ハワード・スミス完全ガイド|フィンランドで活躍したアフリカ系アメリカ人デザイナー
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この記事の要点
- ハワード・スミス(Howard Smith、1928〜2021)は、ニュージャージー州ムーアズタウンに生まれ、1962年にフィンランドへ渡ったアフリカ系アメリカ人のデザイナー・陶芸家・テキスタイル作家
- 1968年、ヴァリラ(Vallila)社で南アフリカの歌手ミリアム・マケバの名を冠した代表的なテキスタイル「Makeba」を発表
- 1986年からARABIA(アラビア)で陶磁器とアートピースをデザイン。鳥の陶人形「パルヴィ(Parvi)」、動物の「ラン・フリー(Run Free)」、装飾的な壺「Bacuba」などを残した
- 1988年、テルヴァコスキに陶芸家エルナ・アアルトネンとアトリエ「Arteos」を設立。1996年からフィスカルス村で晩年を過ごした
- 2001年フィンランド国家デザイン賞受賞。作品はAteneum Art Museum、EMMA(エスポー現代美術館)、LACMAなど複数の美術館・コレクションに収蔵されている
目次
ハワード・スミスとは——フィンランドで活躍したアメリカ出身デザイナー
ハワード・スミス(Howard Smith、1928年4月17日〜2021年2月4日)は、アメリカ・ニュージャージー州ムーアズタウンで生まれ、後半生をフィンランドで過ごしたデザイナー、陶芸家、テキスタイル作家、画家、そして版画家です。フィンランドの視覚文化に大きな足跡を残したアフリカ系アメリカ人アーティストとして、Vallila(ヴァリラ)社のテキスタイル、そしてARABIA社の陶磁器にも作品を残しました。
その仕事は陶磁器・テキスタイル・絵画・コラージュ・キルト・シルクスクリーン・パブリックアートにまたがり、ヨーロッパのモダニズム、アフリカのパターン、日本的な線描、そしてフィンランドの簡素な美意識を一つの視覚言語へと結びつけました。2001年にはフィンランド国家デザイン賞(Muotoilun valtionpalkinto)を受賞し、その作品はAteneum Art Museum、EMMA(エスポー現代美術館)、LACMAなど複数の美術館・コレクションに収蔵されています。
クエーカーの農場で生まれ育つ——ムーアズタウンの少年時代
2歳で母を失い、紙と鋏に救われた幼少期
1928年4月17日、ハワード・スミスはニュージャージー州ムーアズタウンに生まれました。父はクエーカー(フレンド派)が経営する農場で働く労働者で、母は彼が2歳のときに亡くなっています。早くに母を失った少年は、紙と鋏と鉛筆を与えられて、切り絵や落書きの中に自分の居場所を見つけました。後年スミスは、子どもの頃の自分が「紙とペンと鋏を与えられ、切ったり描いたりすることが好きになった」と振り返っています。
米陸軍ヨーロッパ駐留と帰国後の絵画学習
1949年から1958年まで、スミスはアメリカ陸軍に所属し、駐留地としてヨーロッパで時間を過ごしました。第二次世界大戦直後のヨーロッパで過ごした9年間は、後にフィンランドへ渡る彼の世界観を準備した時期でもありました。除隊後、1960年から1962年にかけてはフィラデルフィアのペンシルベニア美術アカデミー(Pennsylvania Academy of the Fine Arts、PAFA)で絵画を学びます。アメリカ最古の美術学校の一つで、メアリー・カサットやトマス・イーキンスといった作家を輩出した名門でした。
フィンランドへ——冷戦期の文化交流が開いた道
1962年、ヘルシンキの「Young America Presents」展
1962年夏、スミスのもとに一本の電話がかかってきました。友人ホセからの誘いで、ヘルシンキで開催される若いアメリカ人作家の展示「Young America Presents」に2週間以内に参加してほしい、という申し出でした。スミスは飛び立ち、北の街ヘルシンキに到着します。この催しは表向きにはアメリカ文化を紹介するイベントでしたが、後年、冷戦期の文化外交の一環としてCIAの資金提供を受けていたと報じられています。ソ連と国境を接するフィンランドにおいて、アメリカ文化を発信する一翼を担うイベントだったとされます。
マリメッコ創業者やパッラスマーが集う創造的コミュニティ
ヘルシンキに到着したスミスは、フィンランドの文化的中心にいた人々と次々に出会います。家具・テキスタイルデザイナーのアンッティ・ヌルメスニエミとヴオッコ・ヌルメスニエミ夫妻、マリメッコ創業者のアルミ・ラティア、建築家のユハニ・パッラスマー——後にフィンランド・デザインの代名詞となる名前が彼の周囲に集まっていました。フィンランドにおいて、スミスは数少ない黒人アーティストの一人でした。
