ゴラン・ホンゲル完全ガイド|フィンランドのガラス工場が迎えた最初期のデザイナー——アールネを生んだイッタラ・カルフラの先駆者
北欧食器タックショミュッケ編集部スウェーデン・フィンランドから北欧ヴィンテージ食器を直接買い付け、1,000点以上を検品してきた当店が、一次情報と実物の観察にもとづいて執筆・編集しています。
Share
この記事の要点
- ゴラン・ホンゲル(Göran Hongell, 1902–1973)は、ヘルシンキに生まれたフィンランドのガラスデザイナーです。装飾画家として出発し、のちにガラスの世界へ移りました。
- 1932年にカルフラ=イッタラのガラス工場に迎えられ、フィンランドのガラス工場が専属で招いた最初期のデザイナーの一人として知られます。
- 代表作は1948年にデザインされた「アールネ(Aarne)」。脚まで一体で成形する構造をもつ厚手のグラスで、1954年のミラノ・トリエンナーレで金賞を受けました。
- 母ヒルダ・ホンゲルは、フィンランド最初の女性「建築親方(byggmästare)」として記録される人物です。
- ホンゲルは、のちにイッタラの黄金期を築くタピオ・ヴィルカラやティモ・サルパネヴァ、カイ・フランクに先立つ「先駆世代」に位置づけられます。
ゴラン・ホンゲル——フィンランドのガラスに、デザイナーの視点を持ち込んだ先駆者
ゴラン・ホンゲル(Göran Hongell, 1902–1973)は、フィンランドのガラスデザイナーです。本名はハンス・ゴラン・アンドレアス・ホンゲル(Hans Göran Andreas Hongell)。名字はフィンランド・スウェーデン系で、「ヨーラン」に近い発音でも呼ばれますが、日本では「ゴラン・ホンゲル」の表記が広く使われています。
フィンランドのガラスといえば、多くの人がタピオ・ヴィルカラやティモ・サルパネヴァ、カイ・フランクといった戦後の巨匠を思い浮かべます。けれども、その巨匠たちがイッタラで腕をふるう前に、ガラス工場の造形にデザイナーの視点を持ち込んだ人物がいました。それがゴラン・ホンゲルです。彼は装飾画家として出発し、1932年にカルフラ=イッタラのガラス工場へ招かれ、量産ガラスの造形を一手に整えていきました。
本記事では、当店ブログの「イッタラ村の歴史」や「カイ・フランク完全ガイド」を補う形で、フィンランド・ガラスの「先駆世代」に立ったホンゲルの歩みと、彼が残した名作「アールネ」をたどります。なお、ホンゲル本人の肖像写真は自由に使える形ではほとんど残されていません。そのため本記事では、彼が生きた土地とガラスの風景をたどりながら、その仕事の輪郭を描いていきます。
目次
フィンランドのガラスの村——カルフラとイッタラ
ホンゲルの仕事を理解するには、まず彼が身を置いた2つのガラス工場の地理を知るのが近道です。カルフラ(Karhula)とイッタラ(Iittala)。この2つは離れた土地にありながら、ホンゲルの時代にはひとつの会社として結ばれていました。
南東の港町カルフラと、内陸のイッタラ村
カルフラは、フィンランド南東部の港町コトカ(Kotka)の一区画です。19世紀末から大規模なガラス生産が根づき、瓶やプレスガラスといった実用ガラスの一大産地として発展しました。海に面した工業の町で、原料や製品を船で運ぶには好都合な立地でした。
一方のイッタラは、内陸のハメーンリンナ(Hämeenlinna)に属するカルヴォラ(Kalvola)地区の小さな村です。1881年、スウェーデン出身のペテル・マグヌス・アブラハムソンによってガラス工場が開かれ、村はその工場を中心に育ちました。イッタラ村の歴史は、当店ブログの「イッタラ村の歴史」で詳しくたどっています。
ひとつの会社になった2つの工場
1917年、カルフラのガラス工場を擁するアールストローム(Ahlström)社がイッタラのガラス工場を買収します。2つの工場は「カルフラ=イッタラ」としてひとつの経営体にまとまりました。1937年には生産の役割分担が整理され、イッタラ工場は手吹きのガラスを、カルフラ工場は自動成形やプレスガラスを担う、という形になります。
