マリメッコ(Marimekko)完全ガイド|ウニッコと、フィンランドが生んだ「暮らし方」のデザイン——アルミ・ラティアからマイヤ・イソラ、日本人デザイナーまで
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マリメッコ(Marimekko)完全ガイド|ウニッコと、フィンランドが生んだ「暮らし方」のデザイン——アルミ・ラティアからマイヤ・イソラ、日本人デザイナーまで

大胆なケシの花、太いストライプ、原色の対比。ひと目で「マリメッコ(Marimekko)」とわかるあの世界は、1951年にフィンランド・ヘルシンキで生まれました。創業者のアルミ・ラティア(Armi Ratia)は、マリメッコを単なる服のブランドではなく、明るく自由な「暮らし方そのもの」として構想します。その精神は、テキスタイルから食器、店舗の空気にまで一貫して流れています。
マリメッコを世界的な存在に押し上げたのは、ケシの花の柄「ウニッコ(Unikko)」を1964年に生んだマイヤ・イソラ(Maija Isola)でした。ほかにもヴオッコ・ヌルメスニエミ(Vuokko Nurmesniemi)やアンニカ・リマラ(Annika Rimala)といった個性的なデザイナーが、それぞれの時代の空気を布の上に描いてきました。
そして、マリメッコと日本のあいだには、思いのほか深い縁があります。日本人として初めてマリメッコのデザイナーとなった脇阪克二(Katsuji Wakisaka)、32年にわたって在籍した石本藤雄(Fujiwo Ishimoto)——この記事では、ブランドの歴史と人物、そして食器の世界までを、ヘルシンキの街を旅するように、ゆっくりとたどっていきます。
この記事でわかること
- マリメッコ誕生の物語と、アルミ・ラティアが描いた「暮らし方のデザイン」
- ウニッコを生んだマイヤ・イソラと、個性あふれるデザイナーたち
- オイヴァ(Oiva)を中心とする、マリメッコの食器の世界
- 脇阪克二・石本藤雄をはじめとする、日本との深い縁
目次
- マリメッコとは——「布」から始まった暮らしのデザイン
- 創業の物語:アルミ・ラティアとプリンテックス
- 「マリメッコ的な暮らし方」とマリキュラの夢
- ウニッコの誕生——マイヤ・イソラと「花柄禁止」への反逆
- 個性あふれるデザイナーたち
- ジャクリーン・ケネディと、世界への扉
- 浮き沈みと再建——キルスティ・パーッカネンの時代
- マリメッコの食器——オイヴァと柄の世界
- 日本との深い縁——脇阪克二と石本藤雄
- ヘルシンキを旅する——本社ヘルットニエミとエスプラナーディ
- まとめ:マリメッコが愛され続ける理由
基本情報
| ブランド名 | マリメッコ(Marimekko) |
|---|---|
| 創業 | 1951年、フィンランド・ヘルシンキ |
| 創業者 | アルミ・ラティア(Armi Ratia)、ヴィリヨ・ラティア(Viljo Ratia) |
| 前身 | プリンテックス(Printex、1949年) |
| 本社 | ヘルシンキ・ヘルットニエミ(Herttoniemi) |
| 代表的な柄 | ウニッコ(Unikko)、ヨカポイカ、タサライタ ほか |
| 食器シリーズ | オイヴァ(Oiva、2009年)など |
| 上場 | ナスダック・ヘルシンキ(ティッカー MEKKO) |
マリメッコとは——「布」から始まった暮らしのデザイン
マリメッコは、フィンランドを代表するデザインハウスです。出発点はファッションでも食器でもなく、一枚の「布」、つまりテキスタイルでした。無地が当たり前だった時代に、大きく、明るく、簡潔な柄をプリントした生地を世に問い、その布で服をつくり、やがて暮らしの道具へと広げていきます。
その世界観の核にあるのは、「装飾のための装飾」ではなく、日々の気分を明るくするための色と形だという考え方です。一枚の布が部屋の空気を変え、一着の服が背筋を伸ばす。マリメッコの柄は、流行を追うよりも、見る人の心に小さな高揚をもたらすことを目指してきたといえます。