ヴァリラ(Vallila)社——テキスタイルの仕事
ルディ・ベルナーとの出会いと25種のパターン
1967年、スミスはヘルシンキのヴァリラ絹工場(Vallilan silkkitehdas)でルディ・ベルナー(Rudi Berner)に出会います。ベルナーは当時ヴァリラのクリエイティブチームを率いた人物で、スミスはゾルタン・ポポヴィッツやエドワード・テルジバシャンと並んでこのチームに加わりました。スミスは翌1968年に25種類のパターンを次々と描き上げ、そのうち約半数が量産されました。Dixie、Hellekesä、Kukkatarhaなどは、現在もVallilaの歴史を語るうえで取り上げられるパターンです。スミスはまた1970年代にヴァリラのロゴ(大文字のVALLILA)もデザインしています。
1968年「Makeba」——ミリアム・マケバへのオマージュ
スミスの代表作の一つが、1968年に発表した花柄「Makeba(マケバ)」です。チューリップを大胆にデフォルメし、太い黒線で象ったこのパターンは、南アフリカ出身の歌手であり公民権・反アパルトヘイト運動家としても知られたミリアム・マケバ(Miriam Makeba、1932〜2008)の名を冠しています。スミスは後年、マケバの音楽と活動に惹かれ、その名を自作に贈りたいと考えた、という趣旨を語っています。
スミスは、花が人間の攻撃性とは無縁であり、デザインに穏やかな要素をもたらす、という趣旨を語っています。花を主題に選ぶことは、彼にとって意思表明でもありました。
一度離れ、再び戻る——ロサンゼルス時代(1976〜1984)
ヴァリラでの成功にもかかわらず、フィンランドでのスミスの暮らしは平穏ばかりではありませんでした。当時のフィンランドで黒人芸術家として暮らすことには孤立感がつきまとい、人種差別に直面することもありました。スミスは「黒人コミュニティの精神的なインプットが必要だった」と述懐しています。
1976年、スミスは美術史家のサメラ・ルイス(Samella Lewis)の支援を受けてロサンゼルスに移住します。クレアモントにあるスクリップス大学(Scripps College)で講師を務めながら作品制作を続けました。しかし1984年、彼は再びフィンランドに戻ります。アメリカ社会にも完全には収まりきらない感覚と、北の国の静けさが、彼を呼び戻したのかもしれません。
ARABIAの90年代を彩る——1986年以降
フィンランドに戻ったスミスは、1986年からヘルシンキ・トウコラ地区のARABIA工場に「招聘アーティスト」として迎え入れられ、約10年にわたって陶磁器のデザインに携わります。トウコラはARABIA社が1873年に創業した本拠地で、フィンチ、プロコッペ、カイピアイネン、ブリュック、トイニ・ムオナといった作家たちが代々アート部門を支えてきました。スミスはその系譜の中で、外から来たアーティストとして、ARABIAのアート部門に新しい表現を加えることになります。
パルヴィ(Parvi)——色とりどりの鳥たちの群れ
1990年代、スミスがARABIAで生み出した代表作の一つが「パルヴィ(Parvi=群れ)」シリーズの鳥の陶人形でした。緑、白、黒、黄色、青といった単色釉で覆われた、ふっくらとした体に小さな目を持つ陶磁器の鳥たちで、「Kaisa Tukaani」や「Lisa」など、それぞれに固有の名前が与えられた作品もあります。スミスのテキスタイルにも繰り返し登場する鳥のモチーフが、立体として結晶した作品群です。
ラン・フリー(Run Free)——草原を走る動物たち
「ラン・フリー(Run Free=自由に走れ)」と名付けられた動物の陶人形もまた、スミスがARABIAで残した代表的な作品の一つです。カバ、キリン、シマウマ、ウマといった大型動物が、デフォルメされた愛らしい姿で陶土に置き換えられました。アフリカのサバンナ的なモチーフを、北欧の白い磁器とシンプルな黒い装飾で表現した作品群は、彼の出自と移住先の双方が一つの陶人形の中に並存しているような印象を与えます。
バクバ(Bacuba)の壺——アフリカの幾何学を陶土に
そして装飾的な大壺の代表的な作品の一つが「Bacuba(バクバ)」です。中部アフリカ、コンゴ盆地に栄えたバクバ王国の織物——草の繊維で編まれ、幾何学的なパターンが施されたラフィア布——への参照を含む名で、円柱状の壺の表面に、黒い直線と曲線、点で構成された抽象パターンが描かれています。「ヨーロッパのモダニズム、アフリカのパターン、日本の線描、フィンランドのデザイン」と評されるスミスのスタイルが、最も鮮明に現れた作品の一つです。