ホンゲルが1932年に迎えられたのは、このカルフラ=イッタラの体制の中でした。実用ガラスを大量に生み出すカルフラの現場と、手仕事のイッタラ。その両方の性格を持つ会社が、彼の活躍の舞台となりました。
基本情報——ゴラン・ホンゲルという人
| 氏名 | ゴラン・ホンゲル(Göran Hongell)/本名 Hans Göran Andreas Hongell |
|---|---|
| 生没 | 1902年9月6日ヘルシンキ生まれ、1973年7月27日ヘルシンキ没 |
| 出身国 | フィンランド |
| 学び | ヘルシンキ中央芸術工業学校(装飾画、1922年卒業) |
| 主な活動先 | カルフラ=イッタラ・ガラス工場(1932年〜、専属化は1940年) |
| 代表作 | アールネ(Aarne、1948年)/ホンゲルの帽子(Hongellin hattu、1941年)/シルコ・セーデ・マイニンキ |
| 主な受賞 | パリ万博銀賞(1937年)/ミラノ・トリエンナーレ金賞(1954年)/プロ・フィンランディア勲章(1955年) |
装飾画家からガラスへ——ホンゲルの出発点
ゴラン・ホンゲルは1902年9月6日、ヘルシンキに生まれました。彼の家系には、造形と建築に関わる血が流れています。母ヒルダ・ホンゲル(Hilda Hongell, 1867–1952)は、フィンランド最初の女性「建築親方(byggmästare)」として記録される人物でした。オーランド諸島のマリエハムン地区で98棟の建物を手がけ、そのうちおよそ44棟が今も残るといわれます。フィンランド語版の資料では、両親そろって建築親方だったと記されています。なお「最初の女性建築家」という称号は、別の人物シグネ・ホルンボリに帰されるべきもので、ヒルダは「建築家」ではなく「建築親方」でした。
ゴラン自身は、はじめからガラスの人だったわけではありません。彼が学んだのは装飾画で、1922年にヘルシンキの中央芸術工業学校を装飾画家として卒業しています。卒業後は同窓のグンナル・フォルストロム(Gunnar Forsström)とともに装飾画のスタジオを構え、ポスターや公共空間の装飾画を手がけていました。絵から出発した造形家だったことは、のちに彼がガラスの表面や光の反射をどう扱ったかを考えるうえで、見逃せない出発点になります。
1932年、ガラス工場が迎えた最初期のデザイナー
1932年、ホンゲルはカルフラのガラス工場に招かれます。フィンランド語版の資料によれば、このときの立場は「パートタイムの芸術顧問」でした。彼の職が専属となったのは1940年のことです。ガラス工場が造形の専門家をデザイナーとして迎えるという発想そのものが当時は新しく、ホンゲルはフィンランドのガラス工場が専属で招いた最初期のデザイナーの一人として知られます。しばしば「ガラス工場に雇われた最初のデザイナー」とも紹介されますが、この最上級の言い回しは資料によって幅があるため、本記事では「最初期の一人」として押さえておきます。
初期のホンゲルの仕事は、華やかな新作の発表というより、既存の型を量産に耐えるかたちへ整えていく作業でした。形を簡潔にし、型の地紋を変え、寸法を見直す。地道な合理化の積み重ねです。同時に彼が大切にしたのが、デザイナーと吹き手の職人が同じ現場で対話することでした。自分の図面を工房へ持ち込み、この形は吹けるのか、この厚みは可能か、と職人に確かめながら形を決めていく。デザインと製造を切り離さないこの姿勢は、のちのフィンランド・ガラスの強みへとつながっていきます。
シルコ、セーデ、マイニンキ——量産ガラスの造形
ホンゲルがカルフラのために手がけたガラスの中には、プレスガラス(型で成形するガラス)の重ね置きできるシリーズがありました。「シルコ(Silko)」「セーデ(Säde)」「マイニンキ(Maininki)」です。これらはおおむね1937〜1938年ごろにデザインされ、1930年代後半から生産に入りました。シルコは長く作り続けられたシリーズとして知られます。
