国家工芸賞
1981年、ポルヴォー市は彼女に市文化賞を授与しました。翌1982年には、フィンランド政府から国家工芸賞(State Arts and Crafts Prize)を受けています。3代にわたって町に根付いた工芸の家系の継承者として、また自らも独自の領域を切り拓いた作家として、その仕事は二重の意味で評価されたものでした。
1984年、サーラ・ホペアはポルヴォーで亡くなります。59歳でした。1987年にはヘルシンキのデザイン博物館(Designmuseo)で回顧展が開かれ、翌1988年には夫オッピが編集した追悼書『Saara Hopea-Untracht: Life and Work(サーラ・ホペア=ウントラクト——生涯と仕事)』が出版されました。
現在、彼女の作品はヘルシンキのデザイン博物館、ポルヴォー博物館、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、ニューヨークの近代美術館(MoMA)、大英博物館などに所蔵されています。ポルヴォー博物館は、彼女の作品・資料を重要なコレクションとして所蔵していることで知られています。
日本との接点——2020–2022年の巡回展とコレクター市場での再評価
2020年から2022年にかけて、ヘルシンキ市立美術館(HAM)監修の「ザ・フィンランドデザイン展――自然が宿るライフスタイル」(英題:Finnish Design for Everyday Life – Patterns and Forms Inspired by Nature)が日本を巡回しました。鳥取県立博物館、北九州市立美術館、兵庫陶芸美術館、Bunkamura ザ・ミュージアムで開催され、1930年代から70年代を中心とするフィンランドデザインの歩みが、約250点の作品と約80点の関係資料によって紹介されました。
展覧会情報では、出品作家の一人としてサーラ・ホペア(Saara Hopea)の名も確認できます。ただし、公式ページで確認できる範囲では、個別の展示作品名や展示比重までは明示されていません。そのため本記事では、ホペアを同展の出品作家の一人として位置づけつつ、作品名までは断定しません。同展が取り上げた時代は、カイ・フランク、ヌータヤルヴィ、戦後フィンランドのガラスデザインが国際的に評価された時期と重なります。その文脈で見ると、ホペアの積み重ねタンブラーは、日本の北欧ヴィンテージ市場でも再評価されるべき重要な作品といえます。
銀の家系に生まれ、ガラスから銀へ、ニューヨーク、インド、ネパールを経てふたたび故郷ポルヴォーへ——彼女の歩みは、ひとつの素材や場所に縛られず、生涯を通して新しい技法を学び続けた工芸家の姿を描いています。日本の工芸文化が「素材ごとの専門性」を尊重するのに対し、サーラ・ホペアの軌跡は、もう一つの選択肢を示しています。
まとめ
サーラ・ホペアの生涯と仕事——要点のまとめ
- 1925年8月26日、フィンランド・ポルヴォーの金細工師の家に生まれた。父オッシアン・ホペア、祖父サミュエル・ミカ・ヴェステルルンドはともに金細工師。
- 1943–1946年、ヘルシンキの中央芸術工業学校でインテリアデザインを学んだ。
- 1946–1948年Majander Oy、1948–1952年Taito Oy(パーヴォ・テュネル)を経て、1952年にカイ・フランクの招きでヌータヤルヴィ・ガラス工房へ。
- 積み重ねタンブラーは1968年まで生産され、1954年と1957年のミラノ・トリエンナーレで銀メダルを獲得。
- 1960年にアメリカ人金属工芸家オッピ・ウントラクトと結婚し、ニューヨーク、インド、ネパールを経て1967年にポルヴォーへ帰還した。家業のOssian Hopea Oyを拠点に、晩年まで多素材で制作を続けた。
- 銀ジュエリー、エナメル、テキスタイルなど複数の領域を横断し、1981年ポルヴォー市文化賞、1982年フィンランド国家工芸賞を受賞。
- 1984年、ポルヴォーで没した。1987年にデザイン博物館で回顧展、1988年に夫オッピ編の追悼書『Saara Hopea-Untracht: Life and Work』が刊行された。
あわせて読みたい関連記事
関連商品をチェック
サーラ・ホペアと同時代のヌータヤルヴィ・ガラス工房やフィンランドのデザインを、当店で取り扱っているヴィンテージ作品からご紹介します。