創業の物語:アルミ・ラティアとプリンテックス
物語は、第二次世界大戦後のヘルシンキから始まります。アルミ・ラティアの夫ヴィリヨ・ラティアは、1949年に繊維プリントの会社プリンテックス(Printex)を立ち上げました。当時のプリンテックスは、捺染した生地そのものを売る会社でした。けれども、無地のシンプルな布はなかなか売れません。
そこでアルミは、「布の魅力を伝えるには、その布でつくった服を見せればよい」と考えます。1951年5月、ヘルシンキのレストラン「カラスタヤトルッパ(Kalastajatorppa)」で開かれたファッションショーが大きな反響を呼び、これをきっかけにマリメッコ社が設立されました。社名は、フィンランド語で「マリ(Mari)」という女性の名前と「メッコ(mekko=ワンピース)」を組み合わせたものです。「マリのワンピース」——親しみやすい響きが、ブランドの性格をそのまま表しています。
アルミ・ラティア自身は、1912年にカレリア地方で生まれ、美術工芸の学校で学んだのち、繊維の製造技術にも通じていました。戦争で故郷を追われ、ヘルシンキで新しい暮らしを築いた彼女にとって、明るい色と大胆な柄は、戦後の世界に欠けていた「楽観と喜び」を取り戻す手段でもあったといえます。

「マリメッコ的な暮らし方」とマリキュラの夢
アルミ・ラティアがくり返し語ったのは、「マリメッコは服のブランドではなく、ひとつの生き方(way of life)だ」という考えでした。彼女自身、「マリメッコはモダンジャズでも、花屋でも、アイスクリーム店でもありえた」と語ったと伝えられます。大切なのは業態ではなく、暮らしに向ける明るく自由な姿勢だったというわけです。
その理想を形にしようと、1963年にはマリキュラ(Marikylä=「マリメッコ村」)という構想まで動き出しました。従業員が暮らし、ものづくりをし、「マリメッコ的な暮らし」を実験する理想郷を、建築家アールノ・ルースヴオリ(Aarno Ruusuvuori)とともに描いたのです。最終的に村の計画は実現に至りませんでしたが、ブランドを「暮らし全体のデザイン」としてとらえる発想は、現在のマリメッコにも受け継がれていると見ることができます。

ウニッコの誕生——マイヤ・イソラと「花柄禁止」への反逆
マリメッコの顔ともいえる柄が、ケシの花を描いた「ウニッコ(Unikko)」です。ウニッコとは、フィンランド語で「ケシ」「ひなげし」を意味します。生み出したのは、プリンテックス時代の1949年に最初の専属デザイナーとして加わったマイヤ・イソラ(Maija Isola、1927–2001)でした。
面白いのは、その誕生の経緯です。アルミ・ラティアは「自然の花にはかなわない」として、写実的な花柄を好みませんでした。これに対しイソラは、あえて挑むように、写実ではない様式化されたケシの花を1964年にデザインします。白地に咲く大きな花は発表されるや評判を呼び、半世紀を超えて愛され続ける柄になりました。アルミの「花柄禁止」がなければ、ウニッコは生まれなかったのかもしれません。

イソラの仕事はウニッコだけにとどまりません。生涯で500点を超える柄を手がけ、押し花から起こした「ルオント(Luonto)」、太陽や海をテーマにした連作、後年の「プリマヴェーラ(Primavera)」など、その引き出しは驚くほど広いものでした。旅と異文化への好奇心が、彼女の図案の源泉になっていたといえます。

個性あふれるデザイナーたち
マリメッコの魅力は、ひとりの天才ではなく、時代ごとに現れた個性的なデザイナーたちの集合によって育まれてきました。1953年から1960年まで在籍したヴオッコ・ヌルメスニエミ(Vuokko Nurmesniemi)は、イソラと並ぶ初期の立役者です。建築的とも評される簡潔で機能的な服づくりで知られ、細い縦縞の生地から生まれた赤白のシャツ「ヨカポイカ(Jokapoika)」は1956年に登場し、長く定番であり続けています。
1960年代から活躍したアンニカ・リマラ(Annika Rimala)は、1968年に太いボーダーのコットンジャージー「タサライタ(Tasaraita)」を発表しました。年齢や性別、体型を問わず誰もが着られる日常着として構想されたこの柄は、当時の自由で平等を求める空気と響き合い、いまもマリメッコを象徴する一枚になっています。