ここで押さえておきたいのは、これらが当時カルフラの工場で作られたガラスだという点です。イッタラ工場ではなく、実用ガラスを担うカルフラの現場から生まれました。装飾を削ぎ落とし、重ねて仕舞えるように整えられたこれらのシリーズは、専属デザイナーが工場のために造形を担うという、当時のフィンランドでは新しい仕事のかたちを示すものでした。華やかな一点ものではなく、数多く作られ、広く行き渡る日々のガラス。その造形にデザイナーの目を通す——それがホンゲルの初期の役割でした。
ホンゲルの帽子(Hongellin hattu)——彫刻的なガラスへ
量産ガラスの造形を整える一方で、ホンゲルは彫刻的なガラスにも取り組みました。1941年にデザインした「ホンゲルの帽子(Hongellin hattu)」は、彼のアートガラスの代表作として語られる作品です。名前のとおり帽子を思わせるかたちをした造形で、実用の器とは異なる、ガラスそのものの塊としての存在感を追求しています。
実用と彫刻。この2つの方向を一人の中に併せ持っていたことは、ホンゲルという人を理解するうえで見落とせません。工場の量産を支える簡潔な造形と、素材そのものと向き合う彫刻的なガラス——のちにヴィルカラやサルパネヴァが大きく開花させる「アートガラス」の芽は、すでにこの先駆世代の中に芽吹いていました。上の写真は同時代のフィンランドの装飾ガラスの一例で、ホンゲル本人の作品ではありませんが、彼が身を置いた時代のガラスの空気を伝えます。
アールネ(Aarne)——「単一工程」の脚が生んだ名作
ホンゲルの名を今日まで伝えているのが、「アールネ(Aarne)」です。1948年にデザインされました(資料によっては最初のステムグラスの登場を1949年とするものもあります)。ニューヨーク近代美術館(MoMA)は、このアールネのグラスを「Karhula-Iittala Glassworks 製、ターン・モールド吹き」として収蔵しています。つまりアールネは、のちにイッタラの名で広く親しまれることになりますが、その出発点はカルフラ=イッタラという合同の体制の中にありました。
アールネの造形上の核心は、脚(ステム)の作り方にあります。厚くどっしりとした脚を、ボウルと同じ一つの工程で成形する——「単一工程のステムグラス」として語られる、当時としては新しい構造でした。細く華奢なワイングラスとは対照的に、太く重い脚と簡潔な直線的なボウルが、量産に強くしかも彫刻的な存在感をもつ形を生み出しています。クリアなガラスに、光がまっすぐ通り抜けます。
アールネには、シャンパングラス、カクテルグラス、オン・ザ・ロック用、タンブラーなど複数のバリエーションが展開されました。長く生産が続き、イッタラを代表するグラスのひとつとして知られてきた名作です。真贋や年代を裏面の刻印から読み解く手がかりは、当店ブログの「イッタラのロゴ・バックスタンプ年代別完全ガイド」にまとめています。
なお、アールネそのものを写した自由に使える写真は見当たらないため、本記事では同時代のイッタラ工場の風景でその背景を補っています。上の1950年の写真に写るグラスはアールネではありませんが、アールネもまた、こうしたイッタラの工場で、職人の手と検品の目を通して世に送り出されました。
1954年、ミラノ・トリエンナーレの金賞
1954年、ゴラン・ホンゲルが手がけたアールネは、第10回ミラノ・トリエンナーレで金賞を受けました。これがホンゲルにとって、もっともよく知られた国際的な栄誉となりました。
1951年と1954年のミラノ・トリエンナーレは、フィンランド・デザインが世界に認められる転機として語られる場です。1954年の回では、ティモ・サルパネヴァやタピオ・ヴィルカラといった若い世代のガラスも高い評価を集めました。ホンゲルのアールネの金賞は、その大きな潮流の中に位置づけられます。装飾画家として出発した一人のデザイナーが工場のために整えてきた、簡潔で強いガラスの造形が、国際的な舞台で評価された瞬間でした。
先駆世代から黄金世代へ——ホンゲルが築いた土台
ホンゲルは、フィンランド・ガラスの歴史の中で「先駆世代」に位置づけられます。彼が工場に迎えられた1932年は、タピオ・ヴィルカラやティモ・サルパネヴァがイッタラで頭角を現す、およそ20年前のことでした。ヴィルカラがイッタラの芸術面を率いる立場に立つのは1954年ごろとされ、ホンゲルはその前の時代に、デザイナーが工場で造形を担うという土台を用意していたことになります。