テルヴァコスキとフィスカルス——終の住処
1988年、Arteosスタジオ
1986年、ARABIA社の色彩研究室で働いていた陶芸家エルナ・アアルトネン(Erna Aaltonen)と出会い、二人はARABIAでの仕事を続けながら、1988年にヘルシンキから北へ車で約1時間の小村テルヴァコスキ(Tervakoski)に小さな陶芸工房「Arteos」を設立しました。1991年に二人は正式に結婚します。テルヴァコスキは19世紀から続く製紙の町で、製紙工場の煉瓦造りの建物群と、ボイラーの蒸気が立ち上る景観が今も残る静かな村です。
芸術家村フィスカルスへ
1996年、二人はより広い工房を求めて、ウーシマー県の小さな村フィスカルス(Fiskars)に移り住みました。17世紀に製鉄所が築かれて以来の工業の村は、1980年代以降、職人や芸術家たちが空いた工場や倉庫を再利用するアーティストヴィレッジへと再生していました。スミスはここで生涯最後の四半世紀を過ごし、2021年2月4日、92歳で自宅で亡くなりました。
2001年フィンランド国家デザイン賞——遅れて訪れた評価
2001年、スミスはフィンランド国家デザイン賞(Muotoilun valtionpalkinto)を受賞します。長年北欧デザインの第一線で仕事を続けながら、母国アメリカでは長く広く知られないままだった作家への、フィンランドからの公的な敬意の表明でした。亡くなった2021年、アメリカではLACMAの学芸員によるブログ追悼が掲載され、彼の存在は故国でようやく「再発見」されつつあります。2025年には、パームスプリングス美術館で回顧展「The Art and Design of Howard Smith」が開幕し、2026年2月23日まで開催されます。さらにEMMA(エスポー現代美術館)では、2026年9月9日から2027年2月7日までハワード・スミス展が予定されています。
アフリカ、ヨーロッパ、日本、フィンランドが溶け合うデザイン言語
スミスの作品の特徴は、しばしばこう要約されます——「ヨーロッパのモダニズム、アフリカのパターン、日本の線描、そしてフィンランドのデザインを、一つの視覚言語へと結びつけた」。とりわけ彼の陶磁器に見られる、白い磁器の上に走る黒い一筆書きのような線描は、書や水墨画を思わせる軽やかさを持っています。アフリカ系の出自と、フィンランド・モダニズムの文脈の中で、東洋の余白の美が独自の形で結晶しました。北欧と日本の美意識の親和性(簡素、用の美、自然のモチーフ)を語るとき、スミスの作品はその交差点を体現する一例です。
スミスの作品は、ARABIAの大量生産ラインに乗ったプロダクトと、アトリエで一点ずつ仕上げたアート陶器、テキスタイル、彫刻、版画、キルトなど、多様な領域に広がっています。フィスカルスのアトリエでは、晩年まで陶土を扱い続けました。フィンランドという小国にとって、彼の存在は「迎え入れた異邦の創造者がもたらした豊かさ」のひとつの象徴であり、北欧デザインを考えるうえで、いま改めて注目される作家の一人です。
まとめ
ハワード・スミスを覚えておきたい5つのポイント
- 1928〜2021、ニュージャージー州ムーアズタウン生まれのアメリカ系フィンランド人デザイナー。クエーカー農場の家庭に育ち、米陸軍ヨーロッパ駐留を経てペンシルベニア美術アカデミーで学んだ
- 1962年、「Young America Presents」展に招かれてフィンランドへ。マリメッコ創業者やヌルメスニエミ夫妻ら、戦後フィンランド・デザインの中枢にあった人々と出会った。後年、この展覧会は冷戦期の文化外交の一環としてCIAの資金提供を受けていたと報じられている
- 1968年、ヴァリラ社で代表的なテキスタイル「Makeba」を発表。歌手ミリアム・マケバへのオマージュとして名付けられた花柄で、現在も再生産が続く
- 1986年からARABIAで陶磁器をデザイン。鳥の陶人形「パルヴィ」、動物の「ラン・フリー」、装飾的な壺「Bacuba」など、多くの作品を残した
- 1996年からフィスカルス村で創作活動を続け、2001年フィンランド国家デザイン賞を受賞。作品はAteneum Art Museum、EMMA、LACMAなど複数の美術館・コレクションに収蔵されている
ヨーロッパのモダニズム、アフリカの幾何学、日本の墨の線、そしてフィンランドの簡素な美意識——いずれの単独の伝統にも属さず、いずれをも吸収して固有の言語を作り上げたハワード・スミスのデザインは、北欧ミッドセンチュリーを、国境を越えた視覚文化の交差点として見直す手がかりになります。ARABIAのバックスタンプに小さく刻まれた彼の名前を見つけたとき、その線と色の背景にある、一人の作家の移動と制作の歩みにも目を向けてみてください。