ジャクリーン・ケネディと、世界への扉
マリメッコがフィンランドの外へと知られるきっかけのひとつが、ジャクリーン・ケネディ(Jacqueline Kennedy)でした。1960年、夫ジョン・F・ケネディの大統領選挙の時期に、彼女は米マサチューセッツ州のブティック「デザイン・リサーチ(Design Research)」でマリメッコのワンピースを購入したと伝えられます。その鮮やかな装いは雑誌の表紙を飾り、アメリカ中の注目を集めました。
北欧の小さな国の、若いブランドの服を、次期ファーストレディが選んだ——この出来事は象徴的でした。以後、マリメッコの大胆な柄は1960年代のモダンな感性を体現するものとして、国境を越えて広がっていきます。
浮き沈みと再建——キルスティ・パーッカネンの時代
順風満帆に見えたマリメッコにも、苦しい時期がありました。1979年にアルミ・ラティアが世を去ると、創造の求心力が失われ、経営は次第に傾きます。1985年には大手グループの傘下に入りますが、再生の決め手にはなりませんでした。
転機は1991年に訪れます。広告業界で成功を収めていたキルスティ・パーッカネン(Kirsti Paakkanen)が、自らの会社を売却した資金でマリメッコを買い取ったのです。彼女は創業期の大胆で楽観的なデザインに立ち返り、ウニッコをはじめとする名作をふたたび前面に押し出しました。数年のうちに売上は大きく伸び、マリメッコは復活を遂げます。今日、ナスダック・ヘルシンキに上場する企業として歩み続けている背景には、この再建の物語があります。
マリメッコの食器——オイヴァと柄の世界
テキスタイルから始まったマリメッコは、やがて暮らしの道具へとデザインを広げ、食器もそのひとつになりました。中心になるのが、2009年に登場した「オイヴァ(Oiva)」シリーズです。白いストーンウェアのシンプルな器で、フォルムを手がけたのはサミ・ルオツァライネン(Sami Ruotsalainen)。もともとガラスの作家で、イッタラやARABIA、マリメッコの器の形を数多くデザインしてきた人物です。

このティーポットにのる黒い点描は、マイヤ・ロウエカリ(Maija Louekari)の手による柄です。彼女が裂き織りのラグから着想した「ラシィマット(Räsymatto)」を土台に、粗密の変化をつけて生まれたのが、家庭菜園を意味する「シイルトラプータルハ(Siirtolapuutarha)」でした。点描は種をまかれた菜園の風景を思わせ、白い器の余白と静かに響き合います。器の造形そのものを楽しむ一点として、当店でも紹介してきました(→北欧のコーヒーポット・ティーポット完全ガイド)。

食器にもウニッコは登場します。こちらは、マリメッコ創設50周年にあたる2001年に限定で世に出たカップ&ソーサーです。2001年はマイヤ・イソラが亡くなった年でもあり、フィンランド国内で製造された最後期のウニッコ柄として知られています。現行品が花を大きく散らすのに対し、この周年モデルは前後に一輪ずつを配し、白磁の余白を生かした静かな佇まいが特徴です。様式の異なるウニッコを並べて眺めると、柄の歴史が見えてきます(→北欧のカップ&ソーサー完全ガイド)。
日本との深い縁——脇阪克二と石本藤雄
マリメッコと日本のあいだには、二人の重要なデザイナーを通じた深いつながりがあります。ひとりは、京都生まれの脇阪克二(Katsuji Wakisaka)です。1968年にフィンランドへ渡り、日本人として初めてマリメッコのデザイナーになりました。在籍は1976年までで、子どもが描いたような車の柄「Bo Boo」などを残しています。その後アメリカを経て帰国し、2002年には「日本の新しい文化の創造」を掲げるブランド「SOU・SOU」の設立に加わりました。三つの国でデザインを続けてきた、稀有な歩みです。
もうひとりが、愛媛県出身の石本藤雄(Fujiwo Ishimoto)です。1974年にマリメッコに加わり、2006年までの32年間にわたって在籍し、400点を超える柄を生み出しました。さらに1989年からはARABIAのアート部門でも制作を行い、植物や果実をモチーフにしたレリーフの陶の作品を数多く手がけています。1994年にはカイ・フランクの名を冠したデザイン賞を、2010年にはフィンランドの功労に対するプロ・フィンランド勲章を受けました(→カイ・フランク(Kaj Franck)完全ガイド)。