戦後のホンゲルは、アールストローム社全体の芸術面を統括する役割を担い、およそ四半世紀にわたってこの会社のガラスに関わりました。彼が受けた栄誉には、1937年のパリ万博での銀賞、そして1954年のミラノ・トリエンナーレでの金賞に加えて、1955年にはフィンランドが芸術・文化への貢献に贈るプロ・フィンランディア勲章があります。
ホンゲルが整えた「量産に耐え、簡潔で、しかし造形として強い」というガラスの方向性は、次の世代へと受け継がれていきました。装飾を極限まで削ぎ落としたカイ・フランクの仕事は、その系譜のもっとも純度の高い到達点のひとつです。フランクの歩みは「カイ・フランク完全ガイド」で、サルパネヴァについては「ティモ・サルパネヴァ完全ガイド」で詳しくたどっています。ホンゲル(先駆世代)から、ヴィルカラ・サルパネヴァ・フランク(開花世代)へ——この流れを知ると、イッタラのガラスの見え方が変わってきます。
日本とフィンランド・ガラス——アールネが海を越えて
正直に述べると、ゴラン・ホンゲル本人と日本を直接に結ぶ記録は見当たりません。彼の生涯に、来日や日本での展覧会、日本からの影響といった記述は確認できませんでした。それでも、ホンゲルが残したアールネは、時代を経て日本に届いています。
アールネは日本のデザイン愛好家のあいだでも知られる存在です。イッタラのガラス全体を見ても、日本は厚い支持を寄せてきた市場です。2021年にイッタラが創業140周年を迎えた際に企画された展覧会「Iittala – Stars of Finnish Glass(フィンランド・ガラスの星たち)」は、その巡回の一環として、2023年に長崎県美術館で開催されました。およそ450点の作品とスケッチが並び、フィンランド・ガラスの歴史が日本の観客に紹介されました。
フィンランド・ガラスと日本の縁をたどるなら、そのもっとも太い糸は、ホンゲルではなくカイ・フランクにあります。フランクは日本を繰り返し訪ね、その造形観に日本の器や美意識との響き合いを見た人物でした。装飾を削ぎ落とし、用の形そのものに美を見いだすフィンランドの姿勢と、日本の柳宗悦が説いた「用の美」——異なる土地で育ちながら、同じ方向を向いた思想です。ホンゲルがアールネで示した、簡潔で飾らないガラスの強さも、その文脈の中で読み直すことができます。
まとめ——先駆的なデザイナーが残したもの
要点の整理
- ゴラン・ホンゲル(1902–1973)はヘルシンキ生まれのフィンランドのガラスデザイナー。装飾画家として出発し、1922年に中央芸術工業学校を卒業した。
- 母ヒルダ・ホンゲルは、フィンランド最初の女性「建築親方」として記録される人物。
- 1932年にカルフラ=イッタラのガラス工場へ迎えられ、フィンランドのガラス工場が専属で招いた最初期のデザイナーの一人となった。
- 代表作アールネ(1948年デザイン)は、脚まで一体で成形する構造をもつ厚手のグラス。1954年のミラノ・トリエンナーレで金賞を受けた。
- パリ万博銀賞(1937年)、プロ・フィンランディア勲章(1955年)などを受けた。
- ヴィルカラ・サルパネヴァ・フランクら黄金世代に先立つ「先駆世代」として、工場デザインの土台を築いた。
華やかな一点ものよりも、量産の現場で数多く作られるガラスの造形を整える——ゴラン・ホンゲルの仕事は、しばしば黄金世代の巨匠たちの影に隠れがちです。けれども、フィンランドのガラス工場にデザイナーの視点を持ち込み、デザイナーと職人が同じ現場で形を練る文化を根づかせたのは、まぎれもなく彼の世代でした。
アールネのグラスに光を通すと、その太い脚とまっすぐなボウルの向こうに、カルフラの港、イッタラの村、そして図面を手に工房へ足を運んだ一人の装飾画家の姿が、薄く重なって見えてきます。フィンランド・ガラスの近代的な物語は、この先駆的なデザイナーの世代から大きく動き出しました。
あわせて読みたい関連記事
当店の北欧ヴィンテージ食器
北欧から直輸入したヴィンテージ食器や北欧雑貨を、状態を確認したうえでご紹介しています。1万円以上送料無料。