日本でのマリメッコ人気も根強く、2016年から2017年にかけて東京・渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで、国内では初めてとなる大規模な巡回展「マリメッコ展 デザイン、ファブリック、ライフスタイル」が開かれました。ヘルシンキのデザイン博物館の所蔵品を中心に、ファブリックやヴィンテージのドレス、デザイナーのスケッチなど200点以上が並び、多くの来場者を集めました。フィンランドのデザインに親しむうえで、ARABIAやイッタラと並んでマリメッコが語られることも少なくありません(→ARABIAの花柄食器完全ガイド)。

ヘルシンキを旅する——本社ヘルットニエミとエスプラナーディ
マリメッコの心臓部は、ヘルシンキ東部の工業地区ヘルットニエミ(Herttoniemi)にあります。ここには本社が置かれ、テキスタイルの捺染やデザイン、店舗までが集まっています。淡い色の長い建屋に「marimekko」の文字が掲げられた光景は、ブランドのものづくりがいまも一か所に根を張っていることを感じさせます。

一方、街の中心では、目抜き通りエスプラナーディ(Esplanadi)の界隈にマリメッコの店舗が並びます。夏には公園の木陰を人々が行き交い、ショーウィンドウの鮮やかな柄が通りに彩りを添えます。フィンランドの自然——長い冬と短い夏、草原や森や湖——は、マリメッコの色と形を読み解くうえで欠かせない背景です。ヘルシンキを歩けば、マリメッコがなぜこの色を選んだのかが、少しだけ腑に落ちるかもしれません。
まとめ:マリメッコが愛され続ける理由
マリメッコが今も愛される理由
- 布から暮らし全体へ——一貫した「暮らし方のデザイン」という思想
- ウニッコに代表される、時代を超えて古びない大胆な柄
- イソラ、ヌルメスニエミ、リマラら個性的なデザイナーの層の厚さ
- オイヴァに見る、柄と造形が響き合う食器の世界
- 脇阪克二・石本藤雄に象徴される、日本との深い縁
マリメッコの歩みは、決して平坦ではありませんでした。創業者を失い、経営に苦しみ、それでも創業期の精神に立ち返ることで再び立ち上がってきました。変わらなかったのは、「暮らしを明るくする色と形」を信じる姿勢です。
一枚の布から始まり、服へ、器へと広がったその世界は、いまも私たちの部屋に小さな高揚を運んでくれます。ウニッコの一輪を眺めるとき、その背後には、ヘルシンキの街と、たくさんのデザイナーの手仕事の歴史が静かに重なっています。
よくある質問
Q. マリメッコとはどんなブランドですか?
A. マリメッコ(Marimekko)は、1951年にフィンランド・ヘルシンキで生まれたデザインブランドです。出発点は大胆な柄のテキスタイルで、そこから服、バッグ、インテリア、食器へと世界を広げてきました。単なるファッションブランドではなく、明るく自由な暮らし方を提案するデザインハウスとして知られています。
Q. ウニッコとは何ですか?
A. ウニッコ(Unikko)は、マイヤ・イソラ(Maija Isola)が1964年にデザインしたマリメッコを代表するケシの花柄です。大きく単純化された花の形と鮮やかな色づかいが特徴で、現在までマリメッコを象徴する柄として親しまれています。
Q. マリメッコの食器にはどんな特徴がありますか?
A. マリメッコの食器は、オイヴァ(Oiva)のようなシンプルな器の形に、ウニッコ、ラシィマット、シイルトラプータルハなどの柄を組み合わせるところに特徴があります。器そのものは日常的な形でありながら、柄によってテーブルの印象を大きく変えるのが魅力です。
Q. マリメッコと日本にはどんな関係がありますか?
A. マリメッコと日本には、脇阪克二や石本藤雄といった日本人デザイナーを通じた深いつながりがあります。脇阪克二は日本人として初めてマリメッコのデザイナーとなり、石本藤雄は32年間にわたって在籍し、多くの柄を生み出しました。日本でマリメッコ人気が根強い背景には、こうしたデザイン上の交流もあります。